【第一章 冬】(二)
ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい。
変なのに出会った。どう考えても人間じゃないものに出会ってしまった。
あれは幽霊? 妖怪? 異星人?
しかしあれの正体がどうであれ、これだけは間違いないだろう。あれは人間が出会ってはいけないシロモノだったのだ。一度目をつけられてしまったが最後、死ぬまで取り憑かれて骨までしゃぶり尽くされてしまうのだ。そうに決まっている。
逃げるしかない。今のうちに、どうにか振り切るしかない。
ぼくは血眼になって自転車を疾走させていった。運動不足が顕著なぼくでも、今だけならツール・ド・フランスにも出場できそうな異例のスピードが出ていたと思う。おかげで自宅のマンションへとあっという間にたどり着くことができた。エレベーターに駆け込んで、自分の家へと駆け込んで、そして自分の部屋へと駆け込む。
「……はあ、はあ、はあ、はあ」
肩で息をしながら背中からドアに寄りかかり、そのままずり落ちていってぺたんと尻餅をつく。身体がすっかり自在に動かせるようになっていたことにそのときになってようやく気が付いた。
というか、さっき身体が勝手に動いてたのって、もしかして彼女が原因だったんじゃないのか?
何故だか知らないが、彼女はぼくの中からお出ましになられた。つまりいつの間にかぼくの身体に入っていたということになる。であればあのとき身体が勝手に動いていたのは彼女が関与していたからではないのか? というかぶっちゃけた話彼女がぼくの身体を操っていたからではないのか?
しかしあれだ。宙を漂う半透明の存在が、いつの間にかぼくの中に入っていて身体を操っていたなど、冷静になって考えてみたら最高にわけの分からない話だ。ぼくの身体は着ぐるみかよ。だが実際にそれがこの身体から出てきたところをはっきり見てしまった以上、ただの与太話と笑い飛ばすわけにもいかなかった。
「……ぼくの身体、本当に大丈夫だろうな?」
なんだか無性に不安になってきた。なにせこの身体は一時とはいえあれに支配されていた疑惑があるのだ。不安にならないわけがない。一度自分の身体をくまなく調べてみた方がよさそうである。
『電気つけたら?』
「……うん」
もっともな意見だった。焦りのあまりぼくは部屋の電気をまだつけていなかったのだ。身体を調べるなら普通に考えて明かりは必須。早速手を伸ばしてドア横のスイッチを押した。ぱっと部屋が明るくなる。
いやいや、待て待て。ちょっと待て。
おかしいだろ。一体なんだったんだよ今の声は。
まさかとは思うが――、
『やっほー』
――無情にも、そのまさかだった。
ぼくのすぐ真横に、あろうことか、先ほどの彼女の顔があったのだ。
上下逆さまの状態で、笑顔で横ピースしていた。
「うわああああああああああああああああっ!!」
再度絶叫。けたたましい喚声が部屋に響き渡る。
『ちょっとちょっとちょっと、部屋の中で大声出すのは感心しないわよ?』
「誰のせいだよ!」
腰に手を当て、しかし逆さ吊りのような状態はいまだ維持したまま、彼女はありがたいご高説を披露してくださった。ぼくはゴキブリのように床をカサカサ這って彼女のもとから距離を取り、半ばヤケクソ気味に悪態をついた。
ていうかなんで!? どうやってこの部屋入ったの!?
