【第三章 夏】(一)
【第三章 夏】
そこそこ名の知れた旅館の一人娘としてあたしは生まれた。
両親は多忙な身ゆえ子育てに割く時間はほとんどなかった、なんていう分かりやすいネグレクトなんてまったくなく、あたしは両親から惜しみないほどの愛を注がれ、何一つ歪むことなくすくすくと育っていった。
高校に上がったころにはもう毎日が充実していた。優しい両親、気の合う友達、恋愛もそれなりに経験したりして、もちろん辛いこともあったけれど、それでもあたしの高校時代は一日一日がかけがえのない宝物だった。
高校を卒業したあたしは、歌手になる道を選んだ。
自信はあったのだ。はっきり言って。
所属していた声楽部ではあたしが誰より上手かったし、というか全校生徒を見渡してもあたしより歌の上手い人なんていなかったと思うし、手前味噌だが顔やスタイルだって悪くはなかったし、若さだってあった。これだけそろっていればお偉いさん方も放っておくはずがないだろう。そんな謎の自負が、しかし当時のあたしからすれば至極正当な自負が、あたしをその道へと後押しした。
世間知らずの小娘の鼻っ柱がへし折られるまでそう時間はかからなかった。
勢い勇んでオーディションに応募しても、書類選考こそ通りはすれど、一~二次審査であえなく敗退。そんな日々がしばらく続いてしまい、さしものあたしも以前ほどの前向きさは持てなくなっていた。いや、むしろ毎日毎日後ろ向きなことばかりを考えるようになっていた。
本当はあたしには才能なんてないのかな。
やっぱり無理なのかな。歌手なんて。
しょんぼりと顔を伏せ、とぼとぼとバイト先からの帰路を歩いていたとき、不意にまぶしい光に照らされ、そして、何かとぶつかった。
気付いたときには幽体になっていた。
宙にぷかぷか浮きながら、路上に倒れている自分の身体を俯瞰するという前代未聞の不思議体験を成し遂げていたのだ。
初めはもちろん混乱したが、一時間も経つころにはずいぶんと冷静さを取り戻していた。蜘蛛が誰に教わったわけでもないのに糸の操り方を知っているのと同じように、あたしも誰に教わったわけでもないのに色々なことを既に知っていたからだ。
自分は死んだわけではないということ。
自分の身体の中に居続けなければならないということ。
それをしなければ今度こそ本当に死んでしまうかもしれないということ。
だが、正体不明の既知感に従って自分の身体の中に潜り込んではみたものの、そこに居続けるのは存外に辛いものだった。何と言おうか、広大な闇の海を一人で漂流しているようなひどく心細い感覚があり、とにかくそれは紛れもない苦行だった。できることならこんなの投げ出して逃げ出してしまいたい。それがあたしの本音だった。
それでも歌手という夢を諦めるのはやっぱり嫌だった。恐怖感や孤独感にもめげず、歯を食いしばって苦行に耐え続けていると、ある日お医者さんが数人やって来て、包帯と管だらけになったあたしの身体を見下ろしながら、残念がるような声で言った。
この子はたとえ目覚めることができたとしても、歌はもうできないかもしれないな、と。
引き金としては十分だった。
あたしは投げ出した。
あたしは逃げ出した。
耐え続けて耐え続けて、それで目覚めることができたとしても、歌ができないんじゃ何の意味もないではないか。ふざけるな。
やけっぱちになったあたしは病院を飛び出て、カラオケボックスのお客さんに乗り移り、歌って歌って歌いまくった。あたしの命の最後の輝きだとでも言わんばかりに、絶唱した。
とはいえ、結局のところあたしはどっち方向にも振り切ることができなかった。果敢に生き抜いていくことも、潔く死ぬことも、どっちも選べなかった。できたことといったらせいぜい肉体を一時的に離れて他人に乗り移って死なない程度に遊び回ることくらいだった。生と死の狭間を漂って享楽にふける日々。このままではいけないとは思いつつもどうしてもやめられなかった。
さあ、次はどこの誰に乗り移ろうか。
そんなふうに街を散策していたとき、
三人の男たちに絡まれている、一人の少年を発見した。
なんだろう。この匂いは。
それは、およそ自然界に存在するような匂いではなかった。強いて言うなら薬品の匂い?
怪訝に思いながら、あたしはゆっくりとまぶたを持ち上げていった。部屋の明かりは既についていたらしく、急激に入ってきた皓々たる光にまぶたが逆に押し戻される。
光と格闘しながら、再びまぶたをゆっくりと持ち上げていく。見慣れない真っ白い天井があたしの視界に映り込む。どうやらここはかなり広い空間だったらしい。天井の照明が視界からわずかに見切れていた。
ていうか、ここどこ?
