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ローレライの教室  作者: 五十嵐某
10/22

【第二章 春】(二)

 一体なんなんだろう、この状況は。

 おかしいな。ぼくは歌を教えてくれって深原さんに言ったはずなんだけどな。

「はあっ、はあっ、はあっ」

 ああ、くそ。

 これ、思っていた以上に、キツいぞ。

 走り出してからまだいくばくも経っていなかったのに、ぼくはすっかりへばっていた。息も乱れに乱れていた。もちろん足の方も見るも無惨に失速しており、横目に映る川の景観が背後へと流れていくそのゆるやかさときたら憎らしいくらいだった。

 ぼくが今走っていたのは仙台の名川である広瀬川に沿った細く長い土手である。文香の姿があったのはそんな土手の前方の遙か彼方で、みるみるうちに引き離されて今ではゴマ粒くらいに小さくなっていた。運動能力の差が歴然だ。一時的に回復しかけたかに見えた兄の威厳、大暴落は避けられそうにない。

『かの有名なテノール歌手であるプラシド・ドミンゴ氏はこうおっしゃいました。「身体を鍛えれば鍛えるほど声が出てくるのです」とね』

 ぼくの隣の空中を悠然と遊泳しながら、深原さんは得意げに語り出した。

『変な話、歌が上手くなりたいからといって、歌の練習だけしてればいいってわけじゃないんだよね。もちろんそれも大事だけどさ、人によっては食事や生活習慣を改めたり、運動を始めたりする方がよっぽど上達の近道になったりするんだよね』

「……それで、ランニング、ですか」

『まあね。日頃から適度に運動をしている人ならそこまで必要ってわけでもないんだけどさ、残念ながら伊角くんは全体的に運動不足っぽいからね。いい機会だから伊角くんには今日からランニングや筋トレをみっちりやってもらいます』

「……結構、体育会系、なんですね」

 やっていることが完全に運動部のそれである。歌なんて間違いなく文化部の方に分類されると思っていたのだが、認識が甘かったようだ。

『そうだよ~。めっちゃ体育会系の世界なんだから。ピアノの前でお上品なボイトレだけしてれば歌は上達するって思ってた? ノーノー。ソレハニポンジンガヨクスルカンチガイアルヨ』

「……あなたも、日本人でしょ」

 突っ込みを入れると、深原さんは『んふふ』と笑ってくるりと宙で一回転。

『まあとにかくそういうことなんだよね。ほら、ギターは弦を鳴らすことで音が出るわけだけど、じゃあ弦さえあればいいのかっていうとそんなわけないじゃん? ギターのあの美しい響きを出すにはさ、ボディやらサウンドホールやらが絶対に必要なんだよ』

 ギターなんてぼくは触ったことすらないけれど(サウンドホールって何?)、深原さんの言わんとしていたことはなんとなく理解できた。

「つまり、人も、それと同じだと」

『イエース! グッジョーブ! イグザクトリー!』

 大仰に言い募り、深原さんは教え子の成長を喜ぶ教師のように、うんうんと満足げにうなずいた。

『つまり人っていう楽器もね、喉一つで完結しているわけじゃないんだよね。ちゃんと歌おうと思ったらいろんなとこの筋肉をうまく稼働させて連携させる必要があるんだよ。最低でももっと身体の支えを維持できるようにならないと駄目かなあ』

「……身体の、支え?」

 前にも似たようなことを聞いたような気がする。なんだそれは?


「ふうっ、はあっ、はあっ」

 ……あー、こんちくしょう。

 運動不足になって久しい身としては、これは本当に、こたえる。

 ぼくは部屋の布団の上にどてっと仰向けになりながら、ぜーはーと苦悶の息を立てていた。腹部のあたりが熱くてたまらない。まるで燃えているみたいだった。

 すっかりグロッキー状態と成り果てたぼくの視界に、深原さんが蝶々さながらな様子で舞い込んできた。

『あたしたちの身体の中には肺や心臓が入っている胸郭っていう部屋があってね、この部屋は息を吸うたびに横隔膜とかが下がって大きくなって、息を吐くたびに小さく戻っちゃうんだけど、この部屋ができるだけ小さくならないよう維持しながら歌えるようになると、発声はすごく安定するし、ロングトーンもへっちゃらになるんだよね。これが身体を支えるっていうことかな。あたしなりの解釈だけどね』

「……なる、ほど」

 天井の電灯を背にしながら深原さんは教えを説いていく。ぼくは布団の上に大の字になりながらそれらを頭に叩き込んでいく。歌の教室はこの世に無数にあるとはいえ、幽霊が講師の歌の教室なんて聞いたことがない。多分有史以来初めての出来事だろう。

『つまり息を吐く量を必要最低限にするのが大事なんだよね。そうすることでずっと張りのある声を維持することができるってわけ。歌うときは目の前の蝋燭の火を消さないように歌えってどこかで聞いたことない? あれって結構的を射てるんだよね。かの有名な声楽教育者であるリチャード・ミラー氏はこうおっしゃいました。「多くの歌唱技術は、呼気の速度を遅らせることにあります。しかし、筋肉が固いと、横隔膜が上がるのを十分に遅らせることができません」とね』

