【第一章 冬】(五)
ぼくはかつて見たローレライ事件に関するネットのインタビュー記事を思い出していた。
「ローレライさんが歌った歌、馬鹿みてえに上手かったんすよ」
「自分の声だってのにマジ聴き惚れましたわ」
「正直言うともっかいくらいローレライさん降りてきてくんねえかなって思ってまして(笑)」
大袈裟だな、とそのときは思った。
自身の声帯の構造がすげ替えられたわけでもあるまいし、そこまで上手く歌えるものか、とそのときは思った。
だが、そうではなかった。大袈裟なことでもなんでもなかった。
ぼくの口から発せられた、その歌。
もちろんさっきも言ったように歌うためのコンディションとしては最悪もいいところで、本来のポテンシャルの半分も出ていなかったのかもしれない。
それでもぼくは、聴き惚れた。
響きのある声、安定したピッチ、そしてフォルテとピアノの使い分けによる情感の表現。
目の覚めるような思いだった。ここまで上手く歌えるのかと、ぼくは確かな感動と陶酔を覚えていた。
しかし、ここまで上手く歌えるということは、だ。
もちろん深原さんが長年に渡って蓄積してきた知識と経験あってこその話だろうが、
ぼくなんかの声帯でもここまで上手く歌えるということは、
当然ながら、ぼくでもそれの再現は可能だということを意味していた。
嫌な予感はしていたのだ。
何故なら深原さんの駆る自転車のスピードは相当なものだったし、しかもそれは何十分と続いたし、おまけに歌だって平然と歌いまくっていたし、自宅マンションに着いたときのぼくの身体の息切れ具合ときたらそれはもう相当なものだった。
息はもろに絶え絶えだったのに、どうしてかぼくはたいして疲れを感じていたわけではなく、それが逆にぼくの不安を煽った。
これ、元に戻ったらまずいことになるんじゃないか?
不安にならないわけがなかったのだ。
しかしこれ以上深原さんに身体を預けたままというわけにもいかない。自転車を駐輪場のラックに差し込んでから、ぼくは約束通り、深原さんから身体を返してもらった。晴れて身体の主導権を取り戻すに至った。
案の定だった。やって来たのはおびただしいまでの疲労感だった。
荒々しく拍動する心臓。さっきまでのどこか他人事のようだった胸が早鐘を撞くような感じがようやく自分のものとなった。この寒空の下で自転車に乗って歌いまくってきたせいか、喉の奥がひどく冷たく、そしてくたびれているかのよう。疲労困憊の極みだった。
『ご、ごめんね伊角くん。あたしったらつい、はしゃいじゃって』
「……いえ」
深原さんはふわふわ浮きながらぼくの目の前で両手を合わせていた。だが、いまいち反省していないような表情、ひとことで言うなら『てへっ』みたいな表情だった。久々に生身の肉体を堪能できて、歌も歌うことができて、よっぽどご満悦だったと見える。喜びの感情がまったく隠し切れていない。
まあ、別にいいんですけどね。別に。
しばらくして、ようやく呼吸が少しだけ楽になってきたとき、深原さんがあらためて声をかけてくる。
『ねえ伊角くん』
「はい」
『伊角くんさ、挙動不審を治したいって言ってたよね』
「はあ」
『それって、具体的にはどうするつもりなの?』
「……それは」
耳に痛い問いだった。ぼくはあくまで大雑把になんとかしなければと思っていただけで、それに関する具体的な構想なんてまったく思い描いてはいなかったのだ。
『何も考えてないんだ』
「……すいません」
別に責めるような口調でもなんでもなかったのだが、ぼくはつい深原さんから視線をそらし、伏し目がちになってしまう。
『だったらさ、何度も言うようで悪いんだけど、歌、やってみない?』
継がれた言葉は、びっくりするほど優しげな響きを伴っていた。
『伊角くんはさ、あたしと違って未来がたくさんあるんだから、何かに全力で打ち込んでみた方がいいよ? そうすればさ、きっと自分に自信がつくと思うし、挙動不審だってきっとどっかに行っちゃうと思うんだよ』
「……っ」
