表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

宇宙魚と地球蝶

作者: まさみ

挿絵(By みてみん)

『第3衛星カシオペイア12区立植物園』


ガチャン。

閂の外れる音はギロチンが落ちる音に似ていた。

開閉式の天井を備えた温室は噂通り、草に埋もれた鳥篭を彷彿とさせる。

少年は人の姿がないことを確かめると、扉の間からそろりと最初の一歩を踏み入れた。

ふいに鼻先を小さな影が過る。

青い残像を追って右斜め上方を見上げた少年は目をまん丸くして驚く。

「……蝶?」


温室に蝶がいた。

今まで見たこともない種類の蝶だ。

二対の翅はセロハンを細工したように薄く、その色は夏の宵を染め抜いたように青い。

少年の掌とほぼ同寸大の青い蝶は、翅を優美にはためかせ、温室の天井高く昇っていった。


「あの蝶は外では生きていけぬのじゃ」

無防備に立ち尽くす背をしわがれた声が叩く。

稲妻に打たれたように振り返れば、一人の老人が立っていた。

「……どこ原産?」

少年が住む衛星は惑星管理局によって気候が維持されている。

春になれば草木が芽吹き、夏になれば日照時間が長くなるが、それらすべては地球の環境を模して造られた擬似的な現象だ。

透明な殻で覆われた空が青いのは、惑星管理局がオゾンを配合した光線を放射しているからだ。

今は八月、夏休み。

人工の空からは強い陽射しが降り注ぎ、植物の生育を助ける。

少年が住む衛星は、遠い昔に滅んだ地球と全く同じ気候に保たれていた。

それなのにあの蝶は、温室の外では生きていけないという。

少年は首を傾げた。

「地球じゃよ」

「だって、地球はもうとっくに……」

「忘れられた星じゃ」

ひとたび振り向けば、老人は親しみやすい好々爺に戻っていた。

「君はなぜ、ここにいるのかね?」

「え」

「通報したりはしないから安心なさい。不法侵入してるのはワシも一緒じゃ」

そういえばそうだ。

制服も着てないし警備員には見えない。

一般人の不法侵入だとすれば、規則を破っているのは目の前の老人も一緒だ。

少年は胸をなでおろしたが、その安堵はすぐに一抹の疑問に取って代わる。

「おじいさんはなんでここにいるの?立ち入り禁止のはずでしょ」

「散歩じゃよ」

「門は閉まってたよ。どうしたの?乗り越えたの?おじいさんなのにすごい元気」

老人は後ろ手を組んで温室を徘徊、飄々とした口調で付け加える。

「ここははワシの庭みたいなもんじゃ。ワシは植物が好きで、この植物園が開園した当初から、毎日通い詰めていたのじゃよ。閉鎖されてからも毎日な」

「毎日……」

このおじいさん、とんだ物好きだ。

「君、植物は好きかね?」

どうやた悪人ではなさそうだ。

警戒を解いた少年は、ハイビスカスを一瞥して素っ気なく答える。

「それなりに。父さんが植物学者だから」

「それでは、その花の名前を知っているかい?」

「プルモナリア。あたりまえだろ?」

「『気品』」

老人がニヤリとする。

「プルモナリアの花言葉じゃよ。さすがに知らんかったじゃろう」

馬鹿にされたとカチンとくる。

憤然と踵を返し、老人と離れて逆方向に歩き出す。

温室を大きく迂回し、色鮮やかな熱帯の花々を目の端で鑑賞する。

特殊な材質でできた温室はガラスの鳥篭のようだ。しかし、この鳥篭が閉じ込めているのは鳥ではない。

蝶だ。

温室では無数の蝶が飼われていた。

蝶たちは花から花へと移ろって蜜を吸い、人造池の水面に影を投じていた。 

