【第一章 冬】(六)
冬場の夜の到来は本当に早い。自転車を押し始めてからものの一時間であたりは一気に暗くなり、それに伴い気温もぐっと下がり、挙げ句の果てに風まで出てきた。荒ぶる北風がぼくの身体を見境なしに舐め回していく。
とどめとばかりにぱらぱらと雪まで降ってきて、こめかみのあたりがつんとする痛みを訴えた。
ああ。
正直、キツい。
何のために生きているのか分からなくなってきた。
これまでの人生のほとんどを無為に過ごしてきたぼくが何を今さらといった感じだけれど、少なくとも昨日のぼくは、今よりももうちょっとだけ、明日に希望を抱いていたはずだった。
そうだ。昨日のぼくは、小花さんの気を引くために、深原さんから歌を教わろうかと真剣に考えていたのだ。
でも、小花さんに彼氏ができたと分かった以上、小花さんの気を引く必要もなくなってしまった。自分に自信をつけたいという思いも、いつの間にかどうでもよくなっていた。
歌なんて。
そんなもの、ぼくにはやっぱり、不要だったのだ。きっと。
『伊角くん本当に大丈夫? 代わろっか?』
「……いいです」
深原さんがそう提案してきたが、ぼくはすげなく拒否した。
脳を衝くような冷風が吹き募る中、何も考えずに自転車を押し続けていった。
「……ふう」
ようやくといった感じだった。長町駅の駅舎がようやく見えてきた。ベッドタウンと呼ばれるにふさわしい大きくて立派な高架駅の駅舎。これが見えたということはもうぼくの家は目と鼻の先だということを意味している。今日は金曜日で明日は休みだし、早く家に帰ってお風呂に入って何もかもを忘れて泥のように眠ってしまいたい。
当たり前だがこの駅に用なんてない。もうここは家の近所なのだ。ぼくは駅の西口の広場を右手に見ながら増えてきた通行人とともに歩道を進んでいく。いい加減水を吸った靴が気持ち悪くて仕方なかったがそれもあと少しの辛抱だ。
『……えっ』
深原さんが唐突に声を上げた。
反射的に深原さんの方へと顔を上げると、そこにあったのはなんというか、にわかには言い難い表情だった。
当惑。驚愕。怒り。恐れ。
あらゆる負の感情をボウルにぶち込んでぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたような、そんなただごとではない表情を浮かべ、深原さんはある一点を凝視していた。
これは一体どうしたことか。何かよほどとんでもないものでも目に映ったのだろうか。興味をそそられてぼくも深原さんと同じ方向を見ようとする。
『だ、駄目! 見ちゃ駄目!』
すると深原さんがたちまち慌て出した。ぼくの眼前に俊敏に回り込み、両手を大きく広げてなにやら必死の妨害をし始める。
「……深原さん?」
『とにかく見ちゃ駄目! 寒いでしょ!? 早く帰ろ!? ね!?』
いやまあ、寒いし早く帰りたいのは同意だけれど、そこまでされるとやはり気になってしまうのが人情。深原さんは身体を張ってなんとかそれを見せまいとしていたようだが、いかんせん半透明。遮蔽物としての意味はあまりなかった。ぼくは目を凝らし、深原さんの身体越しに、その背後に広がる光景をじっくりと視界に収めていった。
「……え?」
透けていたとはいえ、深原さんの身体越し。
あたりは夕闇に包まれ、雪もちらついているという状況。
おせじにも視界は良いとは言えなかった。
なのにぼくは見た。しかと見てしまった。
多くの人が行き交う、駅からすぐ近くにある幅広の歩道。
そこを、一組のカップルが悠然と歩いていた。
見ただけで死ぬ系の妖怪の話は数多く存在する。
幸いにもぼくが目撃したのはそういう類のものではなかった。
それに次ぐくらいのものではあったけれど。
「――でさあ、そいつがマジで――」
「――もう、やめなよそういう――」
男は女の肩に馴れ馴れしく手を回している。
女もなんだかんだでまんざらでもないような顔をしている。
彼らは完全に二人だけの世界に没入していた。