『もちろん歌じゃなくてもいいよ? 伊角くんに他にやりたいことがあるんだったらそっちを優先させればいいと思うし。でも、やりたいことが特にないんだったら、ちょっとだけさ、やってみない? もちろん合唱部とかに入れなんて言わないよ? あくまで個人的に、こっそり練習するだけ。歌ならあたしもそこそこ教えられるし、あたしも同好の士ができるのはやっぱり嬉しいことだからさ』
えへへ、とはにかんだような笑い声を残し、深原さんのその話は締められた。
…………。
……歌、か。
なるほど。
悪くない、かもしれない。
そう思っている自分がいた。
薄々感じていたことなのだが、そもそもぼくに取り柄と呼べるものが何もなかったのがよくなかったのではないだろうか。取り柄がないから自信を持てず、自信を持てないから挙動不審になりがちになってしまっていたのではないだろうか。
だから、何かを始めてみる。取り柄を作る。渡りに船ということで、深原さんから歌を教わってみる。悪くない話だと思っている自分がいたのだ。
このぼくが歌だなんて、本来ならあり得ないと即座に一蹴していただろうが、この身体を使ってあれだけの歌を披露されてはさすがのぼくでも迷ってしまう。あれだけのことができるようになったら自信なんて嫌でもつきそうな気がするし、あとやっぱり、純粋に楽しそうだなというのもあった。
それに、何よりもだ。
小花さんが言っていたではないか。
あたしも歌上手い男の人って好きだし、と。
昼休み以降、その言葉はぼくの頭の中にずっと息づいていた。
どれほどの本気度がその言葉に込められていたのかは分からない。もしかしたらその場のノリで適当に言っただけだったのかもしれない。というか仮に本気で言っていたとして、ぼくなんかに『可能性』なんてほとんど皆無だろう。当然だ。夢と現実の区別がつかないくらいぼくはこじらせてはいないつもりだ。
可能性なんてほとんど皆無。
清々しいくらい馬鹿げた考え。
だというのに、どうしてぼくは思案をやめられずにいるのだろう。ここまで諦めの悪い男だっただろうか。我ながら意外である。
「……少し、考えさせてください」
ぽつりとそう言った。
出した答えは結局ただの先送り。しかし深原さんは特にふて腐れたりすることもなく、『オッケー』と満足げに目を細めたのだった。
「……ていうか深原さん、思ったんですけど、目的と手段がいつの間にか入れ替わってますよね?」
『え? ああ、そういえばそうだ。確かに。もー、気付いてたんなら教えてよー』
「それくらい自分で気付いてください」
『いやーん生意気な子。寝ている間に乗り移って街で豪遊してきちゃうぞー?』
「やめてください。てかそんなことできるんですか?」
そんな歓談を繰り広げながら、ぼくは駐輪場からマンションのエントランスへと向かって歩き出していった。
うん。よし。
少しだけ、前向きに検討してみようかな。
それが起こったのは翌日のことだった。
朝のホームルームの五分前くらいに1―Cの教室に到着すると、教室の一部分では人だかりができていた。ちょうど小花さんの席のあたりだった。
人だかりはほとんどが女子で、彼女たちは例外なく興味津々の面持ちで中心地にいた小花さんに質問攻めをしていた。小花さんは少しだけ困ったような顔をしていたが、いじめや嫌がらせめいた空気ではない。例えるなら買い換えたスマホケースがとびきりおしゃれ可愛くてみんなからキャーキャー言われていたみたいな、あくまでその程度の空気だ。今日も教室は平和そのものだった。
「……ん?」
自分の席へと向かう道中、ぼくは温度差に気付く。
そう。温度差だ。
女子のほとんどはその人だかりの中で楽しげに騒ぎ立てていたのに、男子のほとんどはなんというか、お通夜ムードが漂っていたのだ。人だかりを遠巻きに眺める男子たちの顔は見るからにしょぼくれていて、「……俺たちの小花さんが」という死に際みたいなうめき声もどこからともなく聞こえてきて、ぼくは俄然興味をかき立てられる。
「何があったの?」と気軽に聞ける相手でもいればよかったのだが、ぼくには叶わぬ願いだということは今さら言うまでもないだろう。ぼっちの自分がまったくもって呪わしい。
『何があったの?』