 いつもは無駄におしゃべりな深原さんだが、こと歌を教えることに関してはそうでもなかった。無駄なんてほとんどないなかなかに分かりやすい説明だった。伊達にプロを目指していたわけではなかったというわけか。

 分かりやすい説明だったからこそ、ここから先の展開も読めないこともなく、嫌な予感がしてならなかったのもまた事実だが。

「つまり、その、呼気の速度を遅らせるためには」

 慄然としたものを感じながら尋ねると、深原さんは天使のようにぱあっと表情を輝かせ、

『そう。筋トレで~す。さあそろそろ回復したね? 腹筋もう一セットいくよー』

「うへえ」

 そして悪魔のような宣告を下した。ぼくはおかしな悲鳴を上げる。深原さんの歌の教室は情け容赦が微塵もないようだ。


「舌の位置、ですか?」

『そう。伊角くんは舌、普段どこにくっついてる?』

 深原さんの歌の教室はなおも続く。ある日の午後、ぼくは深原さんにそんなふうに聞かれた。

 ええと、舌の位置、ねえ。

 いざ意識してみると意外と分かり辛かった。とりあえずぼくは力を抜いて、口内を可能な限りリラックスさせて、ここぞという場所を探り当てる。

「……うーん、下の歯の裏側あたりですかね」

『ああ、それじゃ駄目だ』

 ばっさりと斬って捨てられた。椅子からずり落ちそうになる。

「……え、駄目なんですか。これ」

 まさか舌の位置に優劣なんてものがあるというのか? 困惑しながら尋ねると、深原さんはぼくの部屋の宙を舞いながらがしりと腕を組んだ。悩ましげにその眉根を寄せる。

『駄目なんだよねえこれが。全然駄目。舌の位置が悪いのはねえ、歌にとってはもちろん健康にとっても美容にとってもよくないんだよ? いーい? 例えばねえ』

 やれ滑舌が悪くなる。やれ声量が伸びなくなる。虫歯になるだの歯周病になるだの歯並びが悪くなるだの頬がたるむだの、おそらくは美容にも関係することだからなのだろう、深原さんはことさら熱を伴わせ、舌の位置の悪さがもたらす弊害を滔々と述べ立てていった。

「……わ、分かりました分かりました。駄目なのは分かりましたから、その正しい舌の位置っていうのを教えてください」

『ああ、そうだね。ごめんごめん。上顎の前歯の少し後ろ。そこに微妙に盛り上がってるところがあるでしょ? タングスポットって言ってね、そこが正しい舌の位置なんだよ』

 上顎の前歯の少し後ろ。……ここか。

 ぼくは深原さんに言われた通りの場所に舌先を持っていく。

『どう?』

「……なんか、違和感がすごいです」

『んふふ、まあ最初はそうだよねえ』

「でもこれ、放っておいたらいつの間にか元に戻ってそうなんですけど」

『大丈夫大丈夫。舌の位置を矯正するためのいい方法があってね』

「いい方法?」

 ――数分後、ぼくは舌先をタングスポットとやらにくっつけながら、一本のストローを左右の犬歯で噛み締めるという謎の儀式をやらされていた。深原さんに言われるがままに。

『オッケー。そんなふうにストローをくわえてることでね、舌の位置が矯正されるスピードが大幅短縮されるんだよ。よーし、じゃあその状態を一時間くらいキープしてよっか。いい? 何があってもそのストロー放しちゃ駄目だよ? 何があってもだからね?』

「……えぇ」

 この状態を一時間キープ。ランニングや筋トレに比べればだいぶ楽かもしれないが、なんというかこれは、絵面がよくない。こんな姿を何かの手違いで誰かに見られでもしたら一体どうすればいいものやら。正直に歌の特訓と言うのも恥ずかしいし、いやそもそもそれ以前に信じてもらえるかどうかだ。

「ねえお兄ちゃん、辞書貸して」

 確かマーフィーの法則という名前だったと思う。よくないことほど何故か起こるもので、こういうときに限って文香が部屋の外からそんな言葉を投げ入れてくるのであった。

 ……中断していいですよね? とぼくは深原さんに向かって目で訴えるが、やっこさんにっこり笑って首を横にふるふると振りやがった。血も涙もない。

 詳細は省くが、まあ最終的には文香にばっちり見られ、冷ややかな視線を送られることとなった。爆笑する深原さん。何か物でも投げつけてやろうかと真剣に思った。


『いい? 伊角くん』

「……はい」

『これからあたしが教えるのは、今まであたしが教えた授業の中でも、最も過酷なものになるかもしれません。心の準備はいいですか?』

「……はあ」

 深原さんは真剣だ。真剣そのものといった表情を浮かべ、ぼくの部屋のカーペットの上に厳めしく正座していた。

 ぼくも深原さんと相対するように正座していたが、深原さんほど折り目正しい正座ではなかったと思うし、表情にも真剣味といったものがちっとも足りていなかったはずだ。

 大袈裟だな、と思っていたからだ。

『ここにボイスレコーダーがあります』

 ぼくと深原さんの間に置いてあった黒くて小さな機器、ボイスレコーダーに深原さんはそっと手をかざす。

『この中にはあたしと伊角くんとの何気ない日常会話が録音されています。といってもあたしの声はこういうのでは拾えないから伊角くんの声だけが入っています。今から伊角くんにはこれを客観的に聴いてもらいます。目的は話し声の見直しです。綺麗な歌声を身につけるために話し声から改善していこうというわけですが、……実はこれはとても危険を伴うことでもあります。もう一度聞きますが伊角くん、心の準備はいいですか?』

