【第一章 冬】(一)
【第一章 冬】
昼休み。
ぼくはスマホをぽちぽちといじりながら、母さんが作ってくれた弁当を淡々と口に運んでいた。
ここは校舎の四階にある図書室の一角だ。あたりには紙とインクの香りがほのかに漂っている。
この高校、宮城県立名取西高等学校、通称西高は、はっきり言って特徴の乏しい学校だ。学力はよくて中の上。運動部の活躍なんかも特には聞かない。あくまでほどほどの真面目さを誇る、どこにでもあるような平凡な高校。そう言い切って差し支えないだろう。
この西高に入学してそろそろ一年が経とうとしていたが、ぼくはいまだクラスに馴染めずにいた。
友達と呼べる相手なんて一人もいないし、クラスSNSにも入れずにいる。
言っておくがクラスのみんなに非はない。彼らにいじめられているわけでもハブられているわけでもない。周囲の環境ということなら常闇の中学時代に比べればはるかに向上していたことだろう。これは単にぼくにコミュ力やらなにやらが著しく欠如していたというだけの話だ。
そんなぼくにとってこの図書室の存在は本当にありがたかった。なんとこの図書室には隅の方に飲食専用スペースが設けられていたのだ。教室で平然とぼっち飯ができるほどの胆力なんて持ち合わせていないぼくには願ってもない設備。まさに砂漠で見つけたオアシス。利用者も毎回そこまで多くはなかったため、昼休みはほぼここに常駐していると言っても過言ではなかった。
「……ふふっ」
弁当の中身をちょうど平らげたとき、ぼくは小さく笑みをこぼした。
スマホに表示されていたのはとあるイラスト投稿サイトのページだ。お気に入りのアニメキャラのタグを漁っていたら、本来のそのキャラに似つかわしくない非常にシュールな構図の絵にたどり着いたのだ。これはちょっと笑わずにはいられない。錆び付いていた表情筋が久々に稼働していくのが分かる。
「くすくす」
「ねー、おかしいよねー」
背後から声が聞こえた。
それは、女子の笑い声だった。
頬が途端に強張り、肩が大きく跳ね上がる。
恐々としながらゆっくりと後ろを振り返ると、視界の奥、立ち並ぶ本棚と本棚の間のところに、二人の女子生徒の後ろ姿があった。彼女たちは一方が手にしていたスマホの画面に釘付けになりながら歩いている。こちらに意識なんて毛ほども割いてはいない。
……考え過ぎ、か。
まったく情けない。自分が笑われたと思うなんて。
安堵と自己嫌悪の混濁したような心持ちで身体の向きを元に戻す。弁当は既に食べ終わっていたのでこれ以上この場に留まる意味はないが、どうせ教室に戻ったところでやることもないし話を交わすような相手もいない。昼休みもまだ半分近く残っていたし、もう少しだけここで時間を潰していこうと思った。
ぼくはスマホを再度ぽちぽちし始める。萌え絵漁りは一旦中断し、今度は適当なまとめサイトを巡回していく。
『【朗報】邦楽さん、終わっていなかった』
ほどなくして、とあるまとめサイトのそんな記事にぼくの目が留まった。タップして記事の文面を読んでいく。
ふむふむ。
どうやらそれは、数ヶ月にもわたる異例のロングヒットを今なお絶賛更新中の、とある邦楽を賞賛する内容だったようだ。
アーティスト名は宮内守。曲名は『Flying』。
宮内守という名前には聞き覚えがある。三年ほど前に解散と相成り、その後ソロアーティストとして再スタートを切ることとなった、某有名バンドのボーカルの名前だ。
しかし曲名の方は、聞き覚えがあるような、ないような、というのが正直なところだった。
