【第一章 冬】(三)
「ローレライ事件?」
ぼくは深原さんの口にした単語を、オウム返しに問い返した。
リビングでの夕食を終え、部屋へと戻って椅子に腰掛け、部屋の中央でふわふわ浮かんでいた深原さんと再び話をしていたのだが、『そういえばローレライ事件って知ってる?』と深原さんが唐突に言い出したのだ。
確かローレライというのは、美しい歌声で船人を惑わせて海に引きずり込んでしまう妖精、みたいな感じだったと思う。
しかしローレライ事件というのは、ちょっと聞いたことがない。なんだそれは。
「……聞いたことないですけど」
『ちょっとスマホで調べてみてくれない?』
「はあ」
ぼくはスマホを操作して検索エンジンを呼び出し、ローレライ事件……と入力している最中に、深原さんが隣にふわりと陣取ってきて、ぼくのスマホを覗き込む。やはり深原さんは美人だし、ワンピースからのぞく首筋や肩は見ていてどうにも変な気分になるし、女子に免疫のない身としては若干動揺してしまうが、幽霊に何を意識しているのだと自分に言い聞かせ、作業を進めていった。隣を気にしてはいけない。これはただの立体映像。
「……ええと」
とあるメディアサイトに飛び、そこに書かれた記事を黙読していく。
【今、音楽好きの若者の間で騒ぎになっているローレライ事件とは?】
【我々は被害(?)に遭ったという専門学生のKさん(二〇)とコンタクトを取り、インタビューに応じてもらった】
インタビューの内容にも目を通していく。
「歌っていたとき、あなたはちゃんと意識があったんですね?」
「はい。それはありました。間違いなく。友達にはおめえ二重人格かよとか夢遊病になったかとか色々言われましたけど、そうじゃないと思うんです。だって意識だけは本当にはっきりしてましたから。でも身体は全然思い通りに動いてくれなくて、マジわけわかんねえっすよ」
「一体何者なんでしょうね。ローレライさんて」
「いや俺に聞かれても困りますって(笑)」
――なるほど。
かいつまんで説明するとこんな感じか。
カラオケ店で歌っていたり、あるいは路上で弾き語りをしていたら、一時的に身体を乗っ取られて何者かに歌を勝手に歌われる。そんな事件が半年ほど前からぼくの住む宮城県内各地で多発していたというのだ。
事件とは言っても適当な邦楽を勝手に一曲歌われるくらいで、被害なんてあってないようなものだった。しかし極めて得体の知れない事件でもあった。オカルト性の高さからその怪事件の噂はどんどん広まっていき、いつしか犯人はローレライさんと呼ばれるようになり、事件そのものもローレライ事件と呼ばれるようになったそうだ。なんでも乗っ取られた際の自分の歌が皆あまりに上手になっていたからそういう呼称が取られたのだという。
ぼくはゆっくりと深原さんの方を向く。
「……深原さん、悪さするつもりはないとか言ってませんでしたか?」
『あー、やっぱり分かっちゃった? あたしが犯人だって』
「……そりゃ分かりますよ」
不可視の存在で、人の身体に乗り移ることができて、そして歌が好き。こんなの深原さん以外にどんな犯人がいるというのだ。
深原さんは言っていた。生前は歌手になる夢をずっと追い続けていたのだと。
しかしその夢は、深原さんの命とともにあえなく砕け散ってしまった。
その後深原さんは幽霊となり、普通の人間には認識されない存在となった。しかし他人の身体に一時的に乗り移ることが可能という怪しげな特典付き。ならば深原さんがその特典をフル活用して憂さ晴らしにふけっていたとしても何もおかしいことではない。むしろ十分にあり得そうな話だ。
『でもでも、あたしだってちゃんと乗り移る相手は選んでるもん! カラオケのお客さんや路上ミュージシャン以外で乗り移ったことないし! ……まあ君の場合は、人助けってことで目ぇつぶって欲しいんだけどさ』
綺麗な唇をとがらせながら弁明するローレライさん、もとい深原さん。
一応見境なしに乗り移っていたわけではなかったらしい。そこは幸いだったのかもしれない。例えばトラックの運転中なんかに深原さんに去来されでもしたらぼくたち生者はたまったものではないだろう。最悪深原さんのお仲間が大量生産されてしまう。
