最終話 聖夜のスプリンター
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六月三十日午後四時二十八分。ラズベリーレッドのランニングウェアに身を包み、観光客で賑わう山下公園をジョギングする夏目奈々子。
いつものようにシーバスの乗船場でスピードを緩めるとクールダウンに入った。しかし、停泊する氷川丸の前を過ぎたとき、怪訝な表情を浮かべて足を止める。
奈々子は珍しいものでも見るかのようにあたりを見渡す。見慣れた景色がセピア色に変わりまるで時間が止まっているかのように人や物が動きを止めていたから。
何かが左手に触れる感覚があった。
左手に目をやると、そこにはサンタの衣装を身に纏った一人の女性の姿があった。
「奈々子ちゃん、お・ひ・さ。会いたかったよ」
女性は口角を上げてニッコリ微笑むと小さくウインクをする。
「あなた……だれ? どうしてわたしの名前を知ってるの?」
突然現れた得体のしれない存在に奈々子は警戒心を露わにする。
「やっぱりそうなるよねぇ。おねえさん、ちょっぴり寂しい。でも、このまま引き下がるわけにはいかない。だって、おねえさんは奈々子ちゃんにどうしても伝えなければならないことがあるんだもの」
「――手を放して! 放さないと警察を呼ぶわよ!」
女性の言葉に耳を貸すことなく、奈々子は懸命に女性の手を振りほどこうとする。
すると、女性のブルーの瞳が鋭い眼光を放つ。
「聖夜のス・プ・リ・ン・ター」
間髪を容れず、女性の口から呪文のような言葉が発せられた。
「何を訳の分からないこと言ってるの!? あなたと話すことなんか何もない! いいからその手を放し――」
荒らげた言葉が途中で止まった。
奈々子は口を半開きにして遠い目で女性を見つめる。あやふやな記憶が頭の中で渦巻いている。
セピア色の世界に沈黙が流れる。ドクンドクンという、心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。その音に呼応するかのように身体の奥底から何かが湧き起こる感覚がある。
不意に、奈々子の脳裏にランニングウェアを身に纏った、一人の男の子の姿が浮かんだ。年恰好は小学校の高学年。声は聞こえないが笑顔で誰かの名前を呼んでいる。
男の子が走り出した。見る見る間にその顔つきが中学生のそれへと変わっていく。しかし、突然立ち止った彼はその場に泣き崩れる。悲痛な面持ちで誰かの名前を叫んでいる。
涙を拭うと再び男の子は走り出す。彼の顔つきが大人びたものへと変わった。濃紺のランニングウェアを身に纏った彼から満足感と達成感が伝わってくる。両手で誰かの身体をしっかり抱きしめて満面の笑みを浮かべている――「陽太、ありがとう」。音のない世界に微かに声が聞こえた。
「……陽……太……」
耳にしたものをそのまま言葉にした瞬間、温かく、心地良い何かが奈々子の全身を駆け巡る。「それはとても大切なもの。絶対に失ってはならないもの」。奈々子は身体全体でそのことを感じとった。そして、それが何であるかを理解した。
「マライアさん?」
遠い目をしていた奈々子の瞳に光が宿る。
「はぁい、おねえさんよ。改めまして、Guten Tag!(こんにちは) 記憶が戻ってよかったわ。でも、一時はどうなることかと思ったよ。おねえさんのEカップの胸がドキドキいってたんだからぁ」
マライアは左手を自分の胸に当ててホッとした表情を浮かべる。
「マライアさんがいるってことは、今日が《《その日》》なの?」
奈々子が真剣な表情で尋ねると、マライアの顔から笑みが消える。
「そうだよ。ついさっき世界は改変された」
「じゃあ、陽太はもう……マライアさん! 陽太はどこ? どこにいるの? わたし、陽太のところへ行かないと!」
奈々子は唇を震わせながらマライアの手を強く握り締める。