とはいえ、よく分からないがとにかく相当売れている曲なのは確かなようだ。そう考えたら少しだけ興味が湧いてきた。検索バーにキーワードを入力して検索実行。関連動画がにわかに現れる。イヤホンを取り出してスマホと両耳に装着し、とりあえず公式のMVとおぼしき動画を早速再生させてみる。
そしてすぐに、あふれんばかりの音の群れが耳元で咲き乱れた。
ぼくは邦楽なんてほとんど聴かない。そもそも音楽を聴くという習慣がない。ごくたまに一部のアニメの主題歌に耽溺するくらいだ。キモオタ呼ばわりされても言い逃れはできないだろう。
驚きである。
そんなぼくが、まさかここまで胸を打たれるとは。
近未来的な映像もセンスに満ちあふれていて、そちらもつい見とれてしまうものがあったが、やはりなんと言っても曲が素晴らしかったのだ。明るくて軽快でまさにポップミュージックの理想型のような曲。シンプルではあるがそれだけにあっという間に心に染み渡った。
そういえば以前、どこかのまとめサイトで『【悲報】邦楽さん、終わってしまう』みたいな記事を見たことがあったが、馬鹿なやつもいたものだなと今なら心から思う。だって、日本にはまだこんなにもいい曲が存在しているではないか。オワコン扱いは早計というものだろう。
『いい曲だよねえ』
「うん」
ぼくはその声にこくりと同意を示してから――、
「――!?」
――即座に後ろを振り返った。
えっ? ちょっ、なに?
がたんと椅子から立ち上がり、大きく目を見開いてほうぼうに視線を送る。しかし付近には誰もいない。まるで耳元で囁かれたような声だったのに、それらしき女性の姿はどこにも見当たらない。
そう。女性の姿だ。
何故なら、先ほど確かに聞こえたはずのその声は、女性の声だったのだ。
しばし考えた末、
「……幻聴?」
行き着いたのは、そんな月並みな結論だった。
幻聴。普通ならそんなものを聞く機会なんてそうありはしないだろう。だがぼくはこんなところでぼっち飯をしているような悪い意味で希有な男だ。普通と言い張ったところでどれほどの説得力があろうか。
同い年の男子たちは青春を謳歌していることだろう。甘酸っぱい恋愛なんかもさぞや経験しているに違いない。もちろんぼくには極めて無縁の話であり、そんな機会なんてきっと訪れやしない。そうした寂しさが自分でも気付かぬうちに膨れ上がり、女性の幻聴を耳にするようになってしまった。悲しいが、あり得なくもないと思えてしまったのだ。
ため息を一つついてから椅子に座り直す。しばらくぼんやりとしてから先ほど聴いたMVをもう一度再生してみる。――そして再生終了。幻聴が語りかけてくることはもうなかった。
どう考えてもそれが普通のことなのに、わずかに落胆している自分がいたことに気付き、慌ててかぶりを振った。
放課後。
仙台駅から見て南に位置するJR長町駅周辺の街並みは、ここ数年で急激に様変わりを遂げていた。五橋の市立病院が移転してきたり、マンションや商業施設が破竹の勢いで建てられたり、気付けばそこに鎮座していたスポーツ施設群の多目的アリーナでは、スポーツの試合は言うに及ばず、なんとか坂とかいうアイドルグループのコンサートまで開かれたりしているらしい。
そんな目まぐるしく発展していく地元の街を横目で見ながら、ぼくは自転車で駆けていた。自転車のパンクは先ほど自転車屋に立ち寄って千円札を生贄にしたので運転に支障はもはやなかった。ひたすらにペダルを漕いでいく。
寒さは先月よりもぐっと増しており、ちょっとやそっとの重ね着程度では太刀打ちできないくらいになっていた。しかもただでさえ寒いのに天気予報によると明日と明後日はさらに冷える見込みらしい。これ以上寒くなるとか本当勘弁して欲しい。