天井からは蔓が垂れ、周路にはソテツの木が植わっている。

外とは別世界だ。

「噂は嘘だったんだ」

「嘘?」

「植物園に幽霊が出るって噂」

「ここは気に入ったかね?」

ソテツに絡む蔓を引っ張りながらぶっきらぼうに頷く少年。

「明日もくるかね?」

予想外の展開続きだが、老人の問いで少年はここで過ごす時間を楽しみ始めている自分に気付いた。


次の日も少年はやってきた。

胸高鳴らせて温室に駆け寄り、真鍮の取っ手を捻る。

「今日はきてないのかな」

老人の姿が見えないので落胆する。

心のどこかであの風変わりな老人とまた会えることを楽しみにしていたのだ。

少年はソテツの木に寄りかかり、人造池の水面の睡蓮を眺めていた。

小脇に抱えているのは父の書斎から失敬した植物図鑑だ。

「チューリップ、ヒヤシンス、クロッカス、水仙」

今挙げた花々は学校の花壇に植わっているものだ。

「サクラ、タンポポ、サツキ」

今挙げた花々は、絶滅危惧種に指定されたものだ。

図鑑を貪り読んでいた少年に、草を踏み分け何者かが接近する。

「遅いよ、おじいさん」

老人は少年の顔を見て、十年来の友と再会したかのように頬を緩めた。

少年の手元の図鑑を覗き込み、「ふむ」と唸る。

「サクラかの」

「見たことあるの?」

「地球にいた頃の話じゃ」

想像できない。少年たちの世代は「地球は死の星だ」と聞かされて育ったのだから。

「ワシが子供の頃、庭にサクラの木があった。その頃はもう、サクラの本数はだいぶ少なくなっていた。子供の頃はよくサクラの木にのぼって遊んだものじゃ。春になると薄桃色の花が満開になって、ぼんぼりを灯すようにあたりがぱっと明るくなった。風が吹くとはらはらとサクラの花が散って、あたり一面に降り積もるんじゃ。雪と違って地面に積もったサクラの花弁は温かかった。お日さまの光を吸った布団みたいに……サクラの花は素足を柔らかく包み、さくさく踏むと雲の上を歩いておるような心地がした。子供らはみな天使のようにサクラの木の下を行進しておったよ」

少年は図鑑でしかサクラの木を見たことがない。

図鑑に載っているサクラの写真は第7衛星アンドロメダの植物園で撮られたものだ。

アンドロメダのサクラは宇宙に現存する唯一のサクラだが、シェルターの中で貧弱な枝を伸ばしたサクラは、春になっても決して花を咲かせることがなかった。

「サクラの花って見たことないよ」

少年は呟いた。

老人は苦渋に満ちた顔で頷く。

「ワシらが、壊してしまったのじゃ」

どういう意味なのか。

わけがわからず困惑するも、老人の沈痛な面持ちが詮索をためらわせる。

代わりに無難な質問をする。

「サクラの花、きれいだった?」

「……ああ。とてもな」

「ぼくの父さんは今、アンドロメダの植物園にいるんだ」

老人はゆっくりと少年に向き直る。

「父さんは有名な生物学者なんだ。宇宙魚って知ってる?ホスピスの患者を癒すために造られた、セラピー用の特殊な魚。あれを造ったのは父さんなんだ。父さんは宇宙魚の開発で一躍脚光を浴びた。酸素と水がなくても生きていける魚、宇宙でも生きていける魚。偉業を成し遂げた父さんは学界から表彰されて、多くの遺伝子研究所から招かれた。それから父さんは滅多に帰ってこない」

殻に閉じこもる少年の顔が水面で揺らぐ。

「父さんは今、アンドロメダのサクラを咲かせようとしてるんだ。アンドロメダのサクラが何故咲かないのか、だれもわからない。シェルター内は原産地と全く同じ気候に保たれている。理論上は花が咲くはずなんだ。咲かなきゃおかしいんだ。でも、サクラは咲かない」

