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ローレライの教室  作者: 五十嵐某
5/22

【第一章 冬】(四)

『ねえ伊角くん、ちょっと聞きにくいこと聞いていい?』

「なんとなく内容は想像つきますけど、なんですか?」

『伊角くんってさ、友達いないの?』

「いません」

『ほんとに?』

「はい」

 それは昼休み、いつも通り図書室の飲食専用スペースで弁当をつついていたときのことだった。隣にいた深原さんが唐突にそんなことを聞いてきたのだ。

 深原さんのご推察の通り、ぼくはこの学校に友達がいなかった。ただの一人もだ。同じ中学出身の生徒も何人かはいたのだが、全員そこまで仲がいいわけではなかったし、そもそも全員別のクラスだったのでどうしようもなかった。友達が欲しければ新しいクラスで新しく開拓するしか道はなく、しかしそうなるとぼくの持病がものの見事に足を引っ張る。誰かと話をしようとするといつだって挙動不審になってしまい、うまくいくわけがなかったのだ。

 そんなわけで、ぼくの高校生活は誰とも話をしないのがデフォの、ひたすら寂しいものになっていたのだ。それを深原さんは近くでしばらく見ていた。そりゃあそんな質問をしたくもなるだろう。

 ちなみに深原さんとの会話は傍から見たらぼそぼそと独り言をつぶやいているようにしか見えないので、偽装の一環として今は耳からイヤホンを垂らしている。もっともこれで万事解決だなんてもちろん思ってはいない。ないよりはマシ程度のささやかな抵抗である。

『友達欲しいって思わないの?』

「……思わないってわけでもないですけど」

 デザートのカットフルーツを口に運んでいきながら、ぼくは小声で深原さんの問いに答える。

 恥ずかしいので声を大にしては言えないが、友達はやはり欲しい。そんなもの不要だと自信満々に言い切れるほどぼくは中二病を患ってはいない。

「まあ、ぼくにも色々と事情があるんですよ」

『ひょっとして昨日のあいつらが原因?』

 かららん。

 机上に箸を落っことす。

 まさかのまさか。一発で言い当てられるとは。そのときのぼくの顔はもろに引きつっていたことと思う。

 深原さんはどこか不敵な笑みを浮かべ、ふんわりとぼくの頭上へ移動してきた。

『よく分かんないけどさ、あいつらが原因だってんなら、あたしが伊角くんに代わって懲らしめてあげよっか? あいつらの誰かに乗り移って、二度と伊角くんに悪さができないよう』

「やめてください、もう終わったことですから」

 なにやら物騒なことを言い出した深原さんに、ぼくはすかさず待ったをかけた。

 そう、それはもう終わったことなのだ。少なくとも現在進行形で害を被っているわけではまったくない。高校に上がったことで刈谷とはすっかり疎遠となり、昨日の予期せぬ再会を除けばそれなりに平和な毎日を送ってきたのだ。まあ空虚な毎日と言った方が正確かもしれないが、それを刈谷のせいにするならまだしも勝手に裁きを下すのはただの鬱憤晴らしだ。それでぼくの持病が治るわけでもあるまいし、そこまで駄目人間にはなりたくなかった。

「……簡単に説明すると、刈谷っていうあの赤髪の男に、中学時代に色々と嫌な目に遭わされたんです。それがきっかけでぼくは人付き合いの能力が激減したんです。人と話をしようとするとどうしても挙動不審になっちゃいまして。情けない話ですけどね」

 もう隠し立てができるような空気ではなかったし、何かよからぬことをしでかされても困るので、ぼくは深原さんにすべてを打ち明けたのだった。

『……そっか。大変だったんだね。伊角くんも』

 そう返した深原さんの声と顔は、いつになくしんみりとしたものになっていた。どうやらぼくの話をかなり重く受け止めたらしい。

 ……いや、それはそれで調子が狂うというか、そこはもっと冗談めかした空気を醸し出して欲しかったというか。

 うん、よし、話題を変えよう。

「ええと、そういうわけですから、今のぼくはそのへんを治すのが最優先なので、歌とかそういったことをやっている暇はないんです」

『むむっ』

 もの悲しげにまなじりを垂れ下げていた深原さんは、ぼくの言葉を受けた途端に眉を逆さハの字に吊り上げた。やはりそこは譲れないポイントだったらしい。抗議の声が今にもたたみかけられそうな勢い。