「陽太くんは自分の家の前にいる。マリウスといっしょにね」
「わたし、行く! 陽太のところへ行く!」
奈々子は声を荒らげながら、何かを訴えかけるような目でマライアの瞳をじっと見つめた。
「じゃあ、この手袋を嵌めて。たぶん二人は今のおねえさんたちみたいに別の次元にいる。それに、手袋を嵌めていれば物理的な制約も受けないからいつもより速く走れる。おねえさんも後で行くよ」
「マライアさん、ありがとう!」
赤い手袋を素早く右手にはめると、奈々子は一目散に駆け出した。
★★
セピア色の街を走りながら奈々子は不思議な感覚を抱いていた。
見慣れた風景が色褪せた世界は文字どおり別世界。車や壁が自分の身体をすり抜けて行くのも不思議だったが、通り過ぎて行く景色がまるで過去のワンシーンのように感じられた。まるで自分が時間の流れより速く動いている気がした。
ただ、それは願ったり叶ったりだった。
なぜなら奈々子は一秒でも早く陽太のもとへ辿り着きたかったから。一秒たりとも陽太を独りにしておきたくなかったから。
『もっと速く。もっと早く。お願い』
奈々子は心の中で祈りながらひたすら走り続けた。
メイン通りから路地に入ると、陽太の家の前に二つの人影が見えた。
一つが道路にしゃがみ込んで両手で目頭を押さえている。すぐにそれが陽太だとわかった。
奈々子は陽太の背後に駆け寄った。そこには、深い悲しみで押し潰されそうになっている背中があった。
「……させない……絶対にさせない……独りぼっちなんかに……させるもんか……」
奈々子の口から荒い吐息が混じった、途切れ途切れの言葉が漏れる。
涙を拭いながら振り返る陽太。その表情は驚きに満ちていた。
「……奈々子……なのか? お前、俺のこと……憶えてるのか?」
陽太の顔を見た瞬間、奈々子の頬を一粒の滴が伝う――それは奈々子が何年ぶりかで流した涙。
それが何かの合図であるかのように、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「陽太と離れたくない……独りにしないで……わたしを独りにしないで……お願い……」
首を何度も横に振りながら、言葉にならない言葉を発する奈々子。陽太に抱きつくと人目も憚らず大きな声で泣いた。
「奈々子……」
陽太は奈々子の身体をしっかりと抱きしめた。ただ、状況が理解できていない彼は戸惑いを隠せずにいた。
「奈々子ちゃんのJTは合格ね。マリウスもそう思うでしょ?」
マリウスの隣にマライアが現れる。
「異存はない。後は本部がどう判断するかじゃな」
マリウスの型通りの言葉に、マライアは自分の両手を彼の左腕に絡ませると、不機嫌そうに唇を尖らせる。
「誰にも文句は言わせない。もし本部が難癖をつけてきたら、キミがガツンと言ってやって。『俺の愛する女の言うことに文句を言う奴は許さない』ってね」
マライアはマリウスの耳元に顔を近づけて、耳に息を吹きかけるように囁く。濡れた瞳がどこか妖しい輝きを放っている。
「や、やめんか! 子供の前で何をやっとるか!」
「あらぁ、照れる年でもないでしょ? それに、奈々子ちゃんと陽太くんに仲が良いところを見せるのはプラスにはなってもマイナスにはならないわよぉ」
「時と場合を考えろと言っとるんじゃ! 今はJTの最中じゃぞ!」
動揺するマリウスに、マライアは、ピンクのマニキュアが塗られた、右手の人差し指を立てると「ちっちっち」と左右に振って見せる。
「だからぁ、JTは終わったんだってばぁ。奈々子ちゃんが合格したってことで。ちゃぁんと『合格のポイント』は押さえてたでしょ? 涙も流したし自分の正直な気持ちも言葉にできたし」
「こ、こら! ジャッジのポイントをばらしてどうする! お前と言う奴はいつも一言多いんじゃ!」
マライアとマリウスの痴話喧嘩のようなやり取りを、陽太と奈々子は呆気にとられた様子で眺めていた。
