第1章その一
智を持つ二つの種交わりし時、再び血が地を満たす災厄を招かん。
この龍の骸の眠るリュウジン大陸の人間誰もが知る戒めの言葉の一節。智を持つ二つの種族、深い知恵と技術を持つ人間と、獣の特徴と能力を持つ森人。他種族との交流を禁じたのはかつて種族間で大きな戦争があり、その結果どちらも絶滅寸前まで衰退してしまったからだという。二度と同じ争いを起こさぬように、互いに境界を作り、西を森人、東を人間の地とすることでひとまずの平穏は訪れた。だが、それで終わりとはならなかった。境界での小競り合いは絶えず、密漁者が蔓延り、そしていつからか不可避の死を招く奇病が発生した。漠然とした不安を抱えたまま「二つの智の戦争」と呼ばれた戦いから四百年余りがすぎた今、歪みは再び形をとりつつあった。
薄暗い雲が空をまばらに覆う昼前、一台の馬車が町に向かって来るのを二人の男が物見櫓から見ていた。
「あれか?」鉄の胸当てをした青年が望遠鏡を渡しながら隣の男に聞いた。
「たしかにあんな感じだったが、顔を見ないと」と隣の男は答えた。
「降りよう、あんたは物陰から見ていてくれ」
わかった、と答える前に胴当ての青年ははしごを降りていった。
馬に乗っていたのはおそらく二十半ばほどの青年。平凡な顔立ちだが人当たりの良さそうな雰囲気。門の外側の小さな関所の前で馬車を止め、青年は馬を下り、そのすぐあと屋根付きの荷台から二人の大柄な男が降りてきた。それを見て窓口からも頭に白髪が混じり始めた門番がゆったりと顔を出した。
「交易の町リュウホウへようこそ。まずはこの紙に署名を」
一時的な滞在者の名と拇印、そして滞在者の簡単な身分証明になる番号がずらっと記された控えを受け取った。それぞれが署名し印を押して返すと、門番はくるりと背を向け壁にかけた木製の番号札を手に取り、控えに数字を記入して札を男達に渡した。
「くれぐれも無くさないようにお願いしますよ。最近よくあるようでつい昨日も帰り際に札が無いことに気づいて半日も探すことになった商人さんがいましてね。顔は覚えていましたが、ここの決まりなんでそのまま送り出すわけには行かなかったんですよ。皆さんもどうかお気をつけて。情けはかけませんからね」
門番は苦笑交じりに男達に釘をさした。
「善処します」
青年も苦笑を返した。
「馬車は入って右に厩舎があるんでそこに預けてください。積荷を運ぶなら荷車も貸し出ししていますよ」
青年は礼を言って手綱を引いて門をくぐり町の中へ入った。
(ここまでは順調。あとは馬車を預けて第二段階に移ろう。)計画の第一段階が完了しつつあることを青年は内心安堵した。
一行はそのまま厩舎の前まで進んでいった。預けた動物の世話係らしい男二人が厩舎の中に、外には応対する軽装の中年の兵士。さらにもう一人、柱にもたれかかった、成人手前に見える鉄の胸当てとこげ茶色の旅用の服をまとい左腰に二本の小剣、右に一本短剣をさした見張りの兵士に見えない、おそらく用心棒の男が小剣の片方に手のひらを乗せて立っていた。
用心棒はちらと厩舎の方を向いた。それからすぐ青年達に向き直った。
「全員番号札を貰いましたか?」
男にしてはやや高く、それでいてどこか陰のある声色で用心棒は青年に尋ねた。青年は質問の意図が分からなかったがとりあえず「もちろんです」と答えた。用心棒はさらに尋ねた。
「そっちの馬車の、二重底にいる二人の分は?」
青年の背筋が凍った。後の二人も息を詰まらせるのが聞こえた。この男はすべて知っている。なぜ?と考える前に手は懐に動いていた。が、いつの間にか首筋に当てられた剣に気づき、掴んだ短剣を取り落とした。用心棒は短剣を蹴飛ばした。
何もかもわけが分からなかった。計画が漏れていた、と考えるも馬車の中の伏兵まで見破られていたのはおかしい。これは切り札だから仮に捕まっても絶対にばらすなと厳命されていた。その上計画によって変わる伏兵の人数を正確に当ててみせたのはどうやっても説明がつかない。
そしてもっともおかしいのは、人十人ほどが並べるほどの距離はあったはずなのに一気に間合いをつめて抜いた剣を首に寸止めしたということだ。青年は一部始終を見ていた、はずだった。だが思い出せるのは用心棒がいつの間にか間近にいたことだけだった。
青年が思考をめぐらせているうちに他の二人も捕まっていた。一人は近くの見張りの兵に、もう一人は駆け出し近くにいた男を人質にしようとしたが、その男も兵士だったらしく突き出した腕を固められあっさり倒されてしまった。
厩舎の付近には初めから普通の市民はいなかったのだろう。市場へ向かう通りの手前から剣を抜き放った男がこちらに向かって来て、その様子を本物の市民が遠巻きに眺めていた。
彼らは最後の手段に出るしかなかった。馬車から木の板をずらしたような音が鳴り、下から小柄な男が転がり出て、咥えた笛を全力で吹き鳴らした。あまりに耳障りで耳をふさぎたくなるほど音は町中に鳴り響いた。男は取り押さえられる前に笛を捨てて手を上げた。その顔は汗を浮かべながらうっすら笑っていた。
予備計画、もし馬車の部隊が全滅した場合、前もって潜伏させていた仲間が計画を引き継ぐ。もうじき彼らはおのおの手ごろな人質を連れて現れるだろう。何人かはそう考えていた。だが青年は不安を拭いきれなかった。
しばらくして仲間達が現れた。縄に繋がれて。
「確認したいんだが、これで全員か?」
用心棒の問いかけに青年は蒼白の顔を向けることしかできなかった。