ナスの揚げ浸し
「今日のお通し、すっごく贅沢じゃない」
悦子が目を輝かせた。
「ああ、昨日は白子ポン酢がほとんど出なかったからな」
「プレミアムフライデーだったのに?」
「そんな呼び名、全然定着しなかったろ」
「そうだねえ」悦子は笑った。
「お前こそなんで土曜なのにうちの店に来てるんだよ」
「あ、これからユカと待ち合わせなの」
店主は悦子の学生時代に、そんな名の友達がいると聞いていた。
「あっそ。なんならここで飲んで下さっても」
「いやよ。ユカはお酒ほとんど飲めないし、おしゃれなお店で晩ご飯食べるんだから」
「ちぇ」
「それよりも食材はちゃんと考えて仕入れなよ。客単価考えてる?」
「月末の金曜なんで、客の財布のひもが緩いかと思ったんだよ」
「……お客様のニーズを考えた仕入れをしなよ」
「うるせえよ。安かったんだよ」
「これだから脱サラ経営者は……」
そう言いながら悦子は白子を摘まんだ。
「うん、おいひー!」
「美味いもの出して文句を言って、お通しだけで帰るっていいご身分だな」
「何よー」
その時、入り口の開き戸がカラリと開いた。
「あの、一人なんですけど」
「いらっしゃい。カウンターでどうぞ」
入ってきたのは二十代半ば前後と思しき若い女。いつもの年寄り二人の隣に悦子、そして一人分の席を置いてそこにその女が座る。
年寄りも店にいた男客も息を呑んだ。華やかな容貌が男たちの目を惹いた。
「なんかすっげえ美人だな」
「アイドルみてえだな」
老人二人すら感心して女の顔に見入っていた。
悦子は「ジロジロ見たら失礼よ」と少し不機嫌そうに釘を刺す。
「ご注文は」
「レモンサワーをお願い」
「あいよ」
女は店を見渡すと、店主に聞いた。
「ここのお店、店長さんだけでやっているんですか」
「ええ、うちは俺ひとりで切り盛りしています」
「へえ……大変そうですね」
「まあそんなに客もいないんで」
そう言いながらキンミヤ焼酎に手際よくカットしたレモンを搾り、レモンサワーを作る。
「わあ。キンミヤのサワーですね」
「この酒は甲類焼酎ではいちばん悪酔いしないんで」
「あ、そうなんですか」
「まあ俺の持論ってだけですが」
「お客さん思いなんですねぇ」
女の前にレモンサワーと白子ポン酢を置いた。
「へい、お待ち。お通しとレモンサワー」
「……これ、お通しですか?」
「あ、料理に何か?」
「ごめんなさい……」女は困った顔で笑う。「私、生もの食べられなくて。すみませんけど、下げてもらえますか」
「あ、そうですか」店主は少し考える。「お客さんは、ナスは食べられますか?」
「ええ」
店主はお通しの小鉢を下げると、代わりに一品料理のナスの揚げ浸しを持ってきた。
「ありがとうございます」
女は出てきた料理を見て感心する。出汁醤油に浸かった揚げナスが、店の照明で色鮮やかに紫に煌めいている。
「きれいな揚げ色。揚げナスをこんなにきれいな紫色にするのは難しいんですよね」
女は目を輝かせてそれを口に運んだ。
「うん、油っぽくないし、味も染みてます。さすがプロの技ですね」
「そりゃどうも」
店主は素っ気なく礼を言う。
悦子はそれを見て口を尖らせる。
「何よー。あたしの時は苦手なものも交換してくれないのにー。美人は特別扱いかよ」
「俺が特別扱いするのは一見さんだけだ」
「本当かよ」
「あはは、すみません」
女が苦笑して、悦子は「あ、いえ」と会釈する。
「はあ。もう帰るね。ごちそうさま」
「毎度」
気の抜けた表情で悦子は千円札を渡すと、帰って行った。
女はナスを味わった後、店主に聞く。
「さっきの人、彼女さんですか」
「いや、元会社の同僚で」
「え、同僚?」
それを見ていたロクは女に説明する。
「お嬢さん、この大将は脱サラしてこの店を始めたんだよ」
「へえ……会社勤めだったんですか」そう言うと悪戯っ子のような顔をして笑う。「なら聞いちゃおうかな」
「え?」
「ね、このナスどうやって作るんですか」