容赦なく吹き付ける寒風に身を震わせながら自転車を漕いでいき、やっとの思いで長町駅からほど近くにある自宅マンションへとたどり着く。駐輪場に自転車を置き、エントランスを抜け、エレベーターに乗り込んで七階のボタンを押す。吐く息が白くならないのを見て少しだけ人心地ついたような気分になる。
が、人心地ついたのは一瞬だった。
とある一人の少女が視界に映り込んだからだ。
黒のダッフルコートと橙色のマフラーによって全身の八割がたを包んだ、身長一四〇センチくらいの小柄な少女だ。髪は黒のショートボブ。癖毛気味のぼくとは違う自然なストレートは正直ちょっとだけうらやましく思う。
彼女もぼくと同様、学校から帰ってきたところだったらしい。エントランスからこちらに向かって歩いてきた彼女は、しかしこちらの姿を確認するなり「げっ」とあからさまに顔をしかめた。
彼女はその場で足を止めたが、さっさと家に帰って暖房器具に当たりたいのはあちらも同じだったのだろう、すぐにその足を進めた。のしのしとどこか不服そうに歩いてきて、ぼく以外に乗客のいないエレベーターにむっつり顔で乗り込んだ。
エレベーターのドアを閉めてから、ぼくはおずおずと口を開く。
「……おかえり」
「……ただいま」
「…………」
「…………」
交わした会話はそれだけだった。味も素っ気もないとはこのことだ。やがてエレベーターは七階へと到着。気まずさから逃げるように、彼女はエレベーターから早々と降りていった。
なにもそんな逃げるように降りなくてもいいだろ、とぼくは心にちょっとだけ傷を負う。
まあ、気持ちは分からないでもないけどさ。
彼女は外廊下を通って七〇四号室の部屋へと入っていく。ぼくも遅ればせながらそのドアの前へと赴く。壁の表札には『伊角惣一 楽子 洸一 文香』と家族全員の名前が書かれていた。彼女――文香はぼくの二つ下の妹だった。
見ての通り、ぼくは文香とろくなコミュニケーションを取れなくなって久しい。文香は現在中学二年生で、年齢的に第二反抗期のど真ん中というのもあるが、兄であるぼくが不甲斐ないのがやはり一番の原因だろう。
「ただいまー」
気の抜けた声を上げながらぼくも家の中へと入る。中は暖房が既に効いていて、暖かい空気に久々に触れたような気がした。硬直していた筋肉が一斉に弛緩していくのが分かる。こういう冬場は専業主婦の母さんと、そして不景気にもかかわらずそれを可能にしてくれている父さんには本当に感謝に堪えない。
三和土で靴を脱ぎ、玄関マットを踏みしめ、そのすぐ左にあった部屋へと入る。電気ストーブのスイッチを入れ、鞄を手近なところに置き、上着を脱いでハンガーラックにかけ、そして床に敷いてあった布団におもむろにダイブした。
ふうっ。
なんとか今日も乗り切ることができた。そのままごろりと寝返りを打つ。
ぼくの部屋ははっきり言って汚い。布団は敷きっぱなしだし、漫画本はそこかしこに散らばりまくっているし、部屋の隅のカーペットにはそろそろ埃が目立つようになっていた。 わざわざ部屋に招くような友人なんて誰もいないとはいえ、部屋に埃がたまったままというのはさすがにいい気分はしない。
しばし布団の上で、何をするでもなくひたすらぼーっとしてから、
「……掃除機かけるか」
ぼくは上体を起こし、重い腰を浮かせて立ち上がった。辛いことばかりの学校生活のおかげで今日もMP不足は深刻だが、部屋の汚さを一度目にしてしまっては気になってMP回復どころではない。布団を畳んで押し入れに上げ、散らばる漫画本を所定の位置へと戻し、ほどなくして床の大部分がとりあえずは見えるようになる。
掃除機を取ってくるべく部屋のドアを開けると、急に声が聞こえてきた。
リビングの方から、母さんと文香の、言い争うような声が。
「いい加減にしなさい! お兄ちゃんのことを悪く言うんじゃないの!」
