第二幕
「叡知の箱を開き世界に魔法を生み出した者、そして叡知の輪を手にした始まりの魔女の名はニクス」
「ちょっと待って下さい先輩……ではニクスの後継とは」
「だから始めに言ったでしょ。魔法と同義で語られる存在こそが始まりの魔女ニクス……ゆえに魔法を扱う者たちは等しく彼女の子であり、後継者でもあるのよレベッカちゃん」
ミカ先輩が語る定義とは神殿の信徒たちが等しく神の子とされる宗教論にも似て、何も知らぬと言う事実こそが私の胸中に漠然とした不安を生じさせる。
「そんな複雑な顔をせずとも箱の伝承は忘れられた古き逸話と言うだけで、神の経典に準えた信仰とはまるで異なるものよ。今の歴史家や当の魔法士たちの中ですら黄金の千年期を深く紐解く物好きでもなければ触れる者すら居ない……そうね、それだけのおとぎ話よ」
けれど、とミカ先輩は私に眼差しを向ける。
「今の魔法士たちは進歩を恐れ、人道論などと言う綺麗事に逃げ込んだ哀れな猿の集まり。高みを目指す探求者たちの歩む道をやれ禁忌だと、外法だと抑圧し抑制し時に排除する」
奴等こそが本道を阻む異端者共なのだ、と狂気に満ちた瞳で語る。
「例え百万、千万の犠牲の上に新たなる革新を齎す魔法の進歩が在るのなら、それは必要と呼ぶべき尊いモノ……けれどそれを忌むべきと恐れる猿どもは同じその口で今も御大層な理由を並べては大陸中で殺し合いを続けている。同じだけの人間が死ぬのならどちらが依り合理的で有益かなど語るまでもないと言うのにね」
「先輩……」
「まあいいわ。貴女の様な可愛いだけの小鳥には理解に難しいのでしょうね」
拒絶に等しい表情を見せていたのだろう、私に対してミカ先輩は優しく微笑む。
時に真理を示す聡明な識者の側面と捻じ曲がった倫理観が産み出した悪魔が同居するミカリヤ・モルガンと言う人間を私は真に理解する事など出来ないのだとこの瞬間はっきりとそれを思い知らされる。
魔法士は倫理の外側に居る人間たち、と資質に恵まれず扱えぬ者たちは恐れを宿した言葉で語る。しかしそれは違う。魔法士である前に人間である私たちは人として違えてはならぬ最低限の倫理観も道徳心もちゃんと持ち合わせいる。それに当て嵌まるのは才能ゆえに可能性の先を見通せる一部の天才たちに過ぎない。人間である前に魔法士たらんと望み欲する……異端者たちだけなのだ。
「今の猿共に、進歩を恐れる人間たちに、ニクスの子の名は相応しくない……それを与えられる価値のある者は思考する事を止めず魔法の革新を望み、齎らせる、そんな魔法士たちだけ……分かるかしら無能で可愛らしい私の小鳥ちゃん」
それがクリスをニクスの後継と呼んだ理由だとミカ先輩は語る。
「始祖クリス・ニクス・マクスウェル……あの方が刻まれたニクスの三文字綴りこそが『叡知の輪』を受け継ぎし正統なる後継者の証し。ゆえに彼の叡知を継ぎし者こそが次代のニクスたらん、と最後の錬金術師、白銀の王が示した言葉を忠実に守り信奉する連中が今はニクスの後継などと言われているわね」
持たざる私の絶望も受けた屈辱も意に介す事もなくミカ先輩は話を続ける。
「ミカ先輩やクリスとその連中の一体何が違うと言うんですか」
「我らが際者の転輪、偉大なる始祖たるあの方への敬意」
臆面も無くミカ先輩はそう言い切った。
「未だ錬成の秘術にすら至らぬ猿に毛が生えた程度の猿人風情が事もあろうに『叡知の輪』を求め手にしようなどと……おこがましいにも程がある」
不遜に過ぎると憤る先輩に対して抱くのは、崇める対象が異なるだけの狂信……所詮は同じ穴の狢ではないか、と言う理解出来ぬモノに対する恐怖心だけであった。
「レベッカちゃん、どう、疑問は晴れたかしら」
変わらぬ微笑みに狂気を湛える先輩の姿に私は何度となくただ頷く事しか出来なかった。
