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ローレライの教室  作者: 五十嵐某
8/22

【第一章 冬】(七)

 ぼくは街を走っていた。

 全力でひた走っていた。

 行く当てなんてない。目的地どころか目的すらない。雪でうっすらコーティングされたひどく冷たいアスファルトを、布地の薄い靴下のみでひたすらに踏みつけまくっていく。

 運動には慣れていないのに、準備体操抜きでいきなりの全力疾走だ。息はすぐに上がり、胸の内側が引き裂かれるような痛烈な感覚を覚える。節々も悲鳴を上げ始め、身体のあらゆるセクションがすぐに足を止めろと総出で訴えている。

 しかしぼくの足は止まらない。

 強烈な一念に駆り立てられるままに、馬鹿みたいに街をひた走る。

 いつしか頬のあたりがやたら寒く感じられるようになり、本当に鈍感だなと思った。一体いつから涙を流していたのかすらぼくは分かっていなかったのだ。

 走って走って走って走って、体力も精神力も空っぽになるまで使い尽くして、そうしてぼくはとある人気のない路上の一角に足を止めた。もはや身体を支える余力すらなかったようで、ぼくの膝はがくりと折れた。両手を地面についてその場にへたり込む。ひんやりとしたアスファルトの感触が両の掌を包み込み、思い出したかのように体中から汗がぶわっと噴き出していった。

「はあっ! げほっ! がほっ! ……ああっ!」

 もはやそれは呼吸ではなく、海で溺れて救助された人間の悶えようにも似ていたと思う。地獄のような苦しみにぼくはなす術もなく翻弄される。

 たっぷり一分ほど悶え苦しみ、ようやく呼吸が少しだけ楽になってきたとき、ぽたり、ぽたり、と目の前の地面に水の粒が滴り落ちているのを見た。降っている雪とは明らかに質の違うものだった。静かに顔を上げる。

 ふわふわと宙に浮かんでいる深原さんがそこにいた。

 ついてくるだろうなとは思っていたので、それは想定内だった。

 だが、その顔はちょっと想定外だったので、一瞬呆気に取られた。

 どうやら、

 涙はちゃんと流せるらしい。

「……深原さんが、泣くこと、ないでしょ」

『……だって、だって』

 二十歳のお姉さんがひっくひっくと泣いていた。ぼくなんかのためにボロボロと涙を流してくれていた。半透明の瞳から半透明のしずくが頬を伝って流れ落ち、地面に落ちた端からぱしゃんと弾けて夜の空気に溶け消える。

「……泣きたいのは、どう考えても、こっちだと思うんですけどね」

『……うん、そうだね。ごめんね』

 やめてくださいよ。

 深原さんが謝る必要なんてない。

 深原さんは何も悪くない。

 じゃあ、何が悪いのかといったら、

 やはり、これ以外になさそうだった。

「……深原さん、ぼく、悔しいんです」

 おもむろに立ち上がりながらそう言った。涙と息切れによって声はだいぶ不安定なものになっていたが、それでも喋れないというほどではない。

 深原さんは両手で自分の目元をごしごしと拭い、しゃくり上げるのをどうにか鎮めてから、問う。

『悔しいって、何が?』

「色々です。小花さんに彼氏ができたことや、その彼氏がよりにもよってあの男だったこと。でも、そうじゃない。それよりもぼくは――」

 瞳の奥から新たな涙がぶわっと浮かび上がってきた。眼鏡を外して目元をぐいっと力強く拭ってから、ぼくは視線を足下に落とし、意を決して口にする。

「何もしてこなかった自分が、一番悔しいんです」

『……っ』

「ぼくは何もしてこなかった。何も持とうとしてこなかった。小花さんのことが好きなのに、自分じゃどうせ無理だろうって諦めて、ふさわしい男になろうとかそんなことちっとも考えなくて、何の努力もしなくて、ぐだぐだし続けて、それで小花さんが取られたら一丁前に悲しんでみたりして、そんな情けない自分が、一番悔しいんです」

 ぼくは語った。

 抱いていた想いを一から十まで全力でさらけ出していった。

「ぼくだって何かがしたい。取り柄が欲しい。今よりももっとマシな自分になりたい。こんな臆病なだけの自分はもう嫌なんです。うんざりなんです。こんなのはもう、……こんなのはもううんざりだ!」

 瞳に涙をあふれさせながら、ぼくはぼくのありったけを足下のアスファルトにぶちまける。

 こんな自分はもう嫌だ。うんざりだ。

 だからこそ、こんな自分は、今日で最後にしなければならなかったのだ。

 汗と涙にまみれた不格好な顔で、ぼくは深原さんのことを上目遣いに見やる。深原さんもぼくのことを無言で見つめ返す。

 脳裏に浮かんでいたのは、昨日の図書室での一場面。

 あのとき彼女はぼくに向かって、確かに言った。このように。

 あたしも歌上手い男の人って好きだし。

 くすぶっていた心に火が付いた瞬間だった。

「……深原さん」

『うん』

「少し、不純な動機で申し訳ないんですけど、……決めました」

『うん』

 ずっと考えていた。

 どうしてぼくにだけ深原さんが見えるんだろうと。

 でも、案外それは、この日を迎えるために用意されたものだったのかもしれない。

 そんなふうに思った。

「ぼくに、歌を教えてくれませんか」

 ぼくは口にした。

 小花さんや、その他多くのものとの決別の意を込めて。

 ちらちらとまばらに降る雪は街灯に照らされ、星々のようにきらめいていた。

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