老人を振り向いた少年は、語気を強めて強調した。

「父さんはもう六年も帰ってこない。アンドロメダのサクラを咲かせようと、頑張ってるんだ。馬鹿だよね、咲きっこないのに」

温室の天井から降り注ぐ陽射しが水面の蓮をしっとりと濡らす。

「あの人は人間より植物のほうが好きなんだ」

沈黙を破ったのは、老人の吐息だった。

「お父さんのことは好きかね?」

老人は睡蓮に視線を固定したまま、どこか寂しげに呟く。

「睡蓮の花言葉は」

「『遠ざかった愛』」

少年は一瞬目を見開き、唇を噛み締めて俯く。

「でも、人の愛は引き戻すことができる」

「?」

老人は優しい目を少年に向けて、言った。

「お父さんは家族のことを忘れたわけじゃないぞ。決して」


次の日も少年は植物園に行った。

「おじいさん!」

少年の声に反応して、老人は緩やかに振り向いた。小脇に図鑑を抱えた少年は、小走りに老人に駆け寄った。老人は少年が到着するのを待って、にっこりと微笑んだ。

「やあ、こんにちは」

「こんにちは」

「ラッパズイセンの花言葉を知っておるかね?」

「『報われぬ恋』」

目を丸くする老人に、少年はしてやったりとほくそ笑む。

「勉強したんだ」

少年が小脇に抱えた図鑑に目をとめ、老人は合点したように微笑んだ。

二人は散歩を再開する。

「ブーゲンビリア」

「薄情」

「モナルダ」

「安らぎ」

「アンスリウム」

「情熱」

アイリスの群落の横を通過した時、老人はおもむろに口を開く。

「アイリスの花言葉は?」

「『メッセージ』」

老人は我が意を得たりと微笑み、優秀な生徒に向かってこう言った。

「キミにメッセージがあるぞ」

「?」

「もうここへ来てはいけない」

突然の宣告。

少年は言葉を失った。

「なんでさ」

「キミは知らないのかね?この植物園は近々取り壊されるんじゃ」

老人はアイリスの茎に手を添えると、花に顔を近付けて匂いを嗅ぐ。

「冥府の使者イーリスは七色の衣をまとい、神々のメッセージをたずさえてまもなく死ぬ運命にある人々に会いに行く」

老人はアイリスに顔を埋めて、言った。

「ワシももうすぐいなくなる」

「……なにそれ。わけわかんないよ」

「キミは最初、この植物園には幽霊がいるといったな」

少年はムッツリ頷く。

老人は前を向いたまま、少年を試すように言った。

「もし、その噂が真実だったら……」

老人は緩やかに振り向くと、少年の目をとらえて微笑んだ。

「……どうするかね?」

頭の中で警鐘が鳴る。

警鐘はどんどん大きくなる。

「ワシがその、幽霊じゃよ」


最初からなにかがおかしかった。

この植物園は四半世紀前に閉鎖されたはずなのに、温室だけが正常に機能しているのは何故だ?少年は慄然として周囲を見渡し、あることを悟った。ガラスの鳥篭の中は常夏の別世界だ。温室は常夏の気候が保たれ、あたりには熱帯の花々が溢れ、珍しい蝶が生息している。この温室はそれ自体生き物のように、ガラスの胎内で独自の生態系を築いていたのだ。


そんなことがありえるのだろうか?

