第二幕
私は膝に置いていた手を軽く握り締め……少し湿った掌の感触に眉を顰める。
緊張する……。
此処はマクスウェル商会内の控室。
私、レベッカ・リンスレットは今、面談の場に挑もうとしている。
緊張する……。
しかしこの緊張の元は伝播されたモノであり、その大元たる原因に私は目を向ける。
がたがたがたっ。
「ねえっちょっと貴方、もう少し静かにしてくれないかしら?」
「す……すびばせん……」
さっきから座る椅子を床に擦り付け耳障りな音色を奏でている隣の彼に、私は堪り兼ねて注意をしてしまった。
確か彼の名はロイ……ロイ・フォートナー。
十代後半であろうか、私よりも更に若輩の若者は緊張の余り身体を震わせて呂律も上手く回っていないようであった。
控室には彼と私の二人だけ。
マクスウェル商会に関わる噂や過度な報酬……そして法外な雇用条件。
それを鑑みても面接当日にマクスウェル商会を訪れた薬術師がたったの二人だけである、と言う否定出来ぬ現実が……現実を前にして、気後れしている様にしか思えない彼が抱いている感情は私にも理解が出来る。
不安と後悔。
そして、僅かな期待。
もしかしたら自分だけが特別に選ばれたのではないのか、と言うありもしない可能性を夢想する事で、その芽生えた儚い希望が衝動的にこの場から立ち去る事を望む本能を……感情が拒むのだろう。
私とて同じだ。
魔法士にとって誰かに『特別』な存在なのだ、と認知される事は抗い難い魅力……その可能性が完全に否定出来ないからこそ、私もまたこの場に留まっている。
普通に想像すれば条件と報酬を天秤に掛けて、誰もが危険だと判断したからこそ、二人だけと言う今の現実が在る……冷静に判断すれば容易く至る解を目にしても尚、それでも直ぐにこの場から逃げ出さないのは……消えない僅かな期待と好奇心は、若さゆえ……或いは魔法士としての性と呼ぶべきモノなのだろうか。
「そんなに緊張されたら私まで何だか変な気持ちになるじゃない……受かりたいならもっと堂々としていなさいな」
「すびばせん……」
駄目だ……この子に何を言っても無駄な気がする。
彼は気弱そうだが整った容貌を引き攣らせて私に謝罪の言葉を口にするが……薬術師と言うよりも良家の坊ちゃんと言った雰囲気を漂わせる彼の態度には何らの変化は見られない。
そもそも女の私に一方的に物を言われて、男として反抗するだけの気概が彼からは感じる事が出来ず……彼の未熟さを、負の側面を垣間見た私は……。
同時に少しだけ安堵する。
この子は私の対抗馬には為り得ない。
私は彼には負けない……その生まれた自負心が逆に私に冷静さを取り戻させる。
「御免なさい、少し言い過ぎたわ……お互いに頑張り……」
こんこんっ。
と、控室の扉がノックされ、気遣いを見せられる程度には余裕を回復させていた私は言葉を思わず詰まらせる。
開かれた扉から姿を見せたのは女性と二人の子供たち。
中でも見知った女性の姿を目にして。
★★★
特注のものだろう……彼女が纏う純白の修道着には精巧な金の刺繍が施され、その美しさを際立たせている。
華美でも無く簡素でも無く……上質な素材である事を感じさせる服の上から腰まで伸びる黄金の髪を、艶やかな白い肌から覗く純金の瞳を、穏やかな微笑みを湛える小さく形の良い唇を、美しきこの女性を、私は知っている。
「ティリエール助祭様……」
私は決して敬虔な信徒などでは無いが、それでも奇跡の体現者である治癒魔導師……クラリス・ティリエールと言う存在は、市井でも余りにも高名で有名な聖女の名であったから。
私を御存知なのですね、と微笑む助祭の純真で美しい表情に同性である筈の私ですらも頬に熱を帯びるのを感じ……隣のロイなどは初めは食い入るように彼女を眺めていたものの、今では顔を真っ赤に染めて視線を逸らせて俯いている。
「どうして貴女様が此処に?」
思わぬ場所で予期せぬ有名人に遭遇してしまった私は、動揺してつい無作法にもそんな事を聞いてしまう。
少なくともこの様な場で無遠慮に問うべき言葉では無いと知っていたと言うのにだ……。