ぼくの存在になんて気付く気配すらなかった。
吐き気がした。
胃液がせり上がってきて冗談抜きで戻してしまいそうになった。
そのカップルは二人とも、ぼくのよく見知った人物だった。
小花さんと刈谷だった。
その後のことはいまいち覚えていなかった。自力で歩いてきたのか、それとも深原さんが乗り移ってここまで運んでくれたのか、それすら分からない。分かっていたのはぼくはいつの間にか自分の部屋にいたということだけだった。電気もストーブもつけなければ上着も脱がないまま、布団の上に死んだように倒れ伏していた。
ストーブの沈黙していた部屋の温度はそこまで高くない。だが外に比べれば格段の暖かさではあった。おかげでフリーズしていた思考回路が徐々に回復していった。もっともフリーズしたままの方が幸せだったような気がしないでもないが。
ぼくがあのとき見たカップルは、間違いなく小花さんと刈谷だった。なにしろぼくはあの二人を、抱いていた想いこそ一八〇度逆だけれど、ずっと長いこと見続けてきたのだ。見間違えるはずがあるものか。
そういえば先日刈谷に絡まれたとき、最近彼女ができて物入りだとかいう話をしていたような気がする。何の因果か知らないがその彼女が小花さんだったと。ああなるほど。あの何気ない発言は伏線だったというわけか。
死にたい。
死にたくて死にたくてたまらなかった。
小花さんに彼氏ができた。それはまだいい。いやよくないが、ちっともよくないが、少なくとも頭では仕方のないことだと割り切れた。可愛い子にはもれなく彼氏がいるなんてことはぼくにだって分かるくらいの自然の摂理で、心は押し潰されそうになったがそこまでならまだなんとか割り切れた。
じゃあなんであの男なんだよ。
よりにもよってなんであんな男を選ぶ。
ぼくは布団にどすんと拳を沈ませた。
刈谷はぼくをいたぶるのが趣味みたいな最高にどうしようもない男だったが、この件に関しては刈谷の意図的な嫌がらせという線はないはずだ。だってそうだろう。ぼくの好きな女の子が誰なのかなんて一体どうして突き止めることができようか。単に偶然小花さんと知り合い、そして仲良くなり、なんやかんやあって彼氏と彼女になるに至った。そんなところか。刈谷にとっても小花さんにとっても、ぼくの存在なんて脳裏をかすめもしなかったはずだ。
高校生の彼氏と彼女ともなれば、そのお付き合いは真面目で健全なものばかりとはいくまい。なにしろ刈谷は自らの欲望に極めて忠実な男だ。今日は金曜日。二人が歩いていった方向は刈谷の自宅。今頃小花さんは、刈谷の手で――、
「……っ!」
歯をきつく食いしばり、布団に向けて再び拳を突き立てた。
悔しい。
こんなに悔しいことがかつてあっただろうか。
小花さんが誰かのものになってしまったのが悔しい。
あろうことかそれがあの刈谷だということが悔しい。
しかし、何よりも一番悔しかったのは――、
『……伊角くん、ごめんね』
そんな声が聞こえ、ぼくは俯したまま、顔だけをそっと上げる。
そこにいたのは深原さんだった。今にも涙すらこぼしそうな悲痛な表情を浮かべていた。この身体で涙を流せるのかは知らないが。
「……なんで、謝るんですか」
『だって、あたしがあそこで、あんな声上げちゃったからさ』
そんなことを気にしていたのか。いやいや、深原さんのせいじゃないですよ。
そう言ってやりたかったが、今はそれすら億劫だった。代わりに短く首を振る。最低限の意思表示のみに努める。
ぼくの意思が伝わったのか、深原さんはほっとしたように息をつき、そして、悩ましげに眉間に皺を寄せた。
『ええとその、あー、なんて言ったらいいのかな、これは』
深原さんがあらためて話しかけてくるが、それは辿々しくてどうにも要領を得なかった。ぼくに慰めの言葉をかけようとしていたのは分かるが、ぼくの好きな女の子に彼氏ができたというだけならまだしも、その彼氏がぼくを長年虐げていた男だったというのはやはり客観的に見てもヘヴィーな事例だったのだろう。慰めの言葉はなかなか見つけられずにいたようだ。