「お兄ちゃんうっさい!」
事態はさらなるややこしい方向へと舵を切った。先ほどのぼくの声がずいぶんとやかましく響いたのだろう、文香がドアを乱暴に開け放って現れたのだった。
「……? お兄ちゃん、なにやってんの?」
文香は部屋にへたり込んでいたぼくの姿を見て眉をひそめた。文香のすぐ横では謎の金髪美女が逆さでふわふわ浮かんでいたのに、それに気付く様子もない。一瞥もくれずにいる。
「……ふ、ふみか、そ、それ」
「え?」
ぼくは文香の横にいた彼女を恐る恐る指差した。文香は身体の向きをそっとそちらに変える。
『イエーイ』
そこにいた金髪美女は文香と目が合うやいなや、にっこりと文香に笑いかけて再び横ピースのポーズを取った。もちろん相変わらずの逆さ吊り状態。傍から見たらそれはそれは異様な光景であった。よく腰が抜けなかったな、ぼく。
こんな恐怖映像がいきなり視界に飛び込んでこようものなら男勝りの文香とて絶叫もやむを得まい、と思っていたのだが、文香はただ目を細めて難しい顔をするだけだった。
「なに? どっかに蜘蛛でもぶら下がってんの?」
「……あ、え?」
「悪いけど自分で退治して。あとご飯できてるからさっさと来て。でないとあたしがお母さんにぐちぐち言われるんだから、もう」
言いたいことを一方的に言い放ち、ぴしゃりとドアを閉めて文香は部屋から出ていった。目の前にいた逆さ吊りの彼女にまったく動じていなかった、のではなく、そもそもそんな存在をはなから認識していなかったような反応だった。
『んー、やっぱり、普通の子には見えないかあ』
どこか残念そうに言い、彼女は絹のような金髪をなびかせて空中で一八〇度側宙。頭と足の位置がひっくり返り、ようやく彼女は少しだけまっとうな人間の姿に近付いてくれた。あくまで少しだけ、だが。
電気のついたその部屋で、ぼくはあらためて彼女の姿を目に収める。
髪の色は金色だが、染めていただけだったのか、顔立ちはどう見ても日本人のそれだった。身長は一六六センチのぼくと同じくらい。年齢は多分ぼくよりも二つか三つくらい上。引き締まった小さな顔といい、ほっそりとした体型といい、女優やモデルと言われても納得しそうな文句なしの美人さんである。依然として半透明ではあるのだが、彼女の姿形がまったく目視できないということはない。
だが、彼女は今確かに言った。聞き捨てならないことを。
「……普通の子には、見えない?」
『そだよ。普通の子には見えないし、声も聞こえないみたいなんだよね、あたし』
彼女はこちらを向いて屈託のない口振りで言った。ぼくのつぶやきを肯定する形になった。
「……あ、あなたは一体、何者なんですか?」
なけなしの勇気をかき集め、ぼくは彼女に問いかける。
自分でも大それたことをしようとしていると思う。
ぼくはこの彼女と、どう見ても人外の領域に両足を突っ込んでいそうな彼女と、コミュニケーションを取ろうとしていたのだ。
自分や家族を守るためにはもうそうするしかないというのももちろんあったが、やはりぼくもぼくでずっと気になってはいたのだ。
一体彼女は何者なんだろう、と。
すると彼女は待ってましたとでも言わんばかりの輝かしい笑顔を浮かべ、一歩というか、一浮遊というか、とにかくこちらにわずかに近付いてから、得意げに口を開いた。
『んっふっふ、あたしが何者なのかって? いいよ、お答えいたしましょう。あたしの名前はフカハラアイ。深い原っぱの藍色の衣って書いて深原藍衣。卓球の愛ちゃんと名前似てるけど間違えちゃ駄目だよ? とにかくよろしくね。それで君の名前は?』
「い、伊角洸一です。……ってそんなんじゃなくて」
どうやらこの深原さんとやらはずいぶんとおしゃべりな人(?)だったらしい。だがその割に肝心なことは何も口にしてはくれなかった。ぼくは彼女にあなたは何者なのかと再び尋ねた。
『まあまあそんな、伊角くんだっけ? 慌てなさんなって。そういえば君って年いくつ? 十六歳くらい?』
「……あ、はい」
どうにもペースを握られがちになってしまう。話がろくに先に進まない。まあよく考えたらぼくみたいなコミュ障が会話のイニシアチブを握ろうってこと自体おこがましいことなのかもしれないが。
しかし、家族以外の人間と話をするといつだって挙動不審になるばかりだったのに、それどころか彼女は人間かどうかさえ疑わしいものがあったのに、いざこうして実際に話をしてみると、びっくりするほど落ち着きを取り戻している自分がいたことに気付いた。
家族を相手にしているのと同じくらいリラックスしている。
おかしな話である。こんなにも世にも奇妙な存在だというのに。
『十六歳かあ。いいなあ、若いなあ、今が一番楽しい時期っしょ?』
そんなことを聞いてくる深原さん。
