第六幕
至福の時と言うのは、その人間の趣味趣向によって感じ取れる局面や状況は多様に大きく異なるものだろう。
私にとって美女との語らいとは、工房に一人籠り、魔法の研鑽と研究に明け暮れた懐かしき日々と等しく同義と呼べる最良の時間である。
美女と密室と酒。
それはまさに至高の取り合わせ……神が人の子に与えたもうた黄金比。
白磁の如き肌や頬がほんのりと朱に染まり、薄まる警戒心を現すかの様に乱れる着衣。
「ちょっと……聞いてるの?」
眼福である。
「クリス!!」
「ほえっ?」
「貴女酔ってるの? もう、だらしないわね」
マリアベルさんは私の襟元に手を置くと、ぐいっ、と引き寄せて胸元が露わになっていた私の着衣の乱れを正す。
あれ……乱れてるのはマリアベルさんでは無く私の方だった……。
気づけばテーブルには空き瓶が山の様に散乱し、私のグラスも知らぬ間に空になっていた。
「貴女はまだそうした経験が無いのは分かるけど、こう言う場所で余り気を許しては駄目よ、特に男に誘われた時は注意しなさい、良いわね」
「はっ…はい」
「大体が酒の力を利用して女を口説こうなんて明け透けな手を使う男は、単純で下心丸見えの最低の獣なんだから、貴女見たいな子は特に騙されない様にしないと、男は獣、分かったわね」
「りょ、了解です」
単純……獣……。
千年の時を経て私は今、真理を得た……あれっ、なんか泣きそう……。
「大体の事情は理解したわ、貴女はティリエール助祭をクズ貴族の魔手から護ってあげたいのね?」
立ち直れ私……今は膝を屈している時では無い。
「何か力に為れる事が有ればと思って……」
私の言葉にマリアベルさんは少し考えこみ……瞳に宿る色が少し変わった。
雰囲気が変わった、とそう感じられた。
「ふ~ん、クリスちゃんはお優しいのね、でも不思議な話よね、クリスちゃんは一体神殿に何の用があったのかしら……あそこは閉鎖的で御用商人以外が利権に入り込む余地なんてない筈なのに」
「それは……」
「私たち冒険者ギルドの後ろ盾を得ておいて、神殿にも良い顔をしたかったのかしら……それとも何か別の目的でも合ったのかな~」
マリアベルさんはすっ、と自然に私に身を寄せると、その細い指が頬に触れ、流れる動作でくいっ、と私の顎を軽く押し上げる。
息が触れ合う距離で、互いの鼓動を肌で感じ合い、マリアベルさんの瞳に映る自分の姿を私は時間を忘れ見つめていた。
それは堕ちていく様な感覚……いや、寧ろ堕とされたい。
マリアベルさんも酔っているのだろか……だが待て、考えるのだ……これは千載一遇の好機。
私は期待に胸を膨らませてゆっくりと瞼を閉じる。
しかし、閉じた視界の暗闇で触れた感覚は、柔らかな唇の感触……では無く、優しく私の髪を撫でるマリアベルさんの暖かな手の温もりだった。
「なんて、冗談よ」
と、開いた瞳に映る美女はくすっ、と笑った。
「貴女の思惑は聞かないでおいてあげるわ、私たちも神殿との関係を改善したいと考えているのだし、何よりクリスは頭の良い子だもの、きっと悪いようにはしないのよね?」
「それは勿論ですよ」
「なら決まりね、それに私も女の敵は許せないもの、喜んで協力させて貰うわ……ああ、それと、その流されやすい性格は改善した方が良いわよ」
「マリアベルさんは……意地悪ですね」
「だって貴女の反応が素直で可愛らしいんですもの」
片目を瞑り悪戯気に微笑むマリアベルさんに私の頬が熱を帯び熱くなる。
女は魔性……ええ本当に。
私にはまだ荷が勝るようです。
★★★
「調べる必要すら無い程に、クラリス・ティリエール助祭と言えば有名な名前ね」
「やっぱりそうでしたか」
予想通りクラリスさんは神殿関係者のみならず、一般でも良く知られた高名な人物であった。
治癒魔導師クラリス・ティリエール。
治癒魔法士の魔法を遥かに凌ぐ高度な治癒魔法の使い手たる存在として。
神の代行者として、奇跡の担い手として、神殿でも特殊な立場に彼女は立っている。
しかし治癒魔導師が選ばれた一握りの神の使徒なのかと言えば、必ずしもその定義は正しいものでは無い。
絶対数こそ多くはないが、どの国の神殿でも治癒魔導師は一定数存在しているし、また治癒魔法士の中からも段階を経て治癒魔導師へと昇格を認められる者たちも少なからず居るらしい。