本当に。


恐怖に駆り立てられた少年は、出口をめざして一目散に駆け出す。

真鍮の取っ手を掴み、扉を蹴り開け、藪に飛び込み、小枝を払い、がむしゃらに突き進む。

漸く立ち止まったのは、植物園から五十メートルも離れた石畳の上。

緩やかに傾斜した坂道の頂点には例の鉄の門があった。

樹海の真ん中にポツンと頭を出す円天井は、少年がたった今までいた、あのガラスの温室だ。


『ワシがその、幽霊じゃよ』


植物園に引き返し、こっそり中に入った少年は思いがけぬ光景を目撃する。

「……ごめんよ、ごめんよお………」

老人は繰り返し繰り返し、謝罪していた。

少年が忘れた図鑑を強く強く握り締め、弛んだ頬を震わせて、ただただ謝罪していた。

それ、色褪せた宗教画のように神聖な光景だった。

ガラスの天井から降り注ぐ陽射しが嗚咽する老人を柔らかく包み込む。光の洗礼を受けた老人の肩に、一羽の蝶がとまる。

それを皮切りに温室の至る所から多くの蝶が群れ集まり、老人を取り囲む。

蝶はしずかに羽を開閉させ、老人の頭上で青い輪となって踊る。

蝶が羽を震わすたびに、綿毛のように光の粒子が舞い落ちる。

光の粒子は老人の肩に音もなく降り積もり、真綿が水を吸うように、老人の嗚咽を吸収していった。

「……いいよもう。怒ってないよ」

少年は惚けたように自分を見詰める老人に歩み寄ると、彼の膝から素早く図鑑を奪いとり、ハンカチをとりだして泥汚れを綺麗に拭った。少年はハンカチを手早く畳んでポケットにしまい、老人に向き直って念を押した。

「……明日もくるからね」


次の日も懲りずに植物園にやってきた。

「おじいさん!」

待ち人きたり。

足取り軽く老人に駆け寄った少年は、彼と並んで蓮の花を冠した人造池を覗き込む。

「君のお父さんのことを聞かせてくれんかね?」

「父さんの?」

少年は目を丸くして老人を注視する。

「ぼくの父さんは……前も言ったけど……宇宙魚の開発者なんだ」


少年は老人の顔色を目の端で窺いがてら、何かに急き立てられるように早口で話しだす。

「ホスピス衛星って知ってるよね?第四衛星と第五衛星の中間にある、ちっちゃな衛星。その衛星には、難病を抱えた人たちが集められてるんだ。俗に言う、不治の病ってやつ。その人たちはもう、治る見込みがないんだって。余命を宣告された患者さんの中には、悲観して自殺しちゃう人や、絶望して精神的に参っちゃう人や、自暴自棄になって家族や担当医に当り散らす人や……とにかく、色々いるんだって。そういう人たちの心をケアするために、ホスピス衛星ではさまざまな方法を試みてるんだ。個別カウンセリングとか、絵画教室とか。父さんが発案した宇宙魚プログラムは、動物療法の一環なんだ。でも、ホスピスでは犬や猫は飼えない。犬とか猫だと、毛にノミがくっついてる可能性があるだろ?それに、アレルギーとかもある。ホスピスは常に、無菌室のような状態に保たれてないといけないんだ」

一呼吸おいて続ける。

「だから父さんは考えた。動物が無理なら魚ならどうかって。魚といってもただの魚じゃない、宇宙を泳ぐキレイな魚……衛星のまわりを周回する魚さ。ガラスを隔てて泳ぐんだから、アレルギーの心配もまったくないし、これなら安全だろうって」

少年は水面に映る自分の顔を見詰める。

「でも、副作用があった。宇宙魚の寿命は極端に短いんだ」

老人は黙って先を促す。

少年は拳を握り締める。

「宇宙魚は宇宙の環境に適応できるよう遺伝子を改良された、セラピー用の特殊な魚なんだ。でも、それって自然じゃない。父さんは言ってたよ。本来なら、魚は水の中を泳いでいるべきなんだって。青い大海原を泳いでいるべきなんだって。水もない、酸素もない。そんな状況でしか生きていけない魚なんて本当の魚じゃない、自然の摂理に反するって」

少年は目を翳らせ、苦渋に満ちた声を絞り出す。

「父さん、言ってた。宇宙魚は本当は、地球の海に帰りたがってるって」

そして、卑屈な笑みを浮かべて締めくくる。

「馬鹿みたいだよね。地球にはもう、海なんてないのにさ」

ちらりと老人を見た。

哀しげな目をしている。

「おじいさんは昔、地球にいたんだよね?」

「ああ」

「海は青かった?」

「黒かった」

「……そう」

「ワシらの時代には海はもう黒かった。空は曇りか酸性雨のどちらか。子供の頃は晴れた日が続くこともあったが、大人になるとそれもなくなった。サクラの木も枯れた。虫や魚もいなくなった。なにもかもなくなってしまった。ワシらはとうとう、地球に愛想を尽かされたのじゃ」