 案外この人、コントロールは容易なのかもしれない。とりあえず歌を持ち出しさえすればなにがしかの効果は期待できそうだ。そんな小狡いことを考えながら、食べ終わった弁当箱にそっと蓋をした。

「伊角くん?」

 そんなとき、

 後ろから声をかけられた。

 もちろんその声は深原さんの声ではない。深原さんなら現在ぼくの頭上のあたりをふわふわと漂っていたのだから。

 ていうか、この声って、まさか。

 ぼくは振り返り、そして、体中に緊張が一気に駆け巡っていった。


「ああやっぱり伊角くんか。駄目じゃない、こんなところで通話なんてしちゃ」

「……え?」

「いやだから、通話。通話でしょ? それ」

「……あ、は、はい!」

 耳から垂らしていたイヤホンについて言及していたのだと気付いたのはワンテンポ遅れてのことだった。ぼくはすぐさま立ち上がり、イヤホンを外してスマホの通話を切った(かのような動作をしてみせた)。

『あら可愛い子』

 深原さんが少女の姿を見てうっとりとした声で口にした。まったくの同意見だった。異論なんて挟む余地がない。

 ぱっちりとした大きな瞳、ぷっくらとした桜色の唇、日本人らしからぬ小さな顔といいしゅっと締まった頬といい、精巧に作られた人形のように整った顔立ちがそこにあった。ハーフアップの黒髪がこれまた可愛らしく、控えめでありながらおしゃれ感もちゃんと出ていて、名状しがたい華やかさを少女に与えていた。街で見かけたら誰もが二度見を余儀なくされることはもはや間違いなく、要するに目の前に現れたその少女は、美少女も美少女、掛け値無しの美少女だったのだ。何かの資料でも探しに来たのか、両手でハードカバーの本を抱え持っている。

 その少女の名は小花砂織。

 彼女はぼくのクラスメートだった。成績優秀でスポーツ万能で、クラス委員長も務めていたりして、まさに絵に描いたような優等生の子だった。

「いーい? 知ってるとは思うけど図書室はスマホは原則禁止になってるんだからね? まあそれを律義に守ってる生徒なんてほとんどいないわけだけど、それでも小声だったとはいえ、通話はさすがにね。分かるでしょ?」

「……すいませんでした」

 やはり小花さんは優等生だった。ぼくのハンズフリー通話(に見せかけた深原さんとの会話)に対し、大真面目な態度でこんこんとお説教をしてくれた。反論なんてできるはずもなく、一も二もなくぼくは謝った。

 ああ、小花さんの前でなんという失態。やはり図書室で通話の真似事はまずかったか。もっと別の場所にするべきだった。小花さんに嫌われてしまうのだけは避けたかったのに。

「あたしクラス委員長だからさ、こういうの見つけたら言わないといけないんだよね。ごめんね? 次からは気を付けてね?」

「……はい」

 今のぼくは、傍目にはさぞかし消沈した姿に映ったことだろう。

「うん。さて、ところでさあ、さっき歌っていう単語が聞こえてきたけど、気のせいじゃないよね?」

 次の瞬間だった。お説教はこれでおしまいとばかりに小花さんは表情を一転させた。恐れ多くもぼくに微笑みかけながら、そんなことを問いかけてきたのだ。

「……あ、いや、それは」

「誰かに誘われてるの? 歌をやろうって。なに? 合唱部とか?」

「い、いえ、そういう、わけでは」

 合唱部でもなければ軽音部でも応援団でも聖歌隊でもないが、誘われているのは事実だ。しかし誘い主が幽霊などとは口が裂けても言えるわけがなかった。

 いや、待て、それよりもだ。

 ぼくと深原さんの会話を聞かれていたということは、まさかとは思うが、ぼくの中学時代の話まで聞かれていたのではないか。

 ぞくりと寒気を覚えた。体中から血の気という血の気が引き潮のように引いていく。

 その話だけは、他の誰でもない小花さんにだけは、聞かれたくなかったのだ。

「……こ、小花さん、あの、ど、どこから」

「ん? ああ、どこから聞いてたのかって?」

 小花さんは今日も変わらず聡明で、挙動不審星人であるこんなぼくの喋りを一瞬で日本語に訳してくれた。こくこくと頭を縦に何度も振る。

「ええとね、歌とかそういったことをやっている暇はないっていうあたりかな」

 小花さんはそう言った。危ない危ない。滑り込みセーフだったようである。

「……そうですか、よかった」

「よかった?」

「な、なんでもないですなんでも!」

 ずいっと一歩踏み込んで、こちらの顔を興味深げに覗き込んでくる小花さん。今までにないくらいの至近距離になってしまい、おかげで身体は瞬間湯沸かし器に早変わりだ。そういう無邪気というか無防備なリアクションはやめて欲しい。心臓がもたない。

