第3話 祖母の言葉
★
「中学に行ったら陸上部に入ってくれ」
奈々子に話をしてから十日が経った。
あの日は珍しく奈々子の方から話し掛けてきた。感情を露わにする場面もあった。そんな彼女の様子から陽太は二人の距離が縮まっていることを確信し、良い返事がもらえることを期待した。
しかし、奈々子からは何の返事も返って来ない。そればかりか、彼女の方から話しかけてくることもなく、避けられているような雰囲気が感じられる。
『あんなこと言わなければよかったのかも……』
弱気の虫が頭をもたげ後悔の念が陽太を苛む。
奈々子に話し掛けることさえ躊躇われるようになり、まるで、二人の間に見えない、高い壁が立ちはだかっているような気がした。
★★
「吉野さん……? 吉野陽太さん?」
二月に入ったある日、部活を終えて校門を出ようとした陽太は誰かに名前を呼ばれた。声の方に目をやると、校門の陰に一人の老婦人が立っていた。
「はい。吉野ですが」
知らない人から声をかけられても相手にしてはいけない――小さい頃からそう教えられていた陽太だったが、老婦人の整然とした身なりと気品のある雰囲気に何の警戒心を抱くこともなかった。
「お会いできてよかったわ。私は『夏目直子』。奈々子の祖母です」
その声には聞き覚えがあった――クリスマスイブの日に校舎の前で奈々子の名前を呼んでいた人。そう言われてみれば、目元が奈々子に似ている気がする。
ただ、奈々子の祖母が陽太に何の用があるのだろう?
『陸上部に入るよう頼んだことが関係しているのでは?』
そんな考えが陽太の脳裏を過る。このタイミングで奈々子の祖母が現れたのはとても偶然とは思えなかったから。
もしかしたら奈々子は《《そのこと》》でかなり悩んでいたのではないか? 食事も喉を通らなくなった奈々子は涙ながらに両親に相談する。すると、隣の部屋で聞き耳を立てていた祖母がいきなり飛び込んでくる。
「わしの可愛い孫を悩ませるのはどこのどいつじゃ!? 絶対に許さん! わしが直々に話をつけてやる!」
腹の底から湧き上がる、やり場のない怒りを胸に、祖母は周りが止めるのも聞かず単身小学校へと乗り込んできた。そして、目に入れても痛くない可愛い孫を悩ませた張本人が出て来るのを手薬煉引いて待ち構えていた。
見た目は華奢で温厚そうに見えるが、曲がりなりにも男子顔負けの走りをする奈々子の祖母だ。内に秘めたパワーは強大で、一度切れたら手が付けられないタイプかもしれない。
「ご、ごめんなさい! 俺、夏目を悩ませるつもりはなかったんです。ただ、いっしょに走って欲しかっただけなんです。もちろん、夏目がいやなら無理にとは言いません。まさか《《そんなこと》》になっているなんて……どうか許してください!」
良からぬ妄想を抱いた陽太は老婦人に向かって深々と頭を下げる。
状況がよく見えていない老婦人は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「何を謝っているのかわからないけれど、とりあえず顔をあげてちょうだい。今日は吉野さんに聞きたいことがあって来たの。そこの公園のベンチでお話させてもらってもいいかしら? お手間は取らせませんから」
老婦人は優しげな笑みを浮かべて穏やかな口調で言う。
安堵の表情を浮かべる陽太。妄想は勘違い以外の何物でもなかったようだ。
★★★
目の前にオレンジ色に染まる、空と海が姿を現す。二月の平日ということもあって、夕暮れの山下公園は人気も疎らでもの悲しさが感じられる。
「ありのままをお話するわね」
海沿いのベンチに並んで腰を下ろすと、老婦人は徐に話し始めた。
「奈々子が転校して一ヶ月が経つけれど、学校では上手くやっているのかしら? あの子の話によれば、クラスのほとんどの子とお話ができて気の合う子が半分ぐらいいて、楽しくやっているらしいの。吉野さん、奈々子の言っていること、どう思われる?」
陽太はハッと息を呑む。奈々子が嘘をついているのは明らかだったから。
ただ、嘘をついたことには何かしら理由があるはず。本当のことを話すのは容易いが、それは得策でないと思った。
「は、はい。夏目はみんなと仲良くやっています。転校した日から夏目の周りには人が集まっています。夏目は人気者で毎日楽しそうにしています。心配することない……と思います」
ぎこちない答え方をする陽太に老婦人は笑顔で頷く。
「奈々子はね、私の前ではいつも笑顔で、いつも優しい言葉をかけてくれるの。ただ、どこか違和感があってね」
老婦人は目を細めて沖の方へ視線を向ける。
「気を遣っているのがわかるの。私を心配させないように……でも、もう騙されない。二度と騙されたくない」
陽太は驚きを隠せなかった――唐突な一言と同時に老婦人の顔から笑顔が消え、悔しさと悲しみがいっしょになったような表情が浮かんでいたから。
「騙されたくないって……騙されたことがあるんですか? 夏目に」
「残念だけどあるの。あの子は私にとんでもない嘘をついた。長い間ずっと、私はあの子に騙され続けたの」
「お言葉ですが、確かにあいつは愛想がなくて冷たい雰囲気があります。クラスでも浮いています。でも、嘘をつくような奴じゃない。それは、話をすればわかります」
間髪を容れず、陽太はむきになって反論する。
「やっぱり学校ではそんな感じなのね」
「あっ……! ち、違う! 今のは違います! 夏目はいつも明るくて、いつも優しくて、みんなに好かれていて――」
「――ありがとう。でも、いいの。わかっていたわ。だって、『友だちがたくさんできた』なんて言いながら、お友だちの名前は出さないし誰とどんなことをしたのかも一切話してくれないから」
動揺する陽太の言葉を遮るように老婦人はポツリと呟く。
「でもね、一人だけ例外がいたの……吉野さん、それがあなた。あなたのことを話すとき、奈々子は本当にうれしそう。それだけは嘘じゃないってわかる。だから、こうしてあなたに会いに来たの」
陽太は耳を疑った。奈々子が自分のことを祖母に報告していた。しかも、うれしそうに――老婦人の言っていることがとても信じられなかった。
「一つ訊いてもいいですか?」
「何かしら?」
「『夏目に騙されていた』って、どういうことですか?」
老婦人は、目を細めると、暮れなずむ、オレンジ色の空に再び視線を向ける。
「私の娘が奈々子の母親なの。『母親だった』が正しいわね。奈々子が二年生のとき病気で亡くなったから。
奈々子のお父さんはすぐに再婚した。ただ、新しい母親はあの子のことをよく思わなかった――あの子は継母からひどい暴力を受け続けた。最近までずっと……でもね、あの子はそんな素振りは全く見せなかった。離れて暮らしていたこともあるけれど、電話ではいつも明るく振る舞っていた。
そのことに気づいたのは、去年の六月――主人が亡くなって奈々子たちが告別式に来てくれたとき。傷だらけの身体と悲しいほどの作り笑いを見た瞬間、すぐに何が起きているのかがわかった」
老婦人の頬を一筋の涙が伝う。予想だにしない事態に陽太は唖然とした表情で老婦人の顔を凝視した。
港内を吹き抜ける風がとても冷たく感じられる夕暮れだった。
つづく