「だって本当のことじゃん!」
「文香!」
「なによ! 昔ちょっといじめに遭ってたくらいでお兄ちゃんばっかり贔屓して! あたしはどうでもいいってわけ!?」
ぼくはドアを速攻で閉めた。
掃除機をかけるのは諦めるしかなさそうだった。
小汚いままの部屋で一~二時間ほどを過ごしてから部屋を出る。向かいにあった文香の部屋のドアが視界に映るが、すぐに目をそらし、ずいぶんと静かになっていたリビングの方へと歩いていく。
キッチンにて母さんの姿を発見する。どうやら夕飯の準備に取りかかっているところだったらしい。早速声をかける。
「ちょっと出かけてくる」
「あら、もうすぐご飯よ?」
「大丈夫。すぐ帰るから」
「そう? 八時には帰るのよ?」
柔らかな笑みを浮かべて母さんは言う。なんとも優しげな表情だ。ちょっと前に文香と言い争うような声を上げていたのが嘘のようだ。
わずかな胸の痛みを感じながらも回れ右をして玄関へと向かう。すると賞状の一つが曲がっていることに不意に気付いた。ぼくは足を止め、両手を伸ばして丁重にそれを整える。
ぼくの家の廊下の壁にはたくさんの賞状が額に入れられて飾られていた。第三位、第二位、そして一位。すべて文香があの小さな身体でもぎ取ってきた栄光の証だ。
文香は小学生のころからなぎなたの教室に通っている。あの長い得物をお互い手にして丁々発止と打ち合っていくのが女だてらに血の気の多い文香の性に合っていたようで、めきめきと腕を上げていった。今や同年代であれば女子はもちろん男子にもひけを取らないくらいになっていた。
才能があったのは確かだろうが、文香は才能の上にあぐらをかくようなろくでなしではなかった。文香は毎日のように筋トレをしている。毎朝のようにランニングをしている。己を高める努力をけして怠らなかった。
あれは本当にすごいやつなのだ。
ぼくなんかとは違って。
「あら、どうしたの?」
「う、ううん、なんでもない、行ってくる」
母さんの声で我に返り、ぼくは玄関へと向かって今度こそ歩き出していった。
ぼくは中学時代にいじめに遭っていた。
具体的な時期は一年生の六月から二年生の七月までの間だ。およそ一年もの間辛酸を舐め続けてきたのだ。
何をされたのかは正直今でも語りたくない。いじめを受けていた当時もずっと誰にも話せずにいた。それをいいことにあいつの行動は日ごとにエスカレートしていった。思い出すだけで今でも胃がきゅうっと痛む。
結局そのいじめは調子に乗ったあいつがぼくを虐げている画像をSNSに上げたことによって白日の下となった。というかそんなことをして白日の下にならないわけがないだろうに。自爆以外の何物でもない。あいつは本当にただの馬鹿だったんだなと心の底から思ったものだった。
ともあれその画像がすべてのきっかけとなった。SNSは当然のように炎上した。義憤に駆られたネット民たちが目線付きの画像をどんどん拡散させたり、中学校に電話やメールで問い合わせを行ったり、他にもまあなんやかんやあって結構な騒動となった。おかげでぼくも黙して語らずを貫くわけにはいかなくなり、ぼくは自分がされたことを包み隠さず話したのだった。両親に。教師陣に。その他様々なお偉いさん方に。
ほどなくして、あいつは転校した。見て見ぬふりをしていた担任教師も担任から外され、学校ではとんと姿を見せなくなった。
ぼくの告白を聞いた両親が加害者側や学校側に対し、訴訟でも起こすかのような勢いで徹底抗戦したからである。それらを実現させるまでの両親の戦いは、さぞや壮絶を極めるものだったに違いない。
だが、割を食ったのが文香だった。