とりあえず、あたしの部屋じゃないってのだけは間違いないみたいだけど……。
……って、おや?
すぐに気が付いた。
目線を下げた先にあった、薄い布団のかぶせられたあたしの身体。
どういうわけか、どれだけ頑張ってもさっぱり動かせないのだ。
いやいや待て待て。そう判断するのは早計だ。もう少しだけ頑張ってみよう。
えいっ、やあっ、とうっ。
うん。駄目だこりゃ。さっぱり動かせない。
「……なんだこれ」
ベッド(多分)に横になりながら思わずつぶやいていた。幸いにもまぶたと口はかろうじて動かせるらしい。もっともそれも自由自在とはほど遠く、何年も放置された自転車のように錆び付きまくっている感じがあったが。
ガコン。
右横から、固い箱を落っことしたような音が聞こえた。
あたしは頭をそちらに向ける。ぎくしゃくとしたどうにも重たげな動きだったが根性でそちらに向ける。白衣に身を包んだいかにも看護師さん然とした女性が視界の隅に映った。なにやら愕然とした様子でこちらを凝視しているようだった。
「……せ、先生! 先生!」
目が合うと、彼女はくるりときびすを返し、慌てっぷりをむき出しにしながら駆け出していった。ドアを開ける音、バタバタと走り去っていく音、それらを耳に聞きながら、あたしは再びつぶやいた。
「……これって」
寝起きのあまりよろしくないあたしの頭でも、状況はなんとなく飲み込めつつあった。
どうやらあたしは、なんらかの不慮の事故に遭い、病院の一室で眠っていたらしい。
その証拠とでも言わんばかりに、今のあたしの視界の中心には、無数の細長いチューブやコードが映し出されていた。それらは掛け布団の下、つまりあたしの身体のあたりからわんさかと伸びていて、支柱に吊るされた点滴のパックやらベッドの傍らにあった謎の機械やらに繋がっていた。恐ろしく物々しい光景だ。一体どれだけ甚大な事故に遭ってしまったというのか。そして布団の下の身体は今どんな惨状になっていたというのか。ちょっと想像したくなかった。
――♪
その直後だった。
音楽が流れてきた。
音源地は先ほどの『ガコン』のあたり。
視界の隅を再び注視すると、オルゴールとおぼしき木箱が床に無造作に転がっているのが見えた。先ほどの『ガコン』は看護師さんがそれを落とした際の音だったらしい。
音楽はそこから流れていた。
あたしが作った曲のメロディーだった。
「――――」
右目から、涙が一筋、つうと流れ落ちていった。
何故そんなことが起こったのか、今のあたしにはまるで理解できなかった。
その後は本当に大変だった。
やって来たお医者さんはあたしの置かれた状況を事細かに説明してくれた。バイト帰りに車に轢かれて昏睡状態になっていたというのはだいたい予想通りだったが、今が二〇二一年の六月だということを知らされたときはさすがに言葉を失った。あたしの最新の記憶は二〇一六年の八月で終わっていたのに、気付けば寝ている間に数年も時が経過していたらしい。だとすれば今のあたしはもう二十四歳だ。今年の冬には二十五歳になる。
あたしがその事実に呆然としていると、父さんと母さんが瞳に涙をたたえながら部屋に入ってきた。二人ともあたしが長い眠りから目覚めたことを心の底から喜んでくれていたようだが、あたしの体感時間によると二人に会ったのはつい最近の出来事だったため、実感は今ひとつだった。それよりも二人の頭に白髪がずいぶんと増えていたことの方がずっとショックだった。数年もの歳月が経過していたというのは嘘でもなんでもなかったらしい。
「ああもう、嬉しいわほんと、藍衣の友達みんなに知らせなくちゃね」
「お母さん、知らせるのはいいですが、ご友人の面会を認めるにはもう少々かかります」
「そうなんですか?」
「なにしろ藍衣さんはまだ目覚めたばかりですからね。診なければならないことが山ほどありますので」
「そんな、先生だってご存じでしょう? 伊角くんなんて仙台から毎月のようにお見舞いに来てくれていたんですよ?」
「おいお前、よさないか」
すっかり打ちのめされたあたしが両親の言葉もお医者さんの言葉も半ば馬耳東風と聞き流していたそんなとき、聞き慣れない単語を耳が偶然拾った。
どう考えても、今のあたしには、これ以外に言うべき言葉が見つからなかった。
「……伊角くんて、誰?」