「おっさん……その人、誰なんだ? おっさんの娘さんか何かか?」
「彼女か? 彼女はわしの嫁のマライアじゃ」
陽太は眉間に皺を寄せる。
「嫁? 嫁って……奥さんのことだよな?」
「ああ、そうじゃ。マライアはわしの配偶者じゃ」
陽太はマリウスの顔を訝しそうに見る。
「親子ぐらい年が離れた奥さんもらうなんて……おっさん、ロリコンかよ!?」
「な、何を言っとるか! マライアはわしと同じ五十五歳じゃ! だから、夏目奈々子をこうして後継者として選んだんじゃ!」
陽太の一言にマリウスは顔を真っ赤にして反論する。奈々子は両手を口に当てて噴き出すのを我慢している。
「あらぁ、おねえさんがマリウスの娘だなんて、うれしいこと言ってくれちゃってぇ。陽太くん、後でおねえさんと二人で《《しようか》》? イ・イ・コ・ト」
「マライア! お前は黙っとれ!」
「マライアさん! どさくさに紛れて変なこと言わないで!」
マリウスと奈々子が同時に声をあげる。
「あらぁ、心配しなくても大丈夫よ。おねえさん、陽太くんをとったりしないから。奈々子ちゃんったらホントに可愛いんだからぁ」
お気に入りの抱き枕を抱える子供のように、陽太の身体をしっかりと抱きしめる奈々子。二人は顔を見合わせると慌てて距離を置く。
「じゃあ、おねえさんが今の状況を説明してあげる。陽太くんにもよ~くわかるようにね」
マライアは右手の人差し指を立てると、これまでの経緯をゆっくりと説明し始めた。
★★★
「――――と言うことで、奈々子ちゃんの潜在意識に眠っていた記憶が蘇ったってわけ。でも、それだけじゃあ、JTは合格にはならなかったんだなぁ。これが。ポイントは『自分の意思をはっきりさせること』。つまり、『陽太くんをひとりぼっちにしたくない』じゃなくて『陽太くんと離れたくない』って思わないとダメ。
理由? 当たり前でしょ。サンタになった後でグダグダ文句言われたら堪らないもの。まぁ、本部からの正式な合格連絡もあったわけだし、これで二人とも晴れてサンタの仲間入りよ。おめでとう」
マライアは陽太と奈々子に向かってパチパチと拍手をする。
陽太はまるで夢を見ているようだった。世界中で彼のことを憶えているのは一人だけ。しかし、それが奈々子だったことで救われた気持ちになった。
ただ、うれしい反面、自分の中に蟠りがあることに気付いていた。
「なぁ、奈々子?」
陽太が躊躇いがちに呟く。
「なに?」
「お前さ……無理してねぇか? 俺のために」
「してないけど。どうしてそんなこと聞くの?」
陽太の言葉に奈々子は小首を傾げる。陽太は視線を空に向ける。
「お前がサンタになったことで、おばあちゃんと離ればなれになった。それに、夢が叶わなくなっちまった。サンタになんかならなければ、世界陸上やオリンピックで優勝して先生にでも何にでもなれたのに……。
俺はお前の夢を応援する立場なのに足を引っ張っちまった。それがすごく申し訳なくて……ごめん」
その瞬間、奈々子は陽太の両頬を両手で挟み込むと、顔を自分の方へぐいっと向ける。
「陽太、今度そんなこと言ったら許さないからね」
奈々子は真剣な表情で陽太を睨みつける。
「だっ、だってよぉ――」
「――だっても、さってもないの! 確かに、おばあちゃんと別れるのは辛いこと。でも、いつかはこんな日が来るの。これからもおばあちゃんのこと遠くから見守るつもりだし、わたしの代わりにおばあちゃんのことを支えてくれる人もいる。それから、わたしの夢のこと、何か勘違いしてない?」
「だって、お前、小学校の先生になりてぇって言ってたじゃねぇか――痛ててて! 何するんだよ!」
陽太の両頬を両手でつねる奈々子。
「だから! それは手段であって目的じゃないの!」
陽太の顔から手を放すと、奈々子は彼の目をじっと見つめる。
