第二幕
「私を買いたいですか……正直驚きました……ええ、本当に」
ふざけている。
感情論を抜きにしても話にもならない提案である。
考えても見て欲しい。
エリオが残してくれたこのマクスウェル商会の土地建物は王都の中心からも程近く、元々が立地的にも恵まれた一等地に位置している。以前は祟り……おほんっ、私はそんな迷信染みた話は信じてはいませんが、過去の事件の縁起を担いで敬遠されていただけに過ぎないのです。
そしてその問題は今はもう解決している。何故なら聖女として名高い神殿の助祭であるクラリスさんが間借りしている建物に悪霊などが居憑いている筈が無い、と一言告げてやるだけで十分に悪しき風評を払拭する程の知名度と信頼感が彼女にはあるからだ。
ともなれば、新しく私財を投入して建てた最新設備の工房を含めた商会が有する資産価値は、買い手こそ選ぶであろうが目算でも今女狐が提示した額に匹敵するだろう事は想像に難しくない。
加えて言えば、冒険者ギルドへの月十万本と言う回復薬の安定供給が現実的な段階にまで進んでいる今、勿論、純利益はそれより少ないとは言っても単純な売上高でも毎月十億ディールの収益が見込める商会の会頭である私の価値がそれこそ二十億程度と言うのは些か馬鹿にし過ぎだろう。
つまり女狐が提示した二十億の元となる評価とは厳密には『私』に対してでは無く『抽出魔法』への評価であり価値であると言う事。裏を返せば私と言う人間の価値を見誤っている時点で、子供たちの情報の正確さと協力関係にある冒険者ギルドと神殿が行っている情報操作が機能している何よりの証明に他ならないのだからそれに腹を立てるのは些か狭量と言うものではある。
王都における回復薬と聖水の本格的な流通を目前に控えて、私にはどうしても後一つ確かめておかなければならない事がある。
この女狐の登場で、この話の内容如何によっては後の筋立てを多少なりと修正せねばならず、その点に関しては渦中の人、と評すよりは配役として主役の一人となってしまうだろう、マルコさんには胸中で心からのお詫びを申し上げておこう。
「貴女が考案し構築したこの魔法は今の世に革新を齎す本当に素晴らしいものだわ」
女狐はテーブルに置かれた巻物に視線を落とす。
「この魔法さえあれば、これまで外気に触れるだけで変質しまうような、物理的な方法では採取が不可能とされてきた成分を性質変化を起こさせずに取り出す事が可能になる。これは最早革命……歴史に刻まれるべき偉業と言って良いわ」
我々の時代において抽出魔法とは中等教育の基礎学科で学ぶ低位の魔法でしかないのだが、今の世では女狐が言う通り、世を変える革新的な魔法である。その点においては認識を同じくする事に否は無い。
抽出魔法の汎用性に気づける辺り、この女狐は私の術式を正確に読み解いている。薬術師ギルドの上級職員であったと言うだけあって、やはり魔法士としての格は金髪坊やや金髪娘とは比するべくも無いと言うところだろうか。
『光』の抽出にまで考察が至らないのは、そもそもが失われた第五元素の存在を前提にしている時点で無茶な話であるので、想像の埒外である事を理由に女狐の資質を問うのは酷な話である。そう、寧ろ概念の存在にまで辿り着いた金髪坊やの感性が常軌を逸している……所謂変態と言うだけの事なのである。
「では私からこの魔法を買い取って、世に公表したいと言う事ですか」
「冗談でしょ、いきなり猿に火を与えても大火傷をするだけだわ、でも結果として人間どもが右往左往するさまは想像するだけで滑稽で面白くはあるけれど今はまだまだ時期尚早……けどそうね、それは追々かしら、ね」
名誉を欲しているとも思え無い女狐の不自然な含みの持たせ方からして、然る後に金髪娘の名で魔法を公表する算段になっているのだろうと私は推測する。であれば金髪娘が此処まで女狐に助力する理由にも説明がつくからだ。
言い方はアレだが、抽出魔法を直ぐに世に出す事への危険性……それを憂慮している点や何れは全ての薬術師に学ばせるべき魔法であると言う考え方は認識として共有できるもの。
あれ……麻薬中毒の人格破綻者かと思いきや魔法士としては意外に会話が成立する相手なのでは……。
「貴女が欲しい理由、それはコレの完成に貴女の発想力と知識を貸して欲しいからよ」
女狐はまた懐から取り出した小瓶をテーブルに置く。
小瓶の中で揺れる赤い液体……それが何であるのか直ぐにぴん、とくる。
前言撤回……私とこの女狐は相容れない存在である。
「それ麻薬ですよね……まさかこの私にそんなモノの製造に手を貸せと?」
「これは只の麻薬じゃないわ、この魔法で取り出したある成分を配合する事で固有の特異性を獲得したこれは、最早麻薬と言う概念を超越した至高薬。得られる快楽も従来の麻薬の数十倍にまで効能を高めている……勿論依存の割合もそれに比例する酷いものだけれど」
こんなモノが至高薬だと……ふざけるな。
「けれど、この至高薬の特筆すべき点は其処ではないのよ」
女狐はもう一本、青色の液体が揺れる小瓶をテーブルに置いた。
「これは至高薬に対して劇的な治癒効果を持つ試験薬。主となる成分の母体が特定の治癒可能な病原体であるがゆえに至高薬による依存は治せるのよ。地獄の様な物理治療など必要なく、簡単に苦もなく一瞬で、貴女にはその価値の大きさが、その偉大さが分かるかしらクリス・マクスウェル」
愉悦に歪む女狐の表情はまさに狂人のソレ。
そんなモノがもし完成し世に蔓延すればどうなるか、最早想像するまでもない。人為的に作り出された麻薬と言う名の疫病。その特効薬を独占する女狐……いや、その背後に居る『御人』とやらが全てを掌握する狂った世界の完成である。
だがそれは刹那の栄華に酔いしれる、砂上の楼閣が如く愚者が見る夢、である。