それは良かった、と口にするミカ先輩の動きが一瞬止まる。だが直ぐにとん、と煙管を叩き灰を床に落とすと変わらぬ様子で私を見つめる。
「では講義の時間は終わりにして少し休憩にしましょうか。私は外の空気を吸ってくるから貴女もゆっくりしていなさいね」
そう言って先輩は徐に席を立つ。
冷たい風に当たって熱を冷ましてくれるなら私としても非常に助かる。狂気を宿した先輩の相手をするのは如何に付き合いの長い私でも慣れる事など無いからだ。それに別の理由でも有り難い申し出で合った。
幾ら壁の隙間が空気穴の役目を果たしてくれていたとは言っても、この狭い小屋の内で常時煙管を吹かされていては煙も臭いも充満してしまうのは必然で、正直なところ一度窓を開けて換気しなければ息が詰まってしまう。先輩が戻らぬ内に空気を入れ換えてしまえば不興を買うこと無く、それは願ってもない機会であった。
「先輩、森は危険なので近づかないで下さいね」
掛けるべき言葉が思い浮かばずそんな意味のない事を口にしてしまった私に、先輩は応える事も振り向く事すらせずにそのまま小屋を出て行った。
★★★
どれ程の時が経ったのだろう。
恐らくどれ程の時すら経っていない僅かな刻。
がさがさっ、と草木を揺らし地を踏み締める複数の気配に、先輩とは異なる者たちが小屋に迫る気配に私は気づく。
が、全ては遅く……咄嗟に扉へと駆け寄る私の眼前で脆い木製の扉は押し砕かれ、此方に向かって残骸が崩れて落ちる。それを蹴破られたのだと気づいた時には既に複数の屈強な男たちが小屋の内へと侵入を果たし、私はひっ、と短い悲鳴を上げてその場に座り込んでいた。
その時私が抱いていたのは場違いな恐怖。
強盗の類いに襲われたのだ、と言う何をされるか分からないと言う身を凍らせる恐怖心であった。
「レベッカ・リンスレットだな」
私を現し特定する言葉。そして無頼の輩とは思えぬ威厳を湛えた声音。見上げた先に映る男たちの姿は抱いた恐怖の対象とは真逆に位置する存在であるのだと視覚が告げる。
純白の外套の背に象られた聖杯の紋章は神殿の司祭たる証し。しかし神殿の司祭が剣を以て武装する事はあり得ない。であれば既に答えは明白で。
「修道……司祭」
そんな現実が知らず私の口から掠れて漏れる。
異端審問官である修道司祭たちに囲まれる現状が否応なく私に置かれた立場を悟らせる。私は告発を受け異端審問に掛けられたのだ、と。そしてその結果は明らかで全ての終わりを意味する異端者の烙印が押されたのだ、と。
先輩がこの場に居ない事が不幸と呼べる偶然の産物では無い事くらい馬鹿な私でも分かる。追っ手の存在に先んじて気づいた先輩は私を捨てて逃げたのだ。
冷静な部分でそれを察しても不思議と絶望も怒りすらも湧き上がる事は無かった。先輩一人なら逃げ切れる……けれど私と言う足手纏いを連れてとなればそれも難しい。では切り捨てていくのは至極当然な合理的な判断に過ぎない。
何よりも私にはそれを責める理由も資格も無い。
自分では発想すら出来なかった他人の魔法を、固有魔法を、分不相応にも愚かしくも求め、クリスを同僚を商会を裏切って己だけの欲望を満たそうとした私に他者の何を非難できると言うのだろうか。これは当然の報いであり、求めた欲望の先にすらミカ先輩の如く狂気を宿せぬ半端者の私には、無能で価値の無い愚者の末路としてはお似合いだ。
諦めゆえか心は不思議と穏やかで、けれどこうして終わって見ればその愚かさの代償として悟れる事もある。
結局私はただ……。
「リンスレットさん、お久しぶりです」
誰かに認められたかっただけなのだ。
後悔ではない。
懺悔でもない。
滲む涙で霞む視界にぼんやりと映る姿は、耳に届くのは。
気弱な同僚の困った様な声だった。