「つまり深原さんは、基本的に、今から歌うぞってなってる人にしか乗り移らなかったんですね?」
『そうだよ』
「歌を歌うためだけに?」
『うん。だってあたし、歌大好きだからさ』
照れ臭そうに、しかし自信満々にそう言われ、ぼくはちくりとした胸の痛みを覚えた。
多分、うらやましかったんだと思う。
今のぼくには、これが好きだと胸を張って言えるようなものなんて、何もなかったから。
『さてと、まあそれが前置きなんだけどさ、ちょっと伊角くんにですね~、頼みがあるんだけどな~』
ぱちんと両手を叩き(どういう原理で音を出しているのかは知らない)、深原さんはぼくの正面へと移動し、そして、じりじりと迫り寄ってきた。
刻まれた笑みにはどこか邪悪な色が添えられており、ぞわりと肌が粟立った。なんだろう。嫌な予感しかしないのだが。
「な、なんですか、頼みって」
椅子ごと後ずさりながら、怖々と尋ねる。
『実はね~、伊角くんの身体を使って~、歌をちょっと歌わせて欲しいな~って思ってて。んふっ、駄目かな?』
深原さんはそう言った。
ぼくの身体を使って歌を歌わせて欲しい。
まあ、ですよね。なんとなく予想はしてました。
「すいません他を当たってください」
頭を垂れながらそんなふうに答えた。ほとんど即答だった。
『えー、待ってよー。もうちょっとくらい考えてくれてもいいでしょけちー』
けちー、と来たもんだ。子供のように頬をふくらませてぶうたれる深原さん、とてもじゃないが二十歳の姿には見えない。ぼくの中の二十歳のお姉さん像ががらがらと音をたてて崩れていく。
「いやいや深原さん、助けてもらったことには感謝してますけど」
『おおそうだ! あたし君のこと助けたじゃん! いやあ忘れてた忘れてた。これはもうあれだね! なんとかしてあたしに恩返しするしかないね!』
にわかにテンションを上げてびしっと親指をおっ立てる深原さんだった。しまった。ヤブヘビだったか。
「……あのですね、だいたい歌が歌いたいんだったらそこで普通に歌えばいいでしょう? 聴くだけなら別にいいですから」
『この身体じゃ駄目なの!』
「え?」
『だーかーらー、この身体で歌っても全然駄目なの。全然気持ちよくなれないんだってば』
「……そういうものなんですか?」
『そういうものなんです』
言い切られてしまった。はっきりと。
そんなわけないでしょうと反論したいのはやまやまだったが、ぼくとしても生身と幽体の両方を経験したことがあるわけではないので断定はできかねた。それに幽体ならばそんじょそこらの常識や物理法則なんてまず当てはまらないだろうし、であれば気持ちよさの生みの親であるアドレナリンやドーパミンといった神経伝達物質の分泌がそつなく行われていたのかどうかがまず怪しい。なにしろ幽体だ。生身の人間とは何もかもが異なっていたはずだ。
案外深原さんの言っていたことは嘘偽りのない真実だったのかもしれない。
まあ、だからといって、それとこれとはもちろん別問題なわけだが。
『ねえいいでしょー伊角くん、ちょっとだけ身体貸してよー。一生のお願いだからさー』
「一生はもう使い果たしてますよねあなた」
『んふふ、上手いこと言うね』
「……だいたい、ぼくが身体を貸したら深原さんはどうするんですか? ぼくの身体で路上で歌でも歌うつもりですか?」
『まさか。そんなことしないよ。人前なんかじゃ歌わないって』
「じゃあどこで歌うつもりですか?」
『んーと、カラオケとか?』
「そのお金は誰が出すんですか?」
『…………』
「あさっての方を向かないでください!」
途端に顔に憂色をたたえ、ぼくから目をそらす深原さんだった。思わず強気に言い放つ。
やはりお金はぼくが出すのか。そんな条件誰が呑むというのだ。こちらにメリットが一つとしてないではないか。
と、思った次の瞬間、深原さんは両目を大きく見開き、再びこちらに視線を向けてきた。そこにあったのはとても素晴らしいアイディアを思い付いたとでも言いたげな得意顔。表情のころころ変わるお人だ。
『そうだ。ねえ、身体貸してくれたらさあ、お礼にあたし、伊角くんに歌教えてあげるよ』