重苦しい沈黙が場を支配する。

なんとかこの気まずい雰囲気を打開しようと、助けを求めて温室を見回す少年の目に、ハイビスカスの蜜を啜る蝶の姿が映ったのは偶然だった。

「……思い出した。蝶の話。父さんが昔話してくれたんだ、父さんの父さんから聞かされた蝶の話」

老人の目をまっすぐ見据える。

「ぼくのお祖父さんは移民船の最終便に乗って地球を発った。でも、タラップを登ってる途中に、見たんだって」

老人は青い蝶の影を映す少年の目に引き込まれる。

「なにをかね」

少年は軽く息を吸い、心の準備を整えて口を開いた。

「蝶を」

蝶の翅を透かした陽射しが、二人の額に物憂げな影を落とす。

「赤茶けた不毛の荒野にたった一羽だけ蝶がいたんだって。灰色の曇り空の下を、ひらひらと飛んでたんだって。そんな馬鹿なって思うでしょ?人すら住めなくなった星で、人よりもっと繊細で敏感な蝶が生きていけるはずないって。人類が見限った星に、これから滅びようとしている星に生き物なんかいるわけないって。でも、お祖父さんはたしかに見たんだって。死ぬまで、病院のベッドの上で、そう言い張ってたって」

老人は無言だった。

少年は続ける。

「ぼくの父さんは移民船の中で産まれたんだ。だから、地球のことはなにも覚えてないし、なにも知らない。でも、物心ついた時からずっと、お祖父さんに地球の話を聞かされて育った。お祖父さんはまだはいはいもできないうちから父さんを膝にのせて、色々なことを熱心に話して聞かせた。滅んだ動植物の名前、滅んだ虫の名前、滅んだ星の記憶」

少年は興奮をひた隠し、声を低めて発音した。

「地球最後の蝶のことを」

少年は熱を帯びた口調で、堰を切ったように語りだす。

「父さんはお祖父さんに滅んでしまった生物の話をたくさん聞かされて育った。だから生物学者になった。生物学者になって、人が滅ぼした動植物を人の手で甦らそうとした。父さんのホントの夢は、お祖父さんが地球で最後に見た蝶をよみがえらすことなんだ」