「えっと?」店主は怪訝そうな顔をする。
「家でナスを揚げてもこんな色にならないし、油を吸ってくどくなっちゃうの。コツを教えてくれない?」
「コツって言われても」
「どうやったらこんな色に揚がるのかしら。教えて、お願い」
拝むように手を合わせる女に、後ろのテーブル席で聞き耳を立てていた客がはやし立てる。
「教えてやれよ、大将。せっかくの美人の頼みなんだからさ」
「そうだろ、減るもんじゃないし」
店主は肩をすくめると、女に説明した。
「揚げ油は百八十度以上の高温で揚げるんですよ。揚げ時間はおよそ一分程度」
「一分? それだけでいいの?」
「もちろんナスの大きさや厚みにもよるけどね」
そう言うと、店主は女に苦笑する。
「おたく、同業者だろ」
「え……」女は驚いた表情を見せて苦笑した。「わかっちゃった?」
「酒に詳しいし、小鉢を出したときに目の色が変わったもんで」
「そっか」
店主は口にはしなかったが、女の所作には玄人じみた艶がある。少なくとも昼の商売で生きている人間のそれではない。
「ということで、レシピの解説は今日だけの一見さんへのサービスだ」
「あー、残念。初回サービスかぁ……」
「こういう料理のコツはネットで根気よく調べたら出ているから、自分で調べなよ」
「そうね。ありがとう」
源とロクも会話に口を挟む。
「なんだよ、姉ちゃんも居酒屋やっているのか。旦那が板前か何かなのか」
「いえ、私は……」女は苦笑した。「知り合いがやっているスナックで働いてるの」
「ほう」ロクが無遠慮に尋ねる。「チーママかい?」
「そう、チーママ」
レモンサワーを一口飲んで言葉を繋ぐ。
「先週からママが入院しちゃったの。そこで出しているお惣菜が好評なんだけど、私じゃ上手く作れなくて」
「ほう……」
テーブル席で飲んでいた客たちが騒ぎ出す。
「なんて店なんだい、教えてくれよ」
「こんど行ってみようかな」
酔客たちの言葉に、源とロクが顔を見合わせる。もし女が名刺などを配り始めたら注意するつもりだった。
少なくともこの店で他の店の勧誘などやって欲しくない。店主も面白くないだろう。
せっかく気分良く飲んでいるのだから、その雰囲気を壊して欲しくない。
そんなカウンター客の気配を読んだのか、女は笑って言った。
「すみません。さすがに商売の仁義ってものがありますから、私がここで店をお教えするのは、ちょっと」
「なんだよ、教えてくれないのかよ」
「仁義って古めかしい言葉知ってるね」
「私も気持ちよく飲める店を失いたくないし」と言ってふふっと笑った。「この店でまだまだお料理を味わってみたいので」
「じゃあ名前だけでも教えてよ」
「名前?」女はにっこりと笑う。「山田花子よ」
「なんだそのあからさまな偽名は」
酔客たちが苦笑する。
「源氏名ってことで」
花子は笑った。店主も苦笑する。
「花子さん。あんた、今日はもう帰りたいんだろ」
「あら……顔に出てました?」花子が少し決まり悪そうに言う。
「帰ってさっそく揚げナスを試してみたいって顔をしている」
「ありがとう。お勘定をお願いします」
花子は金を払って帰って行った。
「まあ客が増えるのはいいことだ」
「特にあんな美人がいると、酒が美味いしな」
酔客たちの好き勝手な会話を聞きながら、店主は思う。
あの女、きっといろいろあってスナックで働いているんだろう。ああいう美人はキャバクラかクラブで働くものだ。
花子には人目を惹く独特の雰囲気がある。ああいう雰囲気を醸し出すには、他人から注目を集めた経験がなければ出せないものだ。
あれは男には好かれるが、女に嫌われる女だ。たぶん悪い人柄ではないのだろうが、女はああいった男から注目を集める同性を嫌う。きっと人間関係で苦労してきたんだろう。
あの女がまた来て悦子の機嫌が悪くならないかを心配し、店主はそんなことを気にする自分に苦笑した。
ナスを揚げるときは半分に切って皮に切り込みを入れて揚げると上手くいきます。