「わたしの夢はね、悲しみや苦しみを独りで抱え込む子がいなくなること。だから、子供たちをしっかり見ることができる、小学校の先生になりたいと思った。でも、夢にたどり着く道は一つじゃないことがわかったの……そうだよね? マライアさん」
「そうよぉ。《《奈々子サンタ》》の仕事としてそれをやっちゃえばいいの。子供たちの人権の保障に躍起になってる、国連の連中は涙を流して喜ぶわ。全面的なバックアップが受けられること、間違いナッシング!」
突然の奈々子の振りにマライアがウインクをしながら答える。
きっと、陽太が知らないところで二人はそんな話をしたのだろう。陽太は胸のあたりに痞えていた何かがスーッと消えていくのを感じた。
「陽太はね、いつも気を遣い過ぎるの。でも、それが陽太の良いところで陽太らしいところね」
奈々子は陽太の白い手袋に自分の赤い手袋を重ね合わせると、うれしそうに言った。
★★★★
「――そろそろ行くかのぉ。お前たちには、これから半年の間に覚えてもらうことが山ほどある。一分でも時間が惜しいからな」
宙に浮かぶ橇の運転席に座るマリウスがにこやかや表情を浮かべる。
「もぉ~キミは相変わらずせっかちなんだから。《《まだ》》半年もあるんだよ? 奈々子ちゃんと陽太くんと楽しく過ごせる時間が。今夜は二人の歓迎会を開くんだからね。
それはそうと、《《この子》》も連れて行くんでしょ?」
マリウスの隣に腰を下ろすと、マライアは足元にいるチワワを抱き上げる。
「ノエル! ノエルじゃねぇか! 連れてってもいいのかよ?」
愛犬の姿を目の当たりした陽太が興奮した様子で叫ぶ。
その声に反応するかのようにノエルは尻尾を左右に振りながら「くぅーん」と鼻を鳴らす。
「この子は陽太くんと奈々子ちゃんのことを忘れてなんかいない。助けてもらった記憶がどこかに残っていて、今も二人のことが大好きなんだよ。DMCはまたバグを起こしたってことね」
マライアは軽くウインクをすると口角を上げて笑った。
隣では、マリウスが口髭を撫でながら頷いている。
「奈々子、ノエルもいっしょだ。良かったな。そろそろ行くか? 俺たちの新しいスタート地点へ」
陽太は和やかな表情を浮かべて、奈々子の方に視線を送る。
すると、奈々子は目を逸らして視線を足元へ向ける。
「ちょっと待って」
「どうした? 何か忘れ物か?」
陽太が心配そうに声をかける。
マリウスとマライアが顔を見合わせる。
「どうしても……陽太に……言っておきたいことがあるの」
奥歯に物が挟まったような言い方をする奈々子。その顔には緊張の色が見て取れる。
「わかった。遠慮せずに言えよ。俺とお前の間では隠し事はなしだ。これまでも、そして、これからもずっとな」
「うん。わかった」
ゆっくり顔を上げると、奈々子は深呼吸をする。そして、少し潤んだ瞳で陽太をじっと見つめた。
「わたし、陽太のことが好き。これからもずっと好きでいる。一生陽太のことだけ好きでいるから」
奈々子の顔に満面の笑みが浮かぶ。夕焼けのオレンジの光に彩られた、その表情はとても美しく神々《こうごう》しささえ感じられた。
その光景はどこかで見たことがあった。
奈々子と初めて会った日、一瞬だけ見せた笑顔にとてもよく似ていた。
あの日以来、陽太はずっと思ってきた。「いつも奈々子にはそんな笑顔でいて欲しい」と。
陽太の胸の奥から、嬉しい気持ちが込み上げて来た。奈々子と二人でいれば幸せになれる気がした。同時に、たくさんの人を幸せにできる気がした。
「おっさん、準備OKだ! 俺たちが世界中を幸せにしてやるよ!」
奈々子の手をとると、陽太は大きな声で叫んだ。
無邪気な笑顔を浮かべ、澄んだ瞳で真っ直ぐに奈々子を見つめる陽太。
そこには、リビングルームに飾られた写真の中の陽太がいた――いつもサンタに憧れていた陽太が。
おしまい
最後までお付き合いいただきありがとうございました。