 深原さんがそんなぼくの姿を斜め上から俯瞰しながら、『青春だなあ』とニヤニヤ顔でつぶやいた。もちろんぼくは無視した。あれはただの立体映像。

「事情はよく分からないけどさ、歌、やってみたらいいんじゃない?」

「……え?」

 そんなときだった。予想だにしなかった相手からの予想だにしなかった勧めを受け、さすがにぼくは虚を衝かれた。

「最初はただなんとなく始めたことでも、やっていくうちに面白さに目覚めてハマっていくっていうのはあるんじゃないかな。あたしも中学時代、そんなふうにしてハマっちゃった遊びがあったから分かるんだよね。経験者は語るってやつ?」

 心得顔になってそんなことを話す小花さんがそこにいた。ぼくはただただぽかんとするばかりだった。

「だから、ほんのちょっとでも興味があるんだったら、やってみるのもありなんじゃない? うん、いいと思うよ? あたしも歌上手い男の人って好きだし」

「……っ」

「おっと、最後のはいらなかったかな? ごめん忘れて? それじゃあね」

 そう言って、小花さんはどこか含みのある笑みを浮かべると、くるりとこちらに背を向け、去っていった。

 本棚の角を曲がってその後ろ姿が見えなくなっても、ぼくはしばらくの間その場に立ち尽くし、小花さんの言葉を反芻し続けるのだった。


 その後の授業もすべてつつがなく終わった。刺すような寒さがいまだ猛威を振るう煤けたような曇り空の下、ぼくは震える身体に鞭打って、自転車に乗って帰途についていた。

 小花さんのことを話しながら。

「……小花さんは、深原さんも聞いたと思いますけど、ぼくのクラスの委員長をやっていて、なにかとクラスで浮いていたぼくに、色々と優しくしてくれた人なんです」

『……ふーん』

 あの昼休み以降、深原さんはぼくと小花さんとの関係についてしきりに尋ねていた。これはそれへの遅まきながらの返答だ。深原さんは登校時と同様ぼくの自転車の近くを低空飛行していた。神妙そうな面持ちでぼくの話に耳を傾けていた。

「小花さんには本当に感謝しているんです。小花さんがいたからこそぼくは毎日毎日好きでもない学校に通い続けることができたんです。学校に行きさえすれば小花さんに会える。もちろんぼくと小花さんは友達とすら呼べない微妙な間柄で、話もできない日の方が圧倒的に多かったんですけど、それでもぼくは小花さんの姿をたまに視界に収めるだけで、例えようもない充実感を感じていたんです」

 喋りながら、思った。

 ぼく、多分今、相当恥ずかしいことを喋っているんだろうな、と。

 でもそれ以上に、聞いて欲しいという願望の方が強かった。

 ぼくは誰かにこの話をずっと聞いて欲しかったんだと思う。

 深原さんはその小さな口を開き、ぽつりと、柔らかな口調でこう言った。

『好きなんだ。小花さんのこと』

「…………はい」

 うなずいた。

 顔が熱い。ひたすら熱い。絶対にこれは耳まで真っ赤になっているやつだ。恥ずかしさのあまり深原さんの方を向くことができない。深原さんがそのときどんな顔をしていたのかももちろん分からない。

 その後は二人とも無言だった。無言のまま自転車を漕ぎ進めていくぼく。ペダルが回転するときに生じるかすかな金属音だけがぼくの耳に届いていた。

 ややあって、深原さんが話しかけてきた。

『ねえ伊角くん』

「はい」

『一つ聞きたいんだけどさあ』

「はい」

『自転車漕ぐのって疲れるよね?』

「はい?」

 声が大幅にうわずった。

 え? なに? その突拍子もない発言。

『あたしが代わってあげるよ。ちょっとだけ漕がせてよ。ね?』

「え、ちょ、ちょっと」

 深原さんは言うが早いか、自転車の横合いからその身を接近させてきた。原理なんてさっぱり分からなかったが、深原さんがぼくの身体に乗り移ろうとしているというその意図だけは分かった。ぼくの右腕と深原さんの左腕がするりと重なったあたりで、ぼくの焦りはいよいよピークへと達する。