いじめ発覚後の両親は、ぼくが安心して学校に行ける環境を整えるためにあらゆる手を尽くしてくれた。その点は本当に感謝しているが、両親は一つだけミスを犯した。ぼくのことを守ろうとするあまり、もう一人の我が子をないがしろにするようになってしまったのである。
なぎなたの腕をどれだけ上げても、大会でどれだけ好成績を収めても、両親はほとんど文香に関心を示さなくなった。大会を見に行かないことも多くなった。意気揚々と一位の賞状を文香が持ち帰っても、母さんはなにやら難しそうな嘆願書だかの作成の真っ最中で、「今忙しいの。あとにして」とあっさり言い捨てた。そのときの文香の凍り付いたような表情は、ぼくの脳裏にいまだ焼き付いて離れない。
文香だってぼくの事情は知っているし、多少の同情の念はあるのだろうけれど、いつまで経ってもウジウジし続ける兄と、いつまで経っても自分より兄を優先し続ける両親に、イライラが募らないわけがなかったのだ。最近の文香はぼくと両親に対し、当たりがどんどんきつくなってきている。
お恥ずかしながら、それが今の、伊角家の内情だった。
「……どうしたものかな」
自転車に乗って近所の大型書店からの帰路につきながら、ぽつりとひとりごちる。
ぼくだって考えてはいたのだ。このままではいけない、なんとかしなければ、と。
結局のところすべての原因はぼくがいつまで経っても昔を引きずっている軟弱者というところにあるわけで、ならばぼくがもっとしっかりした男になれば両親も安心し、文香の言うところの贔屓もなくなるだろう。そうすれば万事解決だ。誰もがハッピーになれるこれ以外にない妙案だ。
……口で言うのは簡単だけどね。
信号に引っかかり、ブレーキを握って自転車を止める。
中学時代のことは今でもトラウマだ。あれ以来ぼくはすっかり臆病な性格になってしまったのだ。家族以外の人間と会うとどうしても挙動不審になってしまい、おかげで高校ではいまだにぼっち街道を驀進中なのである。我ながら情けない話だ。
「あれ? おーいお前」
…………。
……えっ?
突如後ろから呼びかけられた、その声。
あいつの声に似ていた。
あいつの少ししゃがれた声に、非常によく似ていた。
ぞくり、と、ぼくの身体を悪寒が駆け抜けていった。
「おーい、お前伊角だろ? なあ?」
たとえその声の主があいつだったとしても、ぼくに呼びかけたわけではなかったのかもしれない。というそんな期待は、もろくも砕け散った。
ぼくの身体はすっかりすくんでいた。逃げるどころか後ろを振り返ることすらできなくなっていた。それを察してか、声の主はぼくの前へと回り込み、
ぐこっ!
こめかみのあたりに、いきなり拳をおみまいしてくれたのだった。
そいつらはぼくを人気のない駐輪場まで無理矢理連行していった。
そいつらは三人組の男たちだった。一人は金髪で、一人はグラサンで、この二人はまるで見覚えのない顔だったが、最後の一人だけはよく見覚えのある顔をしていた。
赤銅色に染められた髪、獰猛そうな目つき、見るからにチンピラ然としたガラの悪そうなその男。
名は刈谷透流。
中学時代、ぼくを散々虐げてくれた、例のいじめの主犯格の男なのである。
「よお伊角、久しぶりだなあおい。二年ぶりくらいか?」
台詞だけを抜き取るなら、それは旧友との久方ぶりの語らいと取れなくもないだろう。しかしその台詞を吐く刈谷は、現在進行形でぼくの頭部をがっちりと掴み、コンクリートの壁にぐいぐいと押し付けていたのだ。こんな物騒な旧交の温め方が一体どこの世界にあろうか。
刈谷にはぼくの両親が相応のお灸を据えたはずなのに、まだ懲りていなかったらしい。いや、むしろお灸を据えられたことでぼくへの恨みを新たにしていたのかもしれない。だとすれば逆恨みもいいところだ。