「歌を、教える?」
『うん。あたしがこれまでにかき集めてきた、歌が上手くなるためのノウハウ、ぜーんぶ教えてあげてもいいよ? わーお、あたしってばナイスアイディア! 伊角くんは歌を歌うための体作りができるし、そしたらあたしも伊角くんの中でずっと気持ちよく歌えるようになるし、ウィンウィンの関係じゃん!』
歌を教える。
深原さん的にそれは、もってけ泥棒と言わんばかりのとびきりの大盤振る舞いだったのかもしれない。が、ぼく的にそれは、例えるなら豚に真珠。猫に小判。ありがたさなんて微塵もなかった。
「教えられたところで、メリットが思い付かないんですけど」
『ああ伊角くん、歌とか全然やったことない人? じゃあさ、これを機会に始めてみようよ』
「やめてくださいよ。ぼくが歌とか、絶対似合わないですし、無理です」
きっぱりと否定した。
絵に描いたような陰キャのぼくが歌を始めようだなんて、あり得ない。似合わな過ぎる。文香あたりに聞かれたら即刻鼻で笑われることだろう。
『だいじょぶだいじょぶ、確かにさっき伊角くんの身体で叫ばせてもらったとき、身体の支えがいまいちだなーって思ったけど、鍛えればなんとかなるよ。ていうかこれはまたとないチャンスだよ? あたしがその気になれば伊角くんの身体の中に入って色々教えてあげることもできるし、そんなボイトレの先生この世界のどこにもいないよ? やったね伊角くん! 超ラッキーだよ!』
「知りませんよそんなこと!」
ぼくはぶっきらぼうに突っ込みを入れた。なんだか深原さんの扱いがどんどん雑になってきている気がする。
人は誰かと仲良くなっていくと対応はどんどん雑になっていくものだ。きっとぼくは深原さんと、幽霊であるこの深原さんと、奇しくも仲良くなっているところなのだろう。
それ自体は別にいい。繰り返すようだが深原さんの相手をするのはけして嫌だとは思っていなかったのだから。
だが、歌を教えるからやってみようよというこのお誘い。さすがにこれは賛同できかねるものがあった。考え直して欲しい。ぼくにはハードルが高過ぎる。猿にスマホを扱わせるのはもう少し進化してからにすべきではなかろうか。
『ねーいいじゃん、やってみようよー。歌とか音楽とかさあ、覚えたらすっごく楽しいよ? そうそうあたし実はアコギもちょっとやっててさ、教えるならそっちの方がいい?』
「いやいや、だからやりませんって。どっちも」
『そこをなんとか!』
「……ああもう、深原さんも諦めの悪い人ですね」
『うん。なんかグイグイ押せばイケそうな気がするんだよね』
「……それをぼくに言いますか」
これだけ否定しているのに、めげることなく熱心に勧誘してくる深原さんだった。ぼくとは大違いの半端なきバイタリティ。これではどっちが死人なのか分かったものじゃない。
『伊角くんもさあ、別に音楽そのものが嫌いなわけじゃないんでしょ?』
語尾に『?』こそついていたが、ほぼ断言口調だった。ぼくは眉をひそめる。
「どうしてそう言い切れるんですか?」
『だってほら、あれ』
「え? ……あっ」
深原さんが指差したのは、部屋の隅にあるハンガーラックの足下部分。
そこに、某大型書店の袋と、そしてそこから出て来たのであろう一枚のジュエルケースが落ちていたのだ。
宮内守の『Flying』のCDである。
そうだ。刈谷に脅されたり深原さんに助けられたり、そんな急展開に次ぐ急展開のおかげですっかり忘れていた。上着のポケットにそれを入れっぱなしにしていたのを。そういえばぼくはそれを買うために近所の大型書店まで足を運んだのだった。ぼくは慌ててハンガーラックまで駆け寄り、上着のちょうど下にあったジュエルケースを拾い上げる。幸い傷らしい傷はほとんどなかった。ほっと安堵する。
『んっふっふ、伊角く~ん?』
そのとき唐突に、背後から勝ち誇ったような声が。
振り返った先にいたのは、お手本みたいなドヤ顔でぼくを見下ろしている深原さんだった。
ああ、これはまずい。なんという痛恨のミス。深原さんを調子付かせてしまう。
「あ、あのですね、これは」
