第四幕
この世界には絶対に信用しては為らないモノが二つ有る。
それは優男共の甘い囁きと女の涙である。
美女の涙とはその最たるモノで信用すると痛い目を見るのは必定……駄目……うん、絶対。
なのでいきなり手を掴まれて、よよよっ、と泣き崩れる魅惑的な美女の登場に、私ほどの上級者ともなると、何て幸運な、などとは決して浮かれたりはしないのです。
自惚れません勝つまでは。
そんな訳で私は油断なく周囲を警戒する。
どうせ直ぐに、手前っ俺の女に……とか、借金の形に……とか、怖いお兄さんたちが木陰から現れるんですよね。
ええ……知ってます。
「あの……離して貰えませんかね……」
より強く握られる……離してくれる気は無いらしい。
仕方が無いので覚悟を決めて根気良く待つ事にする。
暫し待つ。
待つ。
しかし何時まで経っても怖いお兄さんたちが現れる気配は無い。
ようやくと言うべきか、其処ではた、と気づく。
此処は神殿であり風俗街では無い事に。
そして今の自分の性別に。
よくよく考えても見れば彼女に声を掛けたのは、修道服を着た女性の後ろ姿を見掛けたからだったのだから、直ぐに気づいても良さそうものなのだが……トラウマとは恐ろしいモノである。
「そろそろ落ち着きましたか?」
「御免なさい……お嬢さん」
諭す様に語り掛け続け、ようやく何度目かの問い掛けで彼女は顔を上げると手を放してくれた。
「恥ずかしい所をお見せしてしまいました……物販所の場所……でしたね?」
「あっ……ええ、はい」
恐らくは二十代前半だろうか、整った容姿に腰まで届く純金の輝きに彩られた長い金髪と、黄金を宿す瞳を持つ彼女の姿は神聖と呼ぶべき清楚さを抱かせるに十分な雰囲気を持っていた。
しかし同時に線の細さとは異なる豊かで魅惑的な彼女の肢体は、男なら生唾を飲み込む程に淫靡なる劣情を誘う危うさを秘めている。
冒険者ギルドのマリアベルさんも中々の美女であるが、この修道女さんも負けてはいない……世は広く侮り難きモノである。
「何かお探しの品でも?」
「ええ、聖水を売って頂きたくて」
涙の痕は拭えないが、それでも修道女さんは笑顔を私に向けて来る。
修道女さんは何が合ったかを話そうとはしない。
彼女が自分の意思でそう決めたのなら、私が問うべき言葉は無い。
「それならこれを」
と、修道女さんは自分の懐に手を入れて胸元から小さな小瓶を取り出した。
「少し使ってしまいましたが、良かったらこれをどうぞ」
この世界に置いて聖水とは一般的には魔除けとして周知されている。
神殿の祭儀などで使用される以外では、場を清めたり、身を清めたりと、日常の生活では頻繁に必要とされるモノでは無い為に、身に付けて持ち運ぶにはこの程度の量が最適なのだろう。
「有難う御座います、ただもう少し数が必要となるかも知れないので出来れば値段も知りたいのですが」
「失礼ですが誰かお身内にご不幸でも?」
「ええ、まあ……」
「ではご迷惑をお掛けしてしまった事への細やかなお礼、と言っては失礼ですが、物販所の方に私の名をお伝えください、関係者と言う事であれば無償でお譲り出来ると思いますので」
「其処までしてもらうのは心苦しいと言うか」
などと、しおらしい表情で言っては見るが、内心では好意を受けるき満々である。
素直に謝意を口にしなかったのは、もう少し聖水について詳しく教えて欲しかったからだ。
何せ神殿の内部の人間に話を聞ける機会に、こうも早く恵まれたのだから。
「神殿にとっては貴重な品なんでしょう?」
「お気になさらないで下さい、祭礼の後には毎日、信徒の皆様に御配りしていますし、神聖なものではありますが希少な品と言う訳ではありませんので」
「なるほど……と言いますと?」
素直で善良な修道女さんは聖水について隠す事なく素直に教えてくれた。
聖水の製造方法に特別な行程など必要なく、毎朝修道女の皆さんが井戸から汲み上げた清水に洗礼の儀を行っているのだと。
修道女の皆さんが奉仕と言う名目で無償で働いている事を踏まえて考えれば、人件費すら掛かっていない……言い換えるのならば聖水の製造にコストは掛からないと言う事だ。
それゆえに値段も一瓶、五百ディールと控えめな値を付けている。
