第一幕
公明正大、公正無私と名高い人格者である私ではあるが、執務室に姿を見せた来訪者を目にした瞬間、思わず眉を顰めてしまった。
金髪娘を隣に立たせ、私と向かい合い座るミカリヤ・モルガンと名乗った妙齢の女性……いや女狐で十分でしょう、彼女に対して抱いた印象は実に最悪のものであった。それは容姿や人格……見た目や内面の美醜の問題ですら無く、容赦なく無条件に彼女から漂う臭いが、その身に染み付いた悪臭が私を酷く不快にさせるのだ。
「始めましてクリス・マクスウェルさん。御会い出来て光栄ですわ」
彼女は薬術師ギルドでの金髪娘の元同僚であり元上司。今は王都で個人の薬師店を経営している女性だと、金髪娘は私に説明する。
「なるほど、それで、その薬術師さんが一体私に何の御用でしょう? ああっ、すみません話の前に少し窓を開けさせて貰いますね」
挨拶も早々に私は席を立つ。勿論相手の許可など求めたりはしない。
クラリスさんや子供たちが居るこの商会内に、この様な醜悪な臭いを漂わせるこの女狐を招いてしまった事を今更ながら後悔してはいたが、さりとて招いてしまった以上は有無を言わさず追い返すと言う訳にもいかない。
なので最低限、部屋の空気くらいは循環させねば主に怒の方向に振り切れそうになる私の情緒が危ういので、多少肌寒い程度は我慢して貰わねば困る。
盛大に開けた窓から冷たい秋風が流れ込み、私の流れる黒髪の先、金髪娘は風の冷たさに顔を背ける仕草を見せるが女狐の方は靡く金髪をそのままに悠然と妖しい微笑みを浮かべ私を見つめている。
「失礼しましたね、で、用件は何でしたっけ?」
「今日伺ったのは薬術師としてでは無く、さる御人から個人的に貴女との仲介を頼まれてので、ね」
「仲介? 失礼ですがモルガンさん……でしたっけ? 私は貴女と面識は無かったと思うんですけど、私の知人でもない貴女が私と誰かの仲介ですか」
「確かに私と貴女には直接的な繋がりはないわね、けれどレベッカが、この子がこの商会の人間だと言う事が間接的な接点と呼べるのではないかしら?」
女狐が舐めるような眼差しを私に向け、
「それに」
と、自らの懐から取り出した巻物を眼前のテーブルへと置いた。
それは間違いなく私が金髪娘に与えたモノ。
「これで理解してくれたかしら?」
「ええ、まあ概ねは」
私の返答に満足したのだろう、女狐は座ったまま誘惑するかの如く優美に組んだ脚を組み替えて見せる。
「本題に入る前にレベッカさん、少し良いかな」
金髪娘からの返答はない。
だが、立ったまま胸元で組んでいる彼女の腕は僅かに震え、その表情には隠し切れない緊張の色が垣間見える。それでも必死に体裁を繕いながらも決して私の視線からは目を逸らさない彼女の姿からは相応の覚悟が感じ取れた。
「特異契約の件は覚えていますか、レベッカさん」
「ええ……覚えているわクリス」
「では第三者に商会の利益に反する様な情報や権利物を私の許可も無く開示したり与えたりする行為が契約に抵触するとは考えませんでしたか?」
「勿論違反行為と知っての上よ……でも私はまだ貴女と契約を交わした覚えは無いわ」
「本当に? ねえレベッカさん、本当にそう思っているの?」
私の問い掛けに金髪娘の顔色が見る間に青ざめていく。それは正に劇的と言っても良い。
「レベッカ・リンスレット、貴女は面接の際に確かに特異契約の有無に同意した。正式な書面による契約を交わさずとも、例えそれが虚ろな口約束程度のものであったとしても、私程の魔法士であればそれだけで貴女に呪術的な制約を課す事が出来る可能性はちゃんと考えた? 熟慮した?」
金髪娘からの返答は……無い。
私はゆっくりと腕を伸ばし金髪娘に向かって手の平を差し出す。
「例えばそう……私が今開いたこの手を握るだけで、この場で簡単に呆気なく貴女の心臓を握り潰す事が出来ると言ったら……どうします? ねえレベッカさん、どうします?」
私は努めて冷たく言い放ち、彼女の動揺は顕著にその身に現れる。
「わっ……私は……わた……しは」
身を襲う恐怖ゆえであろうか、震える脚が体を支えきれぬ様に金髪娘はその場に膝を付く。
彼女の今の心境を察する事は簡単だ。それは誰かに生殺与奪の全権利を握られているかも知れないと言う圧倒的なまでの恐怖心。そして私ならそれが出来き、本当にやり兼ねないと疑い無く信じている様子が珠の汗が頬を濡らし、涙が滲むその表情からも窺い知る事が出来る。
「答えないならそれでも結構ですよ、寧ろそれこそが貴女の答えと言う事ですからね」
女狐も金髪娘に助力するつもりはないのだろう、興味深そうに事の顛末を傍観しているだけで、この場にはただ金髪娘の荒い息遣いだけが漏れ聞こるだけであった。
私は黙って待つ。
彼女が出す解答を。
「私の……物だから……」
僅かの間、僅かな時、流れる刹那の狭間で金髪娘は声を絞り出し、きっ、と私を睨み付ける。
「この固有魔法は私の物……絶対に誰にも渡さない。その為に私に出来る全てをやっただけ……だからこの身が何に変わり果てようと……結果がどうであろうとも後悔なんて微塵も無いわ」
それは優等生の仮面を脱いだ一人の魔法士の真実の心の叫びの様に思われた。
ならば解答は得た。
「なるほど理解しました。残念ですが私の負けの様ですね、さっきの話は全部嘘です。もしレベッカさんが信じてくれれば体良く巻物を取り戻せると思ったんですけど……こんな事ならちゃんと特異契約を結んでおくんでした……迂闊でしたね、本当に私の失敗でした」
訪れる死を覚悟していた様子の金髪娘は予期せぬ私の敗北宣言に暫し放心状態のようであり、私は黙って女狐へと視線を向ける。
さて、もう私の用件は済んだので此処からは蛇足以外の何物でもないのだが、金髪娘が最後に頼った相手がこの女狐であるのなら若干ながら興味が湧かない事も無い。
「内輪の揉め事に巻き込んだ様で申し訳ありませんね、女狐さん」
「良いのよ、本当に貴女……可愛いわ」
その眼差しにぞわっと寒気が奔る。
妙齢の女性にねっとりと見つめられ鳥肌が立つと言うのは私の内でも中々に珍しい体験である。
「それで用件とは?」
「二十億」
「はい?」
「二十億ディールでクリス・マクスウェル、貴女を買いたいと先方はお望みよ」
私は言葉を失い。
だが一周巡って思い直す。麻薬の臭いを周囲に撒き散らす、不快な女狐の冗談にしては中々に笑わせる捻りの効いた愉快なモノに思えたからだ。