では何故、クラリス・ティリエールだけが特別視されるのかと言えば、その若さゆえである。
治癒魔導師は須らく皆が司祭と言う神殿での要職に就いている。
言葉遊びでは無いが、治癒導師が司祭となるのでは無く、司祭こそが治癒魔導師と成れるのだ。
長き信仰の果てに神に認められた者のみが治癒魔法を更なる高みへと、奇跡へと昇華させるのだと。
簡単に言おう。
神殿にして見ればクラリス・ティリエールは、信仰の深さとは内に抱く敬虔さにより育まれ、年月の長さでは無いのだと謳う神殿の教義を証明する象徴となる存在。
だがその反面として高齢の司祭でしか扱えぬ筈の神の奇跡を年若い若輩者が扱える事への困惑と恐れは、年功序列にも等しい旧態依然とした神殿の体制を崩壊させかねない破壊者としての側面を併せ持つ。
それこそが彼女が治癒魔導師と認められていながらも助祭に留め置かれている理由であり、多くの者たちの思惑の上に成り立っている彼女の足元が如何に不安定で心もとないモノであると言う現在の証明でもある。
「でもね……不自然なのよ」
「何か引っ掛かりますか、マリアベルさん?」
「ティリエール助祭がまだ若く世間を余り知らないと言うのは、貴女との会話の内容からも明らかだとしても、ぼんくら貴族を追い払うだけで良いのなら簡単なのよ……いいえ、簡単過ぎるのに……なぜってね」
「どう言う事ですか?」
「そうね……分かり易く言えば王権と神殿の権威は互いに独立性が保たれていると言う事かしら」
冒険者ギルドは王国に帰属した存在であるがゆえに王権に縛られる。
しかし神殿は。
「神殿は王国でも聖域とされている場所、流石に治外法権とまでは言わないけれど、その独立性はどの諸国であっても担保されているものなのよ」
「神殿には王権は及ばない?」
「絶対的なモノでは無いし少なからず影響は受けるでしょうけど、今回の様な件であれば神殿は強く拒否すれば良いだけの話なのよ、何なら王国に抗議しても構わないわね、何方に非があるかなんて言うまでも無い話なんだし」
「高位貴族だからと言うだけでは強権は使えない……そうか、無理やり連れ出す程の強制力が無いからドワイトはクラリスさんに自分で屋敷に来いなんて言い方をしたのか」
「でしょうね、自らの意思で赴いたと言うなら、後に不貞行為だと糾弾されても罪に問われるのはティリエール助祭の方になるでしょうからね」
「狡猾なんて呼べない程に単純な話ですね」
そう……これは。
「だからおかしいでしょ? ティリエール助祭は当事者で混乱しているとしても、何故そんな簡単な話を誰も彼女に教えてあげないのかしらね?」
「それはやはり圧力では? 枢機卿の名前を仄めかしたようですし」
「幾らバルロッティ家が古い家柄でもあんな小物に、教皇の名代である枢機卿と面識があるなんて考え難い話だわ、それにこの国の神殿の教主は大司教よ、仮に脅しで追い詰めるにしても効力が強いのはより近い存在である筈の大司教の名前でしょ、ティリエール助祭が顔も知らない他国の枢機卿の名前を出した時点で、自分にはその両方と繋がりが無いと逆に公言している様なものだわ」
「単純な背景に簡単な話……バルロッティ子爵の個人的な欲望が今回の原因なのは間違い無いのに、どうにも違和感と言うか、腑に落ちないというか」
話を聞けば聞く程にドワイト・バルロッティと言う男は小物である。
神殿に圧力を掛けられる程の人脈がこの男に無いのなら、何故こうもクラリスさんに味方が居ないのか……彼女が周囲の人間たちに嫌われる様な性格だとはどうしても思えないからこそ、漠然としたこの違和感がどうしても拭えないのだ。
「前提が逆だとしたらどうかしら」
「前提が……逆?」
「そう、ドワイトがティリエール助祭を手に入れようと画策していると考えるから矛盾が生じるんじゃないかしら」
「画策しているのがバルロッティ子爵では無く別の誰か……」
「ティリエール助祭を陥れたい誰かがドワイトと言う捨て駒を利用してるとしたら、もう少しすっきりするんじゃないかしら」
信仰の深さと敬虔さを持ち、魔法の才能に恵まれた才女。
神殿の上層部ほどそんな彼女の存在を疎ましく思っているとしたら。
だとすれば、闇は想像以上に深く。
ええ……真っ黒です。