自分の席に到着した瞬間、逆に聞かれてしまった。声の主はもちろん深原さんだ。深原さんはふわふわ浮きながら怪訝そうな表情で人だかりに関心を寄せている。しかし今教室に入ったばかりのぼくに真相なんて分かるはずもなく、さあ、と極小の声で返事をするしかなかった。
だが、
意外にも、そして無情にも、
何があったのかが判明したのは、そのすぐあとのことだった。
「で、どうなの? もうチューとかしちゃったの?」
「もう、してないってば。……まあ、されそうにはなったけど」
興味深げに問いかけた一人の女子。
おずおずと答えた小花さん。
そして沸き起こる黄色い歓声。
小花さんを取り巻く女子たちがテンションをさらに倍増させていった。
そんなやりとりを、ぼくは遠巻きに、ぼんやりと眺めていた。
……ああ、
そういうことか。
ぼくは理解した。
ほんの短い会話だったがぼくはすべてを理解した。
どうやら小花さんに、彼氏ができたらしい。
それで女子たちと男子たちのこの反応の差というわけか。
なんということもなかった。今日も教室は平和そのものだった。
二月の空の下は相変わらず骨身に徹する寒さだった。しかも今日は夕方から雪が降ることもあるそうだ。寒さが苦手な身としては死にたい気持ちでいっぱいだったが、なんとかそれを押し殺し、ペダルを回転させていく。
もちろん、死にたい気持ちになっていたのは、寒さのせいだけではなかった。
「……はあ」
放課後の、学校からの帰り道。本日都合何度目か分からないため息をまたしても披露する。
ぼくの身体は内部に通っていた芯を突如として失ったみたいに、へなへなふにゃふにゃと脱力しまくっていた。その脱力っぷりはぼくの駆る自転車にもしっかり反映されており、さながら補助輪が取れたばかりの子供の運転のように、危なっかしさ満点のものになっていた。
『伊角くん、その運転危ないよ?』
「……はい」
『ていうか伊角くん、顔超暗いんだけど』
「……ほっといてください」
ふー、と深原さんもまた大きなため息をついた。
『もう、伊角くんたら、いつまで引きずってるかなあ。可愛い子に彼氏なんているに決まってるじゃん。しかもあれだけ可愛かったらさ、そりゃあもう引く手あまただよ。むしろ今までいなかったのが不思議なくらいだし』
「そんなこと、分かってますよ」
言われるまでもない。小花さんはどこからどう見ても美少女だし、ぼくなんかにも手を差し伸べてくれるくらい心優しい人だし、普通に考えて男たちが放っておくはずがないだろう。可愛い子に彼氏がいないなんて二次元の中だけの話で、現実はそうもいかない。そんなことくらいちゃんと分かっていた。覚悟だってしていたつもりだ。
なのにこのザマである。ぼくはすっかり打ちひしがれていた。生きる意味そのものを根こそぎ奪われたような気分だった。
だって、仕方がないではないか。
いくら想定や覚悟をしていたところで、そんなのほんのささやかな気休めにしかならないのだ。どれだけ自分を騙くらかそうとも、殴られれば痛いし蹴られれば痛い。そんなものだ。それが覆るなんて絶対にありはしないのだ。
ぼくはふと、中学時代のことを思い出してしまった。あの刈谷のターゲットにされていた常闇の中学時代のことを。しかしすぐに頭から追い払った。これ以上憂鬱のタネを自ら増やすこともないだろう。頭がどうにかなってしまう。
「あっ」
そんなとき、自転車の前輪に妙な違和感を覚えた。
この特有の頼りない感じ。もしや。
ブレーキをかけて自転車を歩道の隅に止める。前輪を手で軽くつまんでみると、そこにあったのはふにゃりとした感触。
『パンクしちゃったの?』
「……うん。そうみたい」
深原さんの問いかけに力なく答える。
またしてもか。パンクは二日前にちゃんと直してもらったはずなのに。まさかあの自転車屋の店主、手抜きしたんじゃないだろうな。
どこかの自転車屋に寄ってまた修理……は、駄目だ。何故なら今の財布の中には野口さんが一人もいなかったのだ。自転車を押して歩いて帰るしかなかった。
「……厄日だ」
悄然とつぶやき、ぼくは自転車のグリップを握ってとぼとぼと歩き出していく。
学校はついさっき出たばかりだ。家までの道のりは、遥か遠い。