「ま、待ってください。あの、自転車乗ってる間はちょっと! いや、だいたいそれって、ぼくの身体に危険は本当にないんでしょうね!?」

『多分ね』

「多分て!」

 なんという大雑把さ。

『もう、男の子が小さいこと気にしちゃ駄目だよー』

「気にしますよ!」

『んっふっふ、観念しなさいほらほらー』

「わ、分かりました! 代わります! 代わりますから運転中は、ちょっと待ってあのやめて!!」

 ジグザグと、危なっかしいことこの上ない動きを見せていたぼくの自転車は、やがて金切り声のようなブレーキ音をたてて歩道の端に停車した。周りに人がほとんどいなかったのは色々な意味で幸いだったとしか言えない。

『いよーし、それじゃあ伊角くん、代わってもいいよね? いいよね!?』

「……はい」

『いやったあ!』

 深原さんは歓呼の声を上げた。なんともまぶしい笑顔がそこにあった。それを見ながらぼくはひっそりと肩を落としていく。

 ああまったく、どんな副作用があるのかも分からないというのに、身体を代わるだなんて、言わなければよかった。

 まあ、既に一度やられたことではあるし、件のローレライ事件で身体に変調をきたした人間というのもいなかったみたいだし、大丈夫だとは思うけれど。

「……言っておきますけど、身体を貸すのは家に着くまでの間だけですからね。家に着いたらちゃんと返してくださいよ?」

『分かってる分かってるって。じゃあ早速、おっじゃまっしまーっす』

 サドルに跨がっていたぼくの右手方向から、深原さんがふわふわしながら接近してきた。動作そのものはただの緩慢なショルダータックル。しかし本来ならぶつかるはずのタイミングになっても両者がぶつかることはなく、代わりに深原さんの半透明の身体がぼくの身体にするりと潜り込んできた。ぼくの身体のあらゆる部位から深原さんの肢体が飛び出ているのが視認できる。異様な光景にごくりと喉を鳴らす。

 ばちん。

 ああ、来た。あれが。

 ばちん、ばちん、ばちん。

 胸を襲う謎の衝撃。ぶるんぶるんとぼくの身体が間抜けな波打ちをし始める。

 ほどなくして、その『ばちん』は終了。

 身体から飛び出ていた深原さんの肢体も気付けば見えなくなっていた。

「ひゃー、もー、やっぱり寒いわねーほんと」

 ぼくの口から、すらすらとそんな言葉が発せられた。

 普段のぼくの言葉よりも、少しだけ滑舌がよくなっていた。抑揚も目立っていた。そして口調がオネエになっていた。ううむ、実に気持ち悪い。

 もちろんそれはぼくの意思によるものではない。深原さんの意思によるものだ。身体の主導権が深原さんへと切り替えられていたのである。試しに思いっきり力を入れてみたが指一本動かすことすらできなかった。

 ぼく、もとい深原さんは、その場で顎を大きく引いた。それに伴いぼくの視界も変わる。自転車のフレーム部分が視界に映し出される。

「おーい伊角くーん、聞こえるー? 聞こえるなら返事してー?」

 深原さんがぼくの口で妙なことをおっしゃった。深原さんが見つめていたのはただの自転車のフレーム部分だが、どうやら身の内にいるぼくに対して呼びかけていたようだ。

 だが、さっきも言ったがこちとら指一本動かせない身だ。口も舌ももちろん微動だにできない。こんなんで返事なんてどうやってすればいいのだ。無理難題にもほどがある。

「返事しないとぼくは小花さんが好きだって街中に言いふらしちゃうよー」

『やめてください!』

 とんでもないことをのたまう深原さんだった。ぼくは心の中で声高に叫んだ。

「おお聞こえた聞こえた」

『え?』

「今の伊角くんの声聞こえたよ? 多分ね、強く念じればさ、その声はあたしにも聞こえるみたいなんだよね」

『……え、本当ですか?』

「ほんとほんと。でなきゃこうして会話なんてできるはずないっしょ?」

 ……なるほど、そういうシステム(?)になっていたのか。

 現状で分かったことをざっとまとめてみよう。

 深原さんは今ぼくの中に入っていた。ぼくの身体を自由に操ったり、また口を使って生身の声を発したりすることが可能になっていた。対するぼくはひたすらされるがままの状態。さながら糸で身体を吊られた操り人形のごとしだ。しかし意識を失ったり深原さんみたいに幽体になって漂ったりしているわけではなく、ぼくの意識は依然ぼくの中に確固として存在していた。視界も極めて良好。そして強く念じればこちらの考えを向こうに伝えることもできるらしい。