確かに安価ではある……しかし品質と言う点で言えば良い事ばかりでは無い。
純粋な魔力が硝石と言う結晶を生み出す様に、信仰と言う概念が魔力を『光』へと再構成させている。
治癒魔法の様にその場で構成した『光』を魔法として具現化させるのであれば問題は無いのかも知れないが、水と言う液体に『光』を定着させるには継続的に『光』を付与し続ける必要がある。
恐らくだが、高々半日にも満たない時間で精製された聖水では、其処から『光』を抽出する事は難しいだろう……例え出来たとしてもそんな微弱な『光』では妙薬の効能の底上げなど到底期待出来ない。
酒に当て嵌めて語るならば、時間を掛けて寝かせる事で味わいを増す酒類が有る様に、聖水もまた神殿と言う、言わば概念装置の中で時を掛けて定着させ沈殿させる事で初めて意味を持つのだ。
この辺りについては再度の検証が必要だろう。
「私もそろそろ戻らなくてはなりませんので……申し遅れましたが私は助祭を務めさせて頂いております、クラリス……クラリス・ティリエールと申します」
クラリスさんは私に深々と御辞儀をする。
これで話は終わりという意思表示なのだろう。
「ではクラリスさんの御厚意に甘えさせて頂きます」
私もクラリスさんの意を汲み取って返礼を返す。
これで終わり……それで良い。
クラリスさんがその若さで助祭と言う役職に就いている……与えられている理由は想像に難しくは無い。
恐らくは魔法士としての資質。
信仰の深さや聡明さは理由の一端とは成り得ても、他の年長者たちを差し置いてまで先んじて助祭に任じられる理由など他を想像してもそう多くは浮かばない。
私の読み通りなら魔法士としても助祭としても彼女は神殿では有名な人物だろう……そんな人間の面倒事に首を挟むのは余りにも危険過ぎる。
この出逢いを一つの札として手札に残し、神殿との接触は細心の注意を払って行うのが正解だ。
だから私は、さようなら、と告げる為に口を開く。
「クラリスさん……神様に祈りは通じましたか?」
クラリスさんの笑顔が崩れて消える。
私は何を言っているのだろうか。
「貴女には関わり合いが無い事です」
「かも知れません……でも違うかも知れませんよ?」
「どういう意味でしょうか?」
「信仰で解決しない問題をクラリスさんが抱えておいでなら、もしかしたらお力に為れるかもと思いまして」
「私に必要なのは主の許しだけ……他には何も必要とはしていません」
「なら貴女は今も救われてはいませんよね、そんな悲痛な表情をされているのですから」
「それは私の弱さゆえ、私の愚かさゆえ……主のお導きに沿えない私自身の問題なのです」
「信仰の問題ではないと? 愚かな者は救われない、弱き者は救わない、随分と狭量な神様ですね」
クラリスさんは初めて私に対して感情を露わに整った眦をつり上げる。
それは明確なまでの怒り。
聡明な筈のクラリスさんでも信仰を少し揶揄するだけで、此処までの反発と憤りを見せる。
それこそが彼女たち宗教家と関わる事の難しさを端的なまでに現している。
分かっている筈なのに私は一体何をしているのだろうか。
理由を付けるなら簡単だ。
泣いてる女を目の前にして放っておくなど寝覚めが悪い。
馬鹿ですね……ええ、本当に。
「言い過ぎましたね……謝ります」
「貴女は一体何者なんです……何の目的で私にそんな話を……」
「私はクリス、王都の片隅で商いを主としている者です、こうしてクラリスさんと出逢ったのは何かの縁でしょう……ですので私は貴女と取引をしたいのです、同情でも憐れみでも無い、対等な商談の相手として」
「商人の方……ですか?」
「はい、神殿の方々から見れば俗物と呼ばれる人間なのは承知しています、ですが俗な人間だからこそ直接的な方法で貴女の悩みを解決して差し上げる事が出来るかも知れません」
迷っているのだろう、クラリスさんの視線が落ち着きなく動いている。
しかし、この場から立ち去ろうとする気配が無い事が答えで有る様な気がする。
だから私は、
「クラリスさん、貴女が私に与えてくれるなら」
自分の胸へと右手を添える。
「同じだけのモノを貴方に与えましょう」
左手をクラリスさんへと差し出した。