少年はうなだれる。

「……お祖父さんはぼくが産まれる前に死んじゃった。汚染された地球に長くいたせいで、全身に癌が転移して手の施しようがなかったんだ」

「蝶は儚い容姿をしておるが存外しぶとい生物なんじゃよ。人間と同じように」

余韻を噛み締めるように瞼を閉じる。

「今日の夜、君に見せたいものがある。出てこれるかね」

少年は考えるより早く頷いていた。


日が沈み、植物園に夜が訪れた。

「今晩は」

植物園を訪れた少年が振り返ると、老人が闇にたたずんでいる。

「こんばんは」

「家の人にはなんて言ってきたんだい?」

「なんにも。内緒で抜け出てきた」

「これはこれは……勇敢じゃの。……にそっくりじゃ」

最後の言葉は小さすぎて聞こえなかった。

夜の温室で待ち合わせた少年と老人は、どちらからともなく所定のコースを歩き出す。

「今夜はなにを見せてくれるの?」

「今にわかる」

コースを半周したところで、少年はこの単調な散歩をさっぱり苦にしてないことに気付いた。

「おじいさん。ぼくが最初に植物園を訪れた日のこと、覚えてる?」

「ああ」

「あの日ね、学校帰りにいじめっ子に捕まったんだ」

「………」

「本当に幽霊がいるかどうか確かめてこいって脅かされて、ぼくはいやいやここに来た。だから入るまでびくびくしていた、ホントに幽霊がいたらどうしようって」

「………」

「でも、温室にいたのはおじいさんだった」

「………」

「おじいさんでよかった」

それきり二人は口を噤み、黙々とコースを歩く。

コースを一周してアイリスの群落の際に来た時、だしぬけに老人が立ち止まる。

「……むかしむかし、地球に一人の男がいた」

少年は耳を傾ける。

「その男は子供の頃から虫や花や動物が大好きじゃった。しかし環境破壊深刻化すると虫や花は姿を消していき、木は枯れて海は干上がり、地球は人の住めない星になってしまった。馬鹿な男は最後まで希望を捨てなかった。最後の最後までしぶとく地上に居残って、僅かに残る生き物をサンプリングしようとした。が、ある日地球を離れざるをえない理由ができた」

老人はそこで言葉を切った。

「妻が妊娠したのじゃ」

月の光を浴びて静かに続ける。

「これ以上妻とお腹の子に汚れた空気を吸わせるわけにいかない。男は一日も早く荒廃した地上を捨て新天地へ発たねばならない」

深くうなだれる。

「男が乗ったのは移民船の最終便じゃった。これを逃せば後がない。人々は先を競ってタラップをのぼる。男は身重の妻を先に行かせ、自分が生まれ育った星の在り様を最後に目に焼き付けんと半ばで振り向いた。そして、見た」

「なにを?」

答えは老人の視線の先。

月光を浴びて瑠璃色にきらめく、地球の記憶の残像。

「蝶じゃよ」

皺ばんだ枯れ木の手を虚空にさしのべる。

「そんなまさかと我が目を疑った。幻覚だと思った。男はタラップを駆け下り、何度も目をこすった。しかし蝶は変わらずそこにおる。男の背後で出発直前のアナウンスが響く。されども男の目はただ蝶だけを見ていた。アナウンスが大きくなる。男は蝶を追って、ふらりと荒野に足を踏み出した。その時だ、声が聞こえてきたのは」

「声?」

力なく手をおろし、唇の端に儚すぎて消えそうな笑みを辛うじてとどめる。

「ワシを呼ぶ、妻の声じゃよ」

深呼吸。

「我にかえったワシは、何度も何度も後ろを振り返りながらタラップをのぼった。最終便は地球を出立し、ワシはそれきりあの蝶を見ていない。あの蝶がどうなったのか誰も知らん」

喉が軋んで潰れた嗚咽が漏れる。

「ワシは地球を捨て、蝶は地球を選んだ」


老人のまわりに多くの蝶が集まる。

ひらひらと、ひらひらと。

ただ、なぐさめるように。


「ワシは愛していながら地球を捨てて、蝶は愛していたから地球と運命をともにした」

温室を満たしてゆく嗄れた嗚咽。

「ワシは地球が好きじゃった。あの星を愛していた。できることならあの星で家庭を築きたかった、あの星で子を見守り育てたかった、産まれてくる子に地球の空や本当のサクラを見せたかった。子に、孫に、子孫に、すこやかな地球をのこしてやりたかった。それがワシらの義務じゃった。なのにワシらはなにをした、義務を怠って地球を死なせてしまった。本当の空を知らない世代を作ってしまったのがワシらの罪じゃ」

慟哭が硝子の天井を震わす。

「本当ならおまえたちが受け継ぐはずだった。あの空もあのサクラもあの蝶も、お前たちは丸ごと受け継いで愛おしむ権利があった。なのにワシらが根こそぎ滅ぼしてしまった、ワシらが地球を……」

「……もういいよおじいちゃん。ぼく、お祖父ちゃんのこと、恨んでないよ。だってお祖父ちゃんはお父さんに地球の話を聞かせてくれたじゃないか。地球がどんなに素晴らしいところか、サクラの花がどんなにきれいか、蝶がどうやって花の蜜を吸うか、いっこいっこ教えてくれたじゃないか。だから父さんは生物学者になったし、ぼくは父さんから蝶の話を聞いて植物や虫が好きになったんだ」