「あーあーもう可哀想に、マジ痛そうこれ」
「運のねえ坊やだぜ。こんなやつに目ぇつけられるなんてよ」
軽薄な調子の金髪の言葉に、グラサンがやれやれとばかりに同調する。期待していたわけではなかったのだが、この二人に刈谷を止める気はなかったらしい。おそらく彼らは刈谷が高校で意気投合した者たちなのだろう。類は友を呼ぶとはこのことか。
「そうだ伊角。俺お前に金貸してたよな?」
「……え?」
刈谷が妙なことを口にする。何を言っているのだ。そんな事実なんてない。お金ということならむしろ――、
「か・し・て・た・よ・な?」
刈谷はぎらついた目で、ぼくの頭部を掴む手をさらに強く押し込んできた。強烈に圧迫される後頭部。痛みと恐怖とトラウマが竜巻のように荒れ狂い、ぼくは死に物狂いで頭をこくこくと上下させたのだった。反論や反抗をする勇気なんてもちろんありはしなかった。
「おおっと、じゃあ金返してもらうとすっか。ありがてえありがてえ。最近俺彼女できてよお、なにかと物入りで困ってたんだわ」
刈谷はぼくから手を離し、大袈裟に肩をすくめて見せた。ぼくは歯を食いしばりながら激烈な頭痛の余韻にしばしの間苛まれる。
……というか、こんなやつでも彼女ができるのか。嫌な話を聞いてしまった。こんなのと付き合おうと思う女子がいるだなんて。世を儚んで自殺したくなってきた。
「てーかなんでこんなやつに彼女とかできんだろうなあ」
「おめーは女に夢見過ぎなんだよ。あいつら基本馬鹿かクズだぞ? こいつみてえなのとはお似合いなんだよ」
偶然にも金髪がぼくと同じ疑問を口にし、グラサンがそれに対して知ったふうな顔で断言した。これまた嫌な話を聞いてしまった。もう少しくらい女子には夢を見させて欲しかったのだが。
「うるせーぞおめーら。……まあそういうわけでよ、さっさと金出してくれねえかな伊角ちゃん。財布の中身全部でいいからよ。何の取り柄もないお前が持ってたってしょうがねえだろ?」
そんな刈谷の言葉に、金髪が「こいつほんとクズ」と言いながらゲラゲラと笑い出す。
「…………」
三人の不良どもに絡まれ、暴力を背景に財布の中身を要求され、ただのしがない高一の男子からすれば失禁ものの窮地のはずなのに、そのときぼくはどうしてか、急に冷静な気分になっていった。
『何の取り柄もないお前が持ってたって』
……ああ、確かにそうだね。
今のぼくには、取り柄と言えるようなものなんて、何も――、
――ばちん。
え?
ぼくはきょとんとなった。
なんだ今の?
――ばちん、ばちん、ばちん。
え? え? え?
それは一回では終わらなかった。二回、三回、四回と連続して起こった。
突如として訪れた、その『ばちん』。
それは音ではなかった。
感覚だ。
まるで何かが身の内で弾けるような、そんな謎の感覚が胸のあたりを何度も何度も襲い続けていたのだ。『ばちん』のたびにぼくの身体はびくっと身じろぎを余儀なくされる。身体にこんな異変を感じるなんてもちろん初めてのことだった。
「なんだこいつ」
「……さーな。クスリの禁断症状か?」
「いや、おいやばくねこれ?」
刈谷、グラサン、金髪が順々に困惑の声を上げる。無理もない。なにせ今のぼくの挙動ときたらどう考えても常人のそれではなくなっていたのだから。というか他人事みたいに言ってしまったがぼく自身がこれに一番困惑している。何が起きているのか聞きたいのはこっちだ。
ほどなくして、ぼくの身体は、すうっと大きく息を吸い込んだ。
そして、次の瞬間、
「助けてええええええええええええええええっ!!」
と、大音声を発したのだ。
ぼくは当然パニクった。
