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ローレライの教室  作者: 五十嵐某
9/22

【第二章 春】(一)

【第二章 春】


 自慢じゃないけど人一倍健康的な生活を送っている方だと思っている。いつもだいたい夜の十一時には布団に入るようにしているし、寝付きもいい方なので十分もすればもう熟睡するし、おかげで翌朝六時には爽やかな目覚めが待っている。その後は服を着替えて外を軽くひとっ走り。それがあたしの日課だ。この日課を毎日欠かさず万全の体調で行うために、あたしは夜更かしだけは絶対にしないと心に決めている。十二時を回ってもまだ起きていたことなんてここ一年の間でも数えるほどしかなかった。

 だから、昨夜は久々の不覚だった。

「……ねっむ」

 土曜の早朝、あたしはランニング用のウインドブレーカーに袖を通しながら、ほとんど無意識的につぶやいていた。昨夜は十二時を回ってもなかなか寝付けず、爽やかな目覚めというわけにはいかなかったのだ。まぶたが重くて仕方ない。

 何故なかなか寝付けなかったかというと、だ。

 昨夜、我が家で、ちょっとした事件があったからだ。


『何の取り柄もなくて悪かったな!!』


 ……言い過ぎたな、と今では思っていた。

 あたしは昨夜、お兄ちゃんを怒らせてしまった。

 そんじょそこらの兄妹喧嘩とはわけが違う。お兄ちゃんは良くも悪くも小心者で、怒ったりするところなんてとんと見せたことがなかったのだ。それなのに怒らせた。それほどまでに追い詰めてしまったということを意味していた。のんのんと眠りにつくことができなかった程度には、あたしも色々と考えさせられていたのである。

「……はぁ」

 ついため息が漏れてしまう。ああいけない。今日は友達が泊まりに来るというのに。

 やっぱり、謝った方がいいのかなぁ……。

 殊勝にもそんなことを考えるが、顔を合わせたらきっとまた悪態をついてしまうと思う。残念ながらあたしはそういうやつなのだ。素直になれない性格の自分が本当に嫌になる。

 うだうだと決めかねているうちに着替え終了。手袋、ネックウォーマー、ニットキャップ、防寒対策は万全だ。とりあえずお兄ちゃんのことは走り終わってから考えよう。そう思いながら、自室のドアを開けた。

「おはよう」

「おは……え?」

 あたしはドアノブを握ったまま硬直してしまった。

 部屋の外で、待ち構えていたかのように、お兄ちゃんが涼しい顔して佇んでいたのだ。

 長袖のウインドブレーカー、首に巻いたマフラー、インナーも色々着込んでいたのか、全体的に妙にもこもこした感じになっている。

 ていうか、この格好って。

「……ええと、出かけるの?」

「いや、ぼくも走る」

 もしやと予想はしていたけれど、いざ実際にそう言われると、あたしは開いた口が塞がらなくなってしまった。

 お兄ちゃんははっきり言ってモヤシっ子だ。色白だし、メガネだし、ガリガリだし、運動とは無縁の生活を今日までずっと貫いてきたのだ。

 なのに、走るとは一体。

「走るって、あたしと一緒に?」

「うん」

「……どういう風の吹き回しよ」

「まあ、ちょっと、色々あってね。身体鍛えなきゃいけなくなったんだ」

 そう言われ、あたしは複雑な心境になった。

 モヤシっ子のお兄ちゃんが身体を鍛えようと言っている。いいことじゃないか。大賛成だ。根っからの体育会系人間のあたしとしては反対なんてするはずもない。

 でも、

「……それって、やっぱり」

「ん?」

 あたしのせい?

 あたしがあんなこと言ったから?

 その言葉は喉のすぐそこまで出かかったが、残念ながらあと一歩勢いが足らず、喉の奥へすとんと落っこちていった。

「……う、ううん。なんでもない。てか嫌よあたし、お兄ちゃんと一緒に走るなんて」

 代わりにあたしはいつものように憎まれ口を叩いてしまった。お兄ちゃんに謝るまたとないチャンスだというのに。ああもう。自己嫌悪だ。

 しかしお兄ちゃんは特に機嫌を損ねたふうもなく、こんなあたしに平然と応じる。

「うん。分かってる。だからぼくは文香のずっと後ろを走ってるよ。それでいいだろ?」

「あたしと同じだけ走ろうっての?」

「そうだよ?」

「あたし毎朝五キロ走ってるんだけど」

「……うん、まあ、なんとかなるよ」

 その言葉を聞いてお兄ちゃんはさすがに少し鼻白んだが、あくまでそれだけだった。前言を撤回するつもりはないようだった。

「……分かった。じゃあもう、好きにすれば?」

「そうする」

 そう答えるお兄ちゃんは、なんだかやけに落ち着いていた。吹っ切れたような感じが確かにあった。一体昨日のうちにどんな心境の変化があったというのか。なぎなたの世界は女子ばかりなので、男子のことはやっぱりよく分からない。

 まあいいや。とりあえず外に出よう。

 あたしは玄関まで移動し、いつも使っている運動靴に足をはめ込み、靴紐を結んでいると、後ろからお兄ちゃんが静かに声をかけてきた。

「言っておくけど、文香のせいじゃないからな」

「……え」

 靴紐を結ぶ手が、ぴたりと止まる。

「前からちょっと、やってみたいって思ってたことがあって、その決心がようやくついたんだよ。まあ、だからその、文香は変な責任とか感じなくていいから」

「…………」

 じんわりと、胸に何か、温かいものが広がっていくのを感じた。

 どうして?

 どうしてそんな。

 あたしが一番欲しいと思った言葉をかけてくれるの? お兄ちゃんのくせに。

「……ば、ばっかじゃないの。責任なんて感じてるわけないし。ほら早く行くわよ」

「……あ、ああ」

 手早く靴紐を結んで立ち上がり、あたしは玄関のドアを若干乱暴に開け放つ。外はここ数日の寒波祭りに比べればかなり暖かく、雪もほとんどが溶け消えていて、ランニングにはもってこいの日和だった。

 あたしは背後にお兄ちゃんを付き従わせながら外廊下を歩いていく。まさかお兄ちゃんとこうして朝走る日が来るとは思ってもみなかった。なんだか感慨深いものがある。

 ていうか、なんでお兄ちゃんは急に走るなんて言い出したんだっけ?

 お兄ちゃんは言っていた。やってみたいことがある的なことを。身体を鍛えるのはその一環なのだろう。それはなんとなく分かる。

 でも、そのやってみたいことって、一体なんなんだろう。

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