ひどい買い被りもあったものだ。
「……それより、深原さんは今、おいくつなんですか?」
たとえ相手が誰であれ、その話題にはあまり触れて欲しくなかったので、ぼくは無理矢理話の矛先を変えた。すると深原さんは『あたし? ハタチだよ?』とあっさり答えてくれた。
二十歳。ではぼくよりも四歳上か。というかやはり人ではあるのか。では何故そんなけったいな姿をしているのだ。
『高校卒業後はね、ずっと歌手になる夢を追いかけてオーディションとか受けまくってたんだけどさ、半年前の夏にちょっと車に撥ねられちゃって、それが原因でこうなっちゃったってわけなんですよ』
ぱたぱたと片手を振りながら、深原さんは料理の失敗談でも語るかのようなお気楽な口調でそう話す。あまりにお気楽な口調と、その内容とのギャップ。ぼくの受けた衝撃の度合いを察してくれるとありがたい。
「……つまり、幽霊、ってことですか?」
恐る恐る口にすると、深原さんは『んふふ』と楽しげに笑った。
『まあそんなところだね。あ、言っとくけど悪霊じゃないよ? 悪さとかするつもりはないから安心してね?』
半透明で、ふわふわ浮いてて、正直そんな気はしていたのだが、やはり深原さんは幽霊というやつだったらしい。であればこの部屋に入れたのもうなずける。幽霊ならば壁抜けくらいお手の物だったのだろう。
「……悪さするつもりはないって、本当ですか?」
『本当だよ? ないない。こう見えてあたし育ちはいいんだから』
自信ありげに胸を張る深原さん。
……育ち云々は関係あるのだろうか? いや、ひとまず無視しよう。
「でも、さっきぼくに取り憑いてませんでしたか?」
『え? だって助かったでしょ?』
「え?」
『え?』
二人して、きょとんとした声を上げる。
が、少ししてぼくは、あっ、と大きく目を見開いた。
深原さんがあのときぼくに取り憑いたのは、ぼくに全力で叫ばせることで刈谷たちを追い払うのが目的だったのだ。街を散策でもしていたところ偶然あの現場に出くわし、自力でどうにかできそうになかったこの哀れな子羊を見るに見かねて助け船を出してくれたのだ。
というかちょっと考えればそんなのすぐに分かることだろうに。どれだけ鈍感なのだぼくは。ああ恥ずかしい。
「す、すいません。今気付きました。助けてもらったってことに。……生意気言ってすいませんでした」
慌てて平謝りをすると、深原さんはにこやかな笑みを浮かべてこちらに近付いてきた。
『いいのいいの、そんな恐縮しないでよ。でも君って若いのに礼儀正しいんだね。お姉さん、君みたいな子好きだなあ』
深原さんはぼくの顔を覗き込みながら大層なことをおっしゃった。細められた深原さんの瞳の上で長いまつげが一糸乱れず伸びているのが見える。不安や恐怖とはまったく違った意味で、急に騒ぎ出すぼくの心臓。
いやいやいやいや。
「……か、からかわないでください」
『あれれー? 伊角くん赤くなってるー?』
「赤くなってません!」
ぼくは思いっきり否定した。
こんなことで赤くなったりなんてするわけがない。そんなのいくらなんでもチョロ過ぎる。どこの深夜アニメのヒロインかと。だいたいぼくには小花さんがいるのだ。
『あ、伊角くんでいいよね? 君の呼び方。それともいっくんやいっちゃんの方がいい?』
「……伊角くんでいいです」
『りょうかーい』
承諾するぼく。あっけらかんと応じる深原さん。だがその直後、それはとても大きな意味を持っていたんじゃないかというふうに思った。
深原さんはこれからぼくのことを伊角くんと呼ぼうとしている。
すなわちそれは、これからもぼくと関わりを持とうとしているということを意味していたのでは。
「お兄ちゃん! ご飯だって言ってるでしょ!」
突如部屋にもたらされたのは、ドアを乱暴に叩く音と、文香の剣呑な怒鳴り声。
しまった。深原さんという珍客のおかげで夕食のことをすっかり忘れていた。
「い、今行くから!」
ドアの外の文香に、ついそう告げてしまった。深原さんに何の断りもなく。
「……ええと、その、ご飯食べてきてもいいですか?」
勝手に決めたことにぼくはなんとなく引け目を感じていたが、深原さんは実にのほほんとした表情を浮かべていた。
『うんいいよいいよ、食べてきなよ。あ、でも暇潰しにさ、テレビかなにかつけっぱにしてもらってもいい? いやあこの身体だと物とか触れなくってさあ』
居座る気満々のご様子だ。どうやらぼくはこの深原さんに気に入られたらしい。自分の姿が見える人間に出会えたのがそんなに嬉しかったのだろうか。とにかくご飯を食べたあとももう少しだけ深原さんに付き合わなければならないようだ。
自分でも驚きだ。
そのことをぼくは全然嫌だと思っていなかったのだから。