 ……うーん、思っていたほど不便というわけでもないのかな? これ。

 いや、待て。

『簡単に引き受けちゃったけど、もしずっとこのままだったらどうするんだよ。深原さんに限ってそんなことはないとは思うけれど、もしぼくの目が節穴だったとしたら』

「おーい伊角くーん、聞こえてるぞー」

 ぞんざいな口調で言われた。どうやら筒抜けだったらしい。下手な思考すらできないなんて、もしやこれは本格的にまずい事態なのでは……? と、ぼくは急に怖じ気づいた。

「大丈夫だよ伊角くん。あたしも何十分も誰かの身体に入ってなんていられないの。なんか知らないけど弾き出されちゃうんだよね。しばらくするとさ」

 そんなこちらの考えを読んだかのように、深原さんはつとめて明るく言った。

『そうなんですか?』

「そうそう。だから安心してよ。ね?」

『……はあ』

 深原さん、そんな説明だけで安心できるのはよっぽどの楽天家くらいですよ。

「まあそのへんは信じてもらうしかないかな。さあて、それじゃあ行きますかあ! しゅっぱーつ!」

『うおっ』

 ぼくの両手がグリップを強く握り、ぼくの両足がペダルを強く踏みしめ、ぼくたち二人を乗せた自転車は颯爽と走り出していった。猛然と回転するペダルに自転車はみるみるうちに速度を上げ、いつしか身体はサドルから腰を浮かせて立ち漕ぎまでし始めた。向かい風が肌を刺し、所々雪化粧で彩られた街並みが次々と背後へ流れていく。

 かなりの速度が出ていたはずなのに、ぼくは疲労も寒気もちっとも感じていなかった。

 何故だろう。身体を明け渡したことによって、そういった感覚はすべて深原さんの方に行っていたのだろうか?

 いや、まあいい。確かに少々奇っ怪ではあったが、疲れもしなければ寒さも感じないし、これはこれで快適なサイクリングだ。深原さんに身体を明け渡したことによる思わぬ利点だったと考えることにしよう。

 そんなときだった。

「二の足踏んでちゃ始まらない。慎重もいいけど~」

 自転車を漕ぎながら、深原さんが突如として歌い出したのだ。

『ちょ、あの、深原さん?』

 それはぼくの知らない曲だった。おそらくはAメロの部分だろう。ミドルテンポで明るげで、なんだかすごくいい曲っぽい感じがしたが、しかし今は悠長に音楽鑑賞している場合ではない。

「どしたの伊角くん。勝手に歌とか歌うなって?」

 どうやらこちらの焦る声が聞こえたらしく、深原さんは歌を中断してくれた。

『そりゃあそうですよ。こんなところで歌なんて歌ってるのをクラスの誰かに見られたらどうするんですか』

「えー、それは大丈夫だと思うけどなあ。だってほら、授業終わってこんなに真っ先に帰るのなんて伊角くんくらいだし」

 たちどころに論破された。ぼくは二の句が継げなくなる。というかそういう論破はぼくが傷つくからやめて欲しいのですが……。

「気付いてないかもしれないけどさ、伊角くんはね、本当はすっごい幸せ者なんだよ?」

『……はい?』

「生身の身体でこうして歌が歌えるっていうのはね、すっごい幸せなことなんだよ?」

『……っ!』

 言われてはっとした。

 そうだ。

 深原さんは幽霊だ。本来ならばこの世には存在しないはずの存在だ。

 どんな手違いがあってこうしてこの世に留まり続けていられるのかは知らないが、少なくとも深原さんが再び人間の身に戻ることは叶わないだろう。言うまでもないことだが死者は蘇らないのだ。現実は非情なのだ。

 普通の人間なら当たり前のように持っている、夢や希望。そして未来。

 それらを深原さんは持っていなかった。永劫に持ち得ようがなかったのだ。

 だからこそ深原さんは、生きている人間に対して、中でも特に、死んでいるように生きている人間に対して、

 ぼくという人間に対して、

 色々と、思うところがあったのかもしれない。

「もっと高く飛び立てば。景色は見違えるさ~」

 深原さんは再び歌い出す。

 自転車を漕ぎながらだし、慣れないぼくの身体を使ってのことだし、二月の寒空の下ということもあり、深原さんからすればコンディションは最悪以外の何物でもなかっただろう。

 しかし深原さんは歌う。

 歌い続ける。

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