第一幕
私と取引をしませんか、と。
差し伸べられる手の白く細やかな指の隙間から覗く闇夜の瞳が私に告げる。
古来より名は体を現すと言う……言霊とは概念に非ず魔法を司る根幹を成すべきモノ。ゆえにこの時私はそんな迷信とは異なる思考の先にクリス・マクスウェル……彼女と共に在る名が示す存在を其処に見る。
「私の商会で共に働きませんか? もし応じて頂けるのなら私はその対価として十分に貴女の知識欲を満たしてあげられると思いますよ」
今日は空が青いですね、と語る世間話と同義の様に気軽な調子で私を誘う彼女には重ね見るべき威厳は欠片も無く……無言のままに立つ私の姿に大丈夫、敷居は低いと思いますよ、と彼女は微笑んだ。
「私が貴女に望むのは一つだけ……麻薬……あれ、薬でしたっけ? 兎に角そんなモノは破棄して貰って良いですか。正直私の視界にさえ入らなけらばどうでも良いとはおも……けふんっ、我が商会の今後を考えれば余計な騒動の火種は消しておくに限りますからね」
けれど売らない、作らない、持ち込まない、と言う三原則を守って貰えるなら研究を続けるのは御自由に、と自然に続ける。
偽りは無いのだろう、彼女の言葉に、ああそうか、と私は想う。久しく『此方側』に立つ事が無かったゆえに忘れていた当たり前の想いに。
「ねえクリス、答えを出す前に一つだけ教えて頂戴な……難しい問いではないからお願い」
「ふふんっ、仕方無いですね、本当に一つだけですよ?」
表情豊かな眼差しで応える彼女を私は真っ直ぐに見据えて問う。
エイブラハム・アドコック……貴女は彼の名を、その名を覚えているのか、と。
彼女は一瞬悩み、考え。
「それっ、誰ですか?」
そう私に告げた。
「あはははははははははははははっ」
森の静寂を破る私の哄笑は、嘲笑は、愉快だからでも不快だからでも無い。
私の薬も、彼の名も、彼女にとっては意味を成さぬモノ。ゆえに己に『必要ないモノ』は覚えておく必要も価値もなく、それが当然の判断なのだと理解出来てしまうからこそ、立場を変えた今、自分自身を、この胸に湧き上がる想いを私は嗤う。
「クリス・マクスウェル……私は貴女を殺すわ」
長くは無く短くは無く……静寂が戻るまで黙って私を見つめていた彼女に一言だけ告げ。
『詠唱棄却』
その宣告の言葉を鍵として私の不可視なる結界は発現する。
私の結界魔法『鈴』は特化させた感知だけが作用の全てでは無い。鈴が奏でる音色が一つではない様に、結界内に特定の香りを封じる事で触れた対象者に複数の状態変化を齎す事が出来る。
眠り、麻痺、そして毒。
薬術師である私は自在に香りにそれら複数の効果を付与することが可能であり、今発現させた『鈴』には致死性の猛毒の香りを封じている。
一度で魔法の構成を看破する彼女の知識と慧眼は他に比肩する者なき才能ではあるが、一度でも触れれば死に至らしめる私の魔法の前にはそれすらも意味を成さない。魔法を扱えぬ剣士たちがそれでも魔法の知識に精通するのは知識に無い魔法は個人の力量差を覆し蟻が象を殺す……曰、初見殺しと恐れられる所以である。
「困ったな……私はまた何かを間違えましたかね」
「間違い? 面白い事を言う子ね。貴女は何も間違ってはいないし始めから何も正しくも無い。時に合理的では無い判断に身を委ねるのが人間の性……業と呼ぶべきモノ。私も貴女に気づかされるまで久しくそれを忘れていたわ」
「なるほど……人間の感情とは酷く難解で御し難くゆえにままならぬモノですね」
彼女はゆっくりと自身の黒髪に差す銀の髪飾りに触れる。
「それに約束したでしょ、次に逢った時、貴女をこの脚に縋り付かせて懇願させてあげるって」
美しいモノを歪め壊す。それを想い描く私の背に背徳的な快感が押し寄せる。ただそれだけの為に彼女を殺す理由には十分であると錯覚する程に。
「美女の足元に跪くと言うのは中々に魅力的なお誘いですが……おほんっ、今回は遠慮しておきますよ。貴女から漂う臭いはとても私を不快にさせる」
「不快な人間を自らの商会に招こうなんて貴女も随分と酔狂な人間なのね」
「私の好き嫌いと貴女の魔法士としての優秀さは比例させるべきものではないでしょう?」
「そうね、実に魔法士らしい答えだわ……そんな貴女が私は嫌いでは無かったわ……その内に私の神を見る程にね……けれどごめんなさい」
そしてさようなら、と彼女に最後を告げる。
瞬間、私の周囲の空間に彷徨っていた『鈴』たちが籠められた意思に従い彼女へと、クリスへと、瞬時に押し寄せ触れると共に弾けて消える。纏う死に至る猛毒の香りと共に。
即効性の猛毒は肌に触れれば腐食を齎し、吸い込めば臓器を腐らせ溶かし出す。瞬時に与える影響と変化が甚大なだけに解毒など不可能。白磁の如く晒される白い肌が無惨にただれ堕ち、美しかった容貌は見る影すらない醜悪な塊と化して血の泡を吹く。瞬きすれば訪れる、その瞬間を、その光景を想像するだけで私は既に絶頂を迎えていた。
「神なんて存在しませんよ」
私の姿を映し出す黒い瞳は、風に靡く黒髪を片手で押さえる細やかな肢体は変わる事なく美しく、幼さがまだ残るその整った容貌で彼女は呟いた。
幾ら待っても私が望む無惨な死は遥か遠く……クリス・マクスウェルに訪れる気配すら見られなかった。