「いや、さすがに大袈裟でしょ」

 半笑いとともにそう言った。

 深原さんはそのボイスレコーダーを、家の庭で何故か見つかった対人地雷のごとく仰々しく扱っていたが、ぼくには毛ほども理解できなかった。

 自分の声を客観的に聴く。

 たったそれだけのことではないか。何を恐れる必要がある。ランニングや筋トレなんかよりもよっぽど楽そうなものなのに、言うに事欠いてそれよりも過酷? 深原さん、さすがに騙されませんよ。

『……いいでしょう。そこまで言うのであればあたしももう何も言いません。再生ボタンはここです。さあ伊角くん、しかと聴きなさい。自分の声というものを』

 自分の声なんていつも聴いてるんだけどなあ。

 まあでも、自分で聴く自分の声というのは骨伝導と言って、自分の身体の色々な部分を介して聴いているため、他人が聴くそれと比べるとまるで別物になっているというのは稀に聞く話だ。だから録音したその声はいつもよりも少し違和感を感じたりするのかもしれない。そんな可能性が脳裏をよぎるが、それで何か致命的なダメージを負うわけでもあるまい。ぼくは心配なんてまるですることなく、ボイスレコーダーの再生ボタンを押した。

「――――」

 ――――。

 ――ぽち。

 停止ボタンを押すまでそう長くはかからなかった。

 後悔した。

 聴くんじゃなかった。

 ぼくは致命的なダメージを負った。

 なにこれ。

 なにこの、

 空前絶後の超絶怒濤の不細工極まる話し声は。

 もごもごとしてくぐもった、まるでゾンビがうめくようなひどく気持ち悪い声。聴くに堪えないなんてレベルではない。もはや公害と認定してもいいくらいだ。ぼくはこんなにも不細工な声を今日まで垂れ流していたというのか。正直言って気が狂いそうだった。

「……死にたい」

 本気でそう思った。身体を折って土下座みたいな体勢になる。深原さんの言い分も今なら納得だ。もっとちゃんと受け止めておくべきだった。この重くのしかかる絶望感に比べたらランニングや筋トレが天国に思える。

『だ、大丈夫だよ伊角くん。ほとんどの人は自分の声が他人にどう聞こえてるかなんて分かってないものだけどさ、伊角くんはそれに気付けたんだからこれは一歩リードだよ。うん。あたしも協力するからさ、これからちょっとずつ改善してこ? ね?』

 頭上から深原さんの声が降り注ぐ。さすがの深原さんもぼくの消沈っぷりにうろたえたか、喋り方が通常運転に戻っていた。

「…………」

 無言で顔を上げ、深原さんを仰ぎ見る。

『ん?』

 深原さんの声。

 思えばそれは、とても気持ちのいい声をしていた。滑舌がよくて聞き取りやすくて、感情表現も実に豊かで、聞いていてちっとも飽きが来ないのだ。つきまとわれっぱなしなのにぼくが深原さんの相手をするのを全然嫌だと思わなかったのは、その声のよさも理由の一つだったのかもしれない。

 対するぼくの声ときたら、一体深原さんに内心どう思われていただろう。知らず知らずのうちに不快感を与えてしまっていたのなら、こんなに恥ずかしいことはない。

「……どうすれば、もっといい声になりますか?」

『ん? ああ、そうだね、まずは――』

 劇薬だったが効果は覿面だった。自らの声の気持ち悪さをとくと知らしめられたぼくは、深原さんの授業に大真面目に耳を傾けていくのだった。


 ヘッドボイス、ソルフェージュ、姿勢の矯正、各種呼吸法、エトセトラエトセトラ。

 その後もぼくは深原さんの指導のもと、様々な特訓を体験することとなった。

 楽しげな特訓もあったが、中にはびっくりするほどキツい特訓もあったりして、投げ出したくなったりもしたけれど、ぼくは歯を食いしばって己を奮い起こし、すべての特訓に骨惜しみせずに取り組んだ。

 人は何かに熱中していると、時間はあっという間に過ぎていくもの。

 気付けば季節は春を迎え、ぼくは二年生になっていた。

引用文献


注1 山田容子『1週間で効果実感! 声を出さずに歌が上達する ボイス・トレーニング34』株式会社ドレミ楽譜出版社,2013年,p.11


注2 リチャード・ミラー著、岸本宏子・八尋久仁代訳『The Structure of Singing System and Art in Vocal Technique 歌唱の仕組み その体系と学び方』音楽之友社,2014年,pp.55-56

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