ぼくはどうにか言い訳の言葉を探そうとするが、それよりも深原さんが愉悦まみれの顔で言葉を叩きつけてくる方が早かった。
『もー、やっぱり伊角くんてばそういうの好きなんじゃない。よーしみなまで言うな。あたしに任せなさい。めっちゃいい声でこの曲歌えるようにしたげるよ。んふふ、さーてまずは何を教えよっかなー』
「誤解です!」
――そんな感じで、どうにかぼくに歌をやらせようとする深原さん、決死の抵抗を試みるぼく、真っ二つに分かれた二人のグダグダな論争は、ぼくの声のボリュームにたまりかねた文香が再び怒鳴り込んでくるまで続いた。
昨日も寒かったが今日もまた一段と寒かった。外に出た途端に吹き込んでくるあの冷え冷えとした風はいつまで経っても慣れない。
ぼくは自転車に乗って西高へと向かっているところだった。西高はぼくの家の遥か南にある高校で、自転車で約三十分かかる。冬場にこれは正直キツい。電車通学するという案も考えたりはしたのだが、実は一度実験してみたところそっちの方が通学にかかるトータル時間が長くなるということが判明。さっさと家に帰れるこっちの方がまだマシだと思い、凍るような東北の風が吹きすさぶ中、ぼくは今日もまたえっちらおっちらと自転車を漕ぎ進めていくのだった。
所要時間では優秀とはいえ、やはり疲労が激しいのは電車よりも自転車の方だ。しかもあの学校はぼくにとってちっとも楽しくもなんともない場所というのが余計に精神をガリガリ削ってくれる。下校中ならともかく登校中のこの三十分は苦行以外の何物でもなかった。
だが、今日だけは、そこまで苦行というわけではなかったのかもしれない。少なくとも退屈は一切感じずに済んでいた。
歩道を走る自転車が名取川に架かる太白大橋に差し掛かったとき、不思議がるような声をかけられる。
『ねえねえ伊角くん、そういえばどうしてイヤホンで音楽聴かないの? 昨日あたしスマホに入れてあげたじゃん。聴こうよ宮内守。ららららー♪』
「……それは、道交法違反です」
『わーお、まっじめー』
「悪かったですね。真面目で」
『もう、拗ねない拗ねない。んふふ』
今日のぼくの登校風景には、いつもだったら存在しないものが存在していた。
それを今から何の脚色もなく説明しようと思う。長い金髪をなびかせて、ぼくの自転車と並走するように低空飛行しているワンピース姿のお姉さんがいたのだ。意味が分からないと思うだろうか。ぼくだって意味が分からない。事実は小説よりも奇なりとはいみじくも言ったものだ。
この金髪のお姉さん――深原さんは、いわゆる幽霊というやつで、ぼく以外の人間にはまったく見ることができなかったらしい。現にぼくは深原さんと並んだ状態でそこそこ移動してきたのに、すれ違う人たちはおしなべて無反応。もし見えていたら絶対に大騒ぎになっていたはずなのにそんな気配はまるでなかった。
ぼくは霊感なんてからっきしだ。なのに何故ぼくにだけ深原さんが見えるのだろう。昨日気になって深原さんに聞いてみたりもしたのだが、心当たりは何一つないとのこと。真相は完全に闇の中だ。
もちろんぼくだって考えなかったわけではない。もしかしてぼくは頭がおかしくなったんじゃないのか、深原さんはぼくの頭が作り出した幻なんじゃないのか、と。
だが、深原さんは昨日パソコンを使ってスマホに音楽ファイルを取り込む方法を教示してくれた。ぼくはそのへんのことはとんと疎かったので正直とても助かった。おかげで今ならバッテリーをそこまで心配することなく宮内守の『Flying』が聴ける。
深原さんがぼくの頭が作り出した存在だとしたら、ぼくの知らない知識を繰り出してくれるなんてどう考えてもあり得ない。深原さんは本当に、夢でも幻でもなかったのだと判断するしかなかった。
『ところでさあ伊角くん、一晩経ったわけだけど、そろそろ歌とか始めてみたくなったんじゃない?』
「なんでですか。なりませんよ」
首をひねる深原さん。
『あれー? おかしいなあ。あたし伊角くんの寝てる枕元でずっと「あなたは歌を好きになーる好きになーる」って囁き続けてたのに』
「妙な呪いをかけないでください!」
昨日に引き続き突っ込みに精を出すぼくだった。