「お兄ちゃん? いるの?」
そんなときだった。部屋のドアがノックされ、同時に文香の声がもたらされた。
「……いるよ」
「ちょっと出て来て」
力なく言葉を送ると、返ってきたのは有無を言わさぬひとことだった。
正直言うと今は誰にも会いたくなかった。そもそも身体を起こすことすらかったるくてしょうがなかったのだが、他ならぬ妹様の要求だ。従わないわけにはいかない。病人みたいな気だるげな動きだったがどうにか起き上がり、上着を脱ぎ捨て、ついでに部屋の電気をつけ、ドアをゆっくりと開ける。
「明日友達が泊まりにくるからなるべく部屋から出てこないで」
むっつり顔の文香と目が合うやいなや、一気にまくし立てられた。
まあ、そんなところだろうなとは思った。ぼくが文香に嫌われていたのは知っていたし、少なくとも友好的な用件ではないだろうというのは予想がついていたことだった。
「……了解。ぼくの知ってる子?」
「知らない子よ。学校の委員で知り合った子だし。てか一個上だし」
「……そう」
「てかなによそのシケた顔」
「……別に、文香には関係ないだろ」
ぼくなりに平静を装って対応したつもりではあったのだが、ろくに装えていなかったようだ。思っていた以上にダメージは深刻だったのかもしれない。
『ふ、文香ちゃん、あの、もうちょっとお手柔らかに』
深原さんがヒヤヒヤしたような声で文香に言う。しかしその言葉が文香に届くことはもちろんなかった。文香は相変わらず、ぼくに対し、優しさの欠片もない言葉を投げかけてくれたのだった。
「とにかく、明日はそういうことでよろしく。悪いけどあたし、お兄ちゃんみたいな何の取り柄もない男、恥ずかしくて友達に紹介なんてできないのよね」
声をとがらせて言うだけ言って、文香はリビングに通じる廊下の方へと歩み去っていった。ぼくは何一つ言い返すこともできず、ただドアのところに呆然と立ち尽くすばかりだった。
気付けばぼくは、
ぎりりと、きつく、奥歯を食いしばっていた。
『お兄ちゃんみたいな何の取り柄もない男』
『何の取り柄もないお前が持ってたって』
頭から離れなかった。
頭から出て行ってくれなかった。
ぼくの頭の中でぐわんぐわんと何度も何度も鳴り響いていた。
やめろと心が叫んでもそれはけして手を抜いてはくれなかった。
小花さんに彼氏ができたことが発覚。
そのお相手がまさかの刈谷だったということが発覚。
からのこの仕打ちだ。
神様はぼくに何か恨みでもあったのだろうか。
我慢強かった方だと思う。
しかし、さすがにもう、
限界だった。
「……かったな」
ぼそりとつぶやいた。
もういい。
こんなのはもう、うんざりだ。
「……悪かったな」
再びつぶやいた。
先ほどよりも明瞭に。ボリュームも上げて。
『い、伊角くん?』
「……お兄ちゃん?」
背後から深原さんの戸惑うような声が聞こえる。
廊下の奥から文香の訝しむような声が聞こえる。
だが、ぼくはどちらも無視した。歯牙にもかけなかった。
喉の奥から何かがせり上がってくる。
何かが爆発しようとしている。
一瞬だけ、止めようかとも思ったが、無理だった。勢いがあまりに強過ぎた。
言葉はぐちゃぐちゃな濁流となり、口の中から盛大にあふれ出ていった。
「何の取り柄もなくて悪かったな!!」
ぶちまけた。
とうとうぼくはぶちまけてしまった。
だって。
こんなにも苦しくて、辛くて、恥ずかしくて、情けなくて。
何よりも悔しくて。
こんなちっぽけな胸に閉じ込めたままにしておくなんて、もはや不可能だったのだ。
ぼくは部屋から出て、すぐそばにあった三和土へと足を踏み出し、玄関のドアを突き飛ばすように開けて、靴も履かずに外を駆け出していった。
背後で文香が待ってと叫んだような気がしたが、実際そう叫んだかどうかは定かではなかったが、どのみちぼくの足はしばらくの間止まりそうになかった。