第一幕
夜の帳亭の元の建屋は酒類の小売店だったらしく地下には専用の貯蔵庫がそのまま残されていました。
こんなお行儀の宜しくない土地柄で、酒屋などを開こうと考えた前の店主は或る意味で尊敬に値するなかなかに意欲的な人物であったのでしょうが、結果として賭博で負った借金の形に店を手放した挙句に現在は消息不明と聞かされた時は、さもあらん、と妙に納得してしまったのは秘密です。
その賭博の元締めであり、当時の店の所有者であった熊さんに前店主の行方をそれと無く聞いた事もあったのですが、その話題になると決まって言葉を濁し目線を逸らすので……考えるのを止めました。
人間って怖いですね……ええ、本当に。
しかし怖い話ばかりでは無く、ちゃんと恩恵も受けているのです。
地下の貯蔵庫は現在では立派な工房へと生まれ変わり、広さは上の店舗の面積と変わらないので多少手狭ではありますが、当時はそれでも我が城得たり、と感動したものです……ええ、まさに感無量でしたね。
勿論今でも自慢の工房です。
★★★
点在する淡いランプの光だけが光源の全てとも言える薄暗い地下工房で、私は大きな釜で煮え滾る謎の勿体をふひひひっ、と引き攣らせた奇声を響かせながら長い棒で掻き混ぜる。
出で立ちからして幅広の長い漆黒のローブを纏い、黒塗りのとんがり帽を被りながら時に嬌声を上げて一心不乱に釜の中身を凝視している私の姿は、これぞ魔女と呼ぶべき怪しさを醸し出していた事だろう。
私は棒を手に掻き混ぜる。
掻き混ぜる。
掻き混ぜる。
混ぜる。
そして……飽きた。
一頻りぼっち遊戯を楽しみ満足したので、すぱっ、とローブと帽子を脱ぎ捨てて本来の作業台へと移動する。
何事にも息抜きは必要なものである。
さて、本来の目的であった聖水を使った妙薬の出来はと言えば……結果だけ見ればまずまず上々と言えよう。
現状では現在の妙薬より一段効能が劣るのは否めない事実ではあるが、実用品としては許容の範囲内であると思われる。
勿論、それを手放しに喜べる訳でも無く当然、問題点も多い。
まず神殿の物販所で購入した聖水は最初の疑念の通り、微弱な光しか抽出出来ず、目に見えた効能の向上には繋がらなかった。
失敗の理由は以前述べた通りである。
一定量の光の抽出に成功したのはクラリスさんから貰った聖水ただ一つ。
その理由は容易に想像が付く。
彼女の信心深さと魔法の才能ゆえである。
信心深さについては語るまでもないが、魔法の才能とはその者が生まれつき持つ魔力保有量……器の大きさと同義と言える。
器にどれだけ水を注ごうが器の大きさで貯められる水量が一定である様に、人間が取り込める魔力もまた同じ。
遺跡や神殿が魔力の、信仰と言う概念の光の集約装置である様に、人間もまた原理を同じくする小型の集約装置と呼べるモノ。
つまり製造の過程が同じでも、保有魔力量の多いクラリスさんを介するだけで聖水への光定着率に大きな変化が生じる事が確認された形になった訳だが、良い意味でそれが今回の成果の一つと言えるだろう。
これでクラリスさんの協力を得られれば、全面的な神殿の協力を待たずして私の手によらない妙薬の精製の目処が立った事になる。
最終的には神殿の協力体制の下で、特定の個人に頼る事なく全ての薬術師がこのクラスの妙薬を精製出来る様にする事が目標ではあるが、今の時点で上を見上げてもきりが無いのでまず此処は素直に喜ぶべき事だろう。
何よりもこれで、また次の段階に進む事が出来る。
ようやく私は求めていたモノを手に入れられるのだ。
私の可愛い子供と呼ぶべき新たな商会の設立である。
クリス会頭……ああっ、何て魅惑的で素敵な響きであろうか……。
当面は薬術師ギルドの妙薬との差別化を図る為に既に新しい商標も考えてある。
新たに立ち上げるマクスウェル商会が冒険者ギルドに納める妙薬の名は回復薬。
そして回復薬で得た利益を元手に私は本格的に商売を始めるのです!!
ぐへ……ぐへへっ……おほんっ……。
気が早い、とお思いでしょう……しかし私にはクラリスさんを巡る騒動の解決と新たな店舗を同時に得ると言う妙案を思いついてしまったのです。
神殿関係者の動向はマリアベルさんが探りを入れてくれています。
指示通り動いてくれていればクラリスさんの身の安全も当分の間は大丈夫でしょう。
そうなると必然的に小悪党に相対するのが私の役どころ、それが劇の筋、場の流れと言うモノです。
クラリスさんに集る悪い虫には今後の世の為に無償でお金を融資させてあげましょう。
騙す……おほん、違います、魅せるのです。
精々良い夢を見せてあげましょう。
悪党に酌量の余地なし、罪悪感など抱きません。
だって私は魔性の女ですから。