振り返った老人は、背後に佇む少年を見て腫れた目をしばたたく。

「ぼくらはちゃんと、お祖父ちゃんから地球の記憶を受け継いだよ」

少年が大人びて微笑むと同時に変化が起きる。


二人の頭上を回る蝶が青く青く光り輝く。

光に包まれた蝶たち。

青い軌道が何重にも錯綜し天高く上昇していく。

四方で生まれた光の球体は青白い尾を引いて、流星雨のように温室中をとびかった。

青い発光体となった蝶は、はげしく、くるおしく、刹那を生きていた。

ガラスの天を見上げ、老人と少年は時を忘れて立ち尽くす。


「………夜光性?」

老人は無言でほほえんだ。

「……この日のために天国から借りてきたのじゃよ。ワシは既にここにいるべきでない人間じゃ。植物園が老朽化して危険なのは事実だというのに、老いぼれのわがままに君を付き合わせてしまった」

「僕を脅かしたのは」

「君が植物園に向かっているのが『見えた』から、最初はよく言い聞かせて追い返そうとしたんじゃ。じゃが……まやかしだとわかっていても、ここがあんまり居心地よくての。もし君がワシの二の舞になり、道を外れるようなことになればと急に怖くなった」

願望が生んだ幻覚かもしれない美しく儚い何かを追い求め、一生を捧げることになりはしないかと。

「今さらじゃないか。血は争えないよ」

こまっしゃくれた皮肉を返せば、「返す言葉がない」とおどけてみせる。

「そういえば君の名前は」

「えっ知らないの」

「生まれる前にいってしまったからの」

「僕が父さんの子供だっていうのはわかったのに」

「それはほら、そっくりじゃしな。図鑑を読み込んで学んだ花言葉を得々とひけらかすところも、生意気な話し方なんて特に」

子供の頃のお父さんとも同じ謎かけをして遊んだよ。

仕方なく少年が名前を言えば、老人は一回目を瞠り、続いて泣き笑いに似て哀切に表情を崩す。

「意味は知ってるかね?」

「父さんがいちばん好きな花の名前からとったんだって」

「花言葉を調べてみなさい」

上空を飛ぶ蝶がひらひらとはらはらと老人を取り囲む。

「おじいちゃん」

老人の姿は青い球体に埋もれてもう見えないが、きっと声は届くと信じ、最後に声を限りに叫ぶ。

「アンドロメダのサクラはきっと、咲くよ」

少年の叫び声は光の渦に呑まれて消滅した。


ガラスの鳥篭は解体される予定だ。

が、少年は哀しくない。

少年はあの夜、たしかに老人から「記憶」を受け継いだのだから。

「……!そういえば」

老人を見送ってから数日後、自宅で分厚い図鑑を読み耽っていた少年はページをめくり、自分の名前の由来となった花の解説に目を通す。

「ネモー」

「うるさいなあ、いま忙しいんだよ」

「ネモ、だって、だって」

「もー、勉強の邪魔しないでよ」

「父さんから手紙が届いたのよ、来週帰ってこれそうだって」

「ホント!?」

「手紙をごらんなさい、アンドロメダのサクラが蕾を付けたんだって。お祝いに研究員全員に特別休暇が出て……来年にはサクラが咲くらしいわ、母さん一度も見たことないからすごい楽しみ、一体どんな花が咲くのかしら」


からっぽになった書斎の机には図鑑が開かれて置いてある。

見開きで解説されているのは、青く澄んだ可憐な花だ。


『ネモフィラ セリソウ科

葉はタンポポのようにギザギザしている。花の色は青、白、紫などの印象の強い寒色

花言葉…… 私はあなたを許す』


サクラは人類を許し始めている。

ひょっとしたら、蝶も。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