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エッセイ集

キリスト教と儒教は統治に便利であるという理由もあったが国教となる経過はぜんぜん違うようだ

作者: 水源

 儒教が論語の精神はうわべばかりで仁義礼智信というものを支配者にも被支配者にも求める高尚な精神をうたいながら、結局は己の立身出世のための手段でしかなくなり、実用的でない根拠も少ない婚儀や葬儀などの儀式の期間を守る形式に走り、どんな愚鈍な君主でもまつりあげる権威主義に陥ったのはなぜか。


 それは漢の高祖劉邦が詩文の権威付けのために叔孫通(しゅくそんとう)という人物を用いたのが最大の原因だと思う。


 この人物は最初秦に仕え二世皇帝胡亥の時に陳勝が蜂起すると、二世皇帝が儒者を呼び出して意見を尋ねたのですが「人臣に未遂というものはありません。反乱をしようと思った時点で反乱をしたのと同じです。急ぎ兵を出して反乱者を討つべきです」と答えると、二世皇帝はそのものに対して怒りました。


 そして叔孫通は「かの者の言うことは誤りであります。天下が一家となると、城壁を破壊し武器を溶かしてこれらを使わないことを示しました。名君が上におり、法令が整っているのだから、どうして反乱者などおりましょう。これは盗賊が群れを成しただけであり、どうして憂う必要がありましょうか」と言って追従しました。


 二世皇帝胡亥は陳勝を反乱と言った者を獄に下し、盗賊と言った者は助け、叔孫通には褒美を与え、首席博士としました。


 現実を捻じ曲げて彼はおべんちゃらを言ったわけですね。


 その後、項梁が薛へ来ると叔孫通は彼に従い、項梁が敗れると懐王に従い、項羽が懐王を義帝として長沙に遷すと、叔孫通は項羽に仕え、劉邦が諸侯を従えて楚の都彭城を落とすと、叔孫通は劉邦に降伏した。


 劉邦は儒者を憎んでいたのですが、叔孫通は儒者の服を止めて楚の服を着たので、劉邦はそれに喜んでいます。


 そして劉邦による中国大陸の統一の後ですが、劉邦は秦の法律を廃止して簡易にしていたため、臣下のものは朝廷での宴会の際に自分の功績を誇り、酔って叫びだしたり柱に斬りつけるなどという有様でしたが、劉邦はこれに対処することが出来ずに悩んでいました。


 彼らのそういった行動を罪に問うことも彼らの尊敬を得ることも劉邦は出来なかったからなのですが。


 そこで叔孫通は「儒者は進取には役立ちませんが守成には役立ちます。魯の儒者と私の弟子たちに朝廷での儀礼を制定させましょう」と申し出で、劉邦が「それは難しくないか?」と聞くと、「礼は王朝と共に変わるものです。古の礼と秦の礼を抜粋したいと思います」と答え、高祖は「私にもできるようにしてくれ。難しくするなよ」と言ったのですね。


 そして叔孫通は劉邦にできるように儀礼を制定し、劉邦にそれを教えて見せ、臣下にもその儀礼を習わせた。


 そしてその後に諸侯、群臣と朝廷で祝賀会を執り行うと、この儀礼に従って儀式が行われたが、諸侯王以下は皆形式上は劉邦を恐れ敬い、儀礼の通りにしない者は御史が強制退去させたため、宴会の際にも礼を失する者はいなかったということになるわけです。


 これにより叔孫通は出世し弟子も同じように出世した。


 要するに元の部下の扱いに困った劉邦の悩みに付け込んで、劉邦や家臣たちに徳というものがなにかというものを教えずに、形を守ることだけを教え込んだことで本来の儒教の核となる部分を消し飛ばしたのが、他人に媚びへつらい出世するのが上手な叔孫通のやったことです。


 そして儒教は漢の歴代の皇帝にとっては非常に便利であったため、後の武帝や後漢の光武帝も積極的に取り入れたわけですが、きちんと法を整備するわけでもなく、統治者が徳を必要とするという認識もなく、ともかく儀式の形式だけ整えればいいとしてきたことは、当然統治に致命的な齟齬をきたしで後漢を崩壊させ、その後の五胡十六国を超えた後の隋や唐以降の王朝でも綿々と受け継がれて現代にも至るわけですね。


 ここで問題なのは中国とのシステムを取り入れた東アジアや東南アジアの各国は本来は儒教が個人に求めた筈の徳というものを国家に適用し暴力を振るうことを良くないこととしてしまったわけですで、確かに個人が暴力で目的を達成しようとすることは本来諌めるべきですが、叔孫通は覇道を否定しつつ劉邦の武力による中国統一を利用して、王道に見せかけた形式第一の儒教というものをぶち込んだため、やがて軍隊が常設ではなくなっていき、それは弱いものを守るということを国家が放棄するということでした。


 日本でも桓武天皇が軍団を解散した後は事実上治安維持組織が山城以外では存在しない状態となりましたが、後漢もそれに近い状態だったわけですね。


 周やそれに続く春秋の晋は武官と文官は同一のものが権限を持っていましたが、それが完全に崩れたのは漢の時代だと思います。


 ローマでキリスト教が国教になったのも結局の所は統治に役に立つという理由はあるのですが、キリスト教は日本で言うところの浄土宗などの念仏仏教に近い、人生の不安に対しての死後の安息の約束を行ったことで、弾圧されていたにもかかわらず民衆に支持されていったことで、最終的には皇帝がその弾圧を諦めて信教を認めざるを得なくなってしまっっただけで最初から統治に役立つから国教にしたというわけではない点で大きく違います。


 儒教もキリスト教も教祖を弟子が神格化して持ち上げ過ぎという点では似たようなところはあると思いますが。

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