そう。男たちではなく、ぼくがパニクったのだ。
だって、仕方ないではないか。
身体が勝手に声を発したのだ。
嘘ではない。言い間違いでもない。何度だってぼくは言う。
身体が勝手に声を発したのだ。
「なっ、てめえ!」
ぼく(?)が声を張り上げ終えると、刈谷が途端に血相を変えた。ぼくの胸ぐらを乱暴に引っ掴む。
それでもぼく(?)は引き下がらなかった。ぼく(?)は大きく息を吸い込んで、
「誰かああああああああああああああああ助けてええええええええええええええええっ!!」
再び、裂帛の雄叫びを披露したのだった。
「このやろいい加減に……」
「おいやめろ! やべーって! 誰か来っぞ!」
「……ちっ、うっぜえなクソ」
グラサンに制止され、刈谷もさすがにまずいと思ったようで、ぼくをすぐさま突き飛ばし、そして三人仲良くこの場から走り去っていった。絶体絶命に思えた窮地は意外にもあっさりと脱することができたのだった。ぼくはほっと一息つく。
……などと呑気している場合ではない。今は一刻も早くなんとかしなければならない問題が目の前に横たわっている。
ぼくの身体は今、どれだけ力を込めてもちっとも動いてくれなかったのだ。
嘘のような話だが、残念ながら紛れもない事実だ。
動いてくれないだけならまだしも、ついさっきなんてぼくの意思を完全に無視した謎の雄叫びまで披露してくれた。意味が分からない。わけが分からない。一体自分の身に何が起きていると――、
『んっふっふ、よーし、任務完了っとー』
聞いた。
ぼくは聞いた。確かに聞いた。その声を。
『おーおー、いい逃げっぷり。逃げろ逃げろ。もう来んな』
見た。
ぼくは見た。確かに見た。その姿を。
風呂上がりの火照った身体から湯気が立ち上るかのように、『彼女』はぼくの身体の中から、おもむろに姿を浮かび上がらせたのだった。
腰まで届きそうな細く長い金髪。まず目に入ったのはそれだった。きっちりセンター分けにされた金のつややかなストレートヘアが、まるで海底で揺れ動く海藻のように、風もないのにゆらゆらと宙をたゆたっていた。
さらに言うと、宙をたゆたっていたのは彼女の毛髪だけではなかった。
彼女の全身がそうだったのだ。
白のワンピースとおぼしき薄手の服を身に纏った彼女は、比喩でもなんでもなく、文字通り宙に浮いていたのだ。白くしなやかな肢体を存分に晒し、鬼のように寒い二月の夜を悠然と漂っている。
そしてその身体は、全身がもれなく、半透明だった。
彼女の身体越しに、彼女の背後にある街の風景が、おぼろげではあったが確かに見て取れるのだ。
もう本当に、まったくもって意味が分からなかった。
『……ん?』
ふわふわと、地上三メートルくらいの場所を漂っていた彼女が、ふいとこちらに目をやった。当たり前といえば当たり前だがぼくは彼女の姿に目が釘付けになっていたので、お互いの視線が交錯することとなる。
彼女は両の瞳を皿のように見開いて、そしてぱちぱちと瞬いた。
彼女は右にふわふわ遊泳し、左にふわふわ遊泳しながら、ぼくのことを見つめ続ける。ぼくもまた彼女から目を離すことができずにいる。
『……君、ひょっとして』
そうつぶやくと、彼女は徐々に表情を崩していき、そして笑みを顔にたたえた。
それは本当に、心の底から喜んでいると言わんばかりの、満面の笑みだった。
『あたしが見えるのー!?』
瞳を爛々と輝かせながら、彼女はぼくに向かって嬉々として言い放った。
そこいらで限界を迎えた。
「うわああああああああああああああああっ!!」
ぼくは恥ずかしげもなく絶叫した。きびすを返して猛ダッシュを実行。横転状態の自分の自転車を見つけて大急ぎで引き起こして跨がり、ペダルを全力で漕ぎまくっていった。