「あっ、はい……クリスさ……いえ、此方の商会の会頭様には色々とお世話になっていまして、今はこの御屋敷に住まわせて頂いていますので、私如きに出来る事は少ないのですが少しでもお手伝いを、と」
何故神殿の助祭様が、と言う疑問は当然ある……しかし彼女自らがマクスウェル商会の縁者だと公言するのなら、此処はそれを問うべきではないだろう。
面接を前にして私自身の評価を下げてしまう危険はなるべく避けるべきであるからだ。
それにやはり安堵は覚えてしまう。
神殿の名立たる助祭様と縁故のある商会ならば、流されている黒い噂もはやり出鱈目な与太話の類だと一蹴出来る程……それだけクラリス・ティリエール助祭は潔癖と純潔さの象徴として広く衆知された存在であったから。
「それでは皆さん……あっ……」
隣に立つ少女が不意に助祭の修道服の袖を引っ張り……背丈を合わせる為に屈んで耳を傾ける助祭の耳に、ごにょごにょ、と少女が囁き掛ける。
「えっと、ですね……お二人は多くの書類参考の末に選ばれた優秀な方々です……ええっと……ですので皆様は特別に選ばれた……ええと……おめでとうございます」
ぱちぱち、と両隣の子供たちと共に拍手をして私たちを祝福する助祭の姿に私は思わず呆気に取られてしまう。
なんなのだろう……この言わされている感が溢れる助祭の姿と申し合わせた様な子供たちの訓練された様子は……。
そんな私の前で今度は左隣の少年が同じ様に助祭の服の袖を引っ張り……屈みこむ助祭に少年が耳打ちすると言う同様の行為が繰り返されて……。
「ロイ・フォートナー様?」
「はっ、はい!!」
突然、助祭様に名を呼ばれた隣の彼は上擦った声を上げて直立していた。
「実は……」
と、少年に促された助祭様は彼に向って語り出す。
「マクスウェル商会は福祉事業の一環として慈善活動の推進に力を注いでいまして……私がその責任者として『特殊』な聖水の販売を任されているのですが……どうかご協力を願え無いかと」
「ぼ……僕がですか?」
「はい……聖水の売り上げの一部は孤児院などの施設に寄付される公共性の高い事業ですので、どうかご安心下さいませ」
ごにょごにょ、とまた少年が何やら助祭に耳打ちする。
「ロイ様に金銭的なご負担はお掛けしませんし、ただ最初は会員として登録して頂くだけで……えっと、ですね……初めは銅の会員として聖水の販売の促進を促して頂き……三人の方に……えっと……」
ごにょごにょ。
「三人の方に聖水を購入して頂くとロイ様は銀の会員となりまして、そしてその方々が新たに五人の方に聖水を紹介して購入して頂ければ、更にロイ様は金の会員となりまして……元親となります」
ロイ様が紹介された方は子となって、次は孫、曾孫と慈愛と慈善の輪は広がって往くのだと助祭様は嬉しそうに語っていく。
なんだろう……恐ろしくきな臭い。
しかし隣の彼は熱心に勧める助祭様の姿に絆された様に、熱を帯びた眼差しを彼女に向けて何やら頷いている。
ティリエール助祭様の表情や声音にはまるで陰は無く、神の言葉を紡ぐ聖女の言葉は耳に心地良く……しかし、互いに頷き合っている子供たちの姿を視界に映した私はそそっ、と自然に視線を逸らす。
これは……関わるべきではない。
あくまでもこれは慈善活動の誘い……わ、私には関係の無い事柄なのだ、と必死に自分に言い聞かせる私に……。
「お姉さん、それでは案内しますね」
面接は一人づつです、とまだ十歳前後だろう少女が私の手を取り笑いかけて来る。
彼と私を切り離す為の算段なのでは……と一瞬そんな思いが脳裏を過るが……ティリエール助祭様は聖人だ……その彼女が熱心に勧める事業が邪なモノである筈が無い。
それに考えても見ればこんな年端も往かぬ子供たちが、率先してそんな企みに加担する訳も無く……全ては私の杞憂……悪い方にばかり考えが到るのはまだ知らず緊張している性なのだろう。
ふひっ……。
子供たちから妙な奇声が聞こえ……。
きっと幻聴……に違いない。
今は余計な事を考えず面接に集中しよう。
それに此処が私の正念場……悪いがどうあれ、彼、ロイ・フォートナーの未来の展望など私が気に掛ける必要性の無い対岸の火事……所詮は他人事なのだから。