第0話 特別な一日
「――母ちゃん、何て言うかな?」
黄色の通学帽を被り黒いランドセルを背負った男の子が、クリスマスの飾り付けがされた、師走の商店街をうれしそうに駆けて行く。
右手にしっかりと握られているのは、クリスマスカラーが目に鮮やかな写真立て。図工の時間に出来合いの木製フレームを使って作ったもので、塗色されたフレームには、紙粘土で作った、サンタ《《らしきもの》》とトナカイ《《らしきもの》》が貼り付いている。
ところどころ絵の具が食み出していてお世辞にも上手いとは言えないが、小学一年生の彼にとっては自慢の逸品。一刻も早く母親に見てもらいたくて息を弾ませながら家路を急いでいた。
メイン通りを一本入るとアスファルト舗装された路面が昔ながらの石畳へと変わる。人の姿は見当たらないが、メイン通りでも人が疎らな時間帯であることを考えれば、何らおかしなことではない。
不意に男の子の身体が前のめりになる。石畳の凸凹に足を取られた彼は、野球のヘッドスライディングをするかのように勢いよく倒れ込んだ。
「……痛っ」
男の子は顔を顰めながらゆっくり立ち上がる。ジャンバーとズボンが少し汚れているが怪我はしていない。厚手の服を着ていたのと手袋をしていたのが幸いしたようだ――ただ、その顔は見る見る間に泣き顔へと変わっていく。
男の子の視線の先にあるのは、変わり果てた姿となった写真立て。転んだときの衝撃でフレームは歪に変形し、さらに、サンタの顔とトナカイの脚がちぎれて路上に転がっている。ボンドで貼り付けただけの紙粘土が衝撃に耐えられるはずがなかった。
思いも寄らない出来事に、男の子の頭の中は瞬時に悲しみで埋め尽くされた。
見る影もない、自慢の作品を掌に乗せて、口を真一文字に結んでポロポロと涙を流す。きっと口を結んで声を出すのを我慢しているのは「男の子は泣くものじゃない」と普段から言われているから。
「――どうしたのかな?」
背中越しに穏やかな声が聞こえた。
男の子は服の袖で涙をグイッと拭って後ろを振り返る。
そこには恰幅の良い男が立っていた――赤い帽子に赤い上着と赤いズボン。真っ白な眉毛と大きな青い瞳。顔の下半分をすっぽりと覆う口髭。その風貌は、どこから見てもサンタクロースだった。
「写真立てが壊れちゃった……見せようと思ったのに……母ちゃんに」
口元を震わせながら、男の子は喉の奥から言葉を絞り出す。
「怪我はないかな?」
腰をかがめて男の子の服についた砂を掃うサンタ。男の子はしゃくりあげながら首を縦に振る。
「大切なもののようじゃな。困ったのぉ」
サンタは眉を顰めて、壊れた写真立てをしげしげと見つめる。男の子の顔には不安げな表情が浮かんでいる。
「三分間、待っていられるかな?」
サンタが優しい眼差しを向けると、その澄んだ瞳に魅了されるように男の子は小さく頷く。
「すぐ戻るからな」
男の子の頭を軽く撫でると、サンタはバラバラになった写真立てを手に路地の奥へと消えていった。
商店街はクリスマスセールの真っ只中。普通であれば、そのサンタを「商店街の関係者が仮装した者」だと考えただろう。
しかし、男の子は「本物のサンタ」だと思った――と言うより、サンタの存在を信じて疑わない彼には「偽物のサンタ」という概念はなかった。
クリスマスが間近に迫った頃、途方に暮れていた男の子の前にサンタが現れ、優しく力強い言葉を掛けてくれた。自慢の写真立てが壊れてしまったことで抱いた、深い悲しみとは裏腹に、男の子の中に高揚感と期待感が入り混じった感覚が湧き上がった。
「待たせたな」
三分が経とうとした頃、サンタが戻ってきた。
「どうじゃ?」
徐に写真立てを差し出すサンタに、男の子は自分の目を疑った――バラバラになった、サンタとトナカイが修復され、歪んだフレームも元通りになっていたから。
目を皿のようにして眺めたが、それは男の子が作った写真立てそのもの。接着剤や絵の具で修復された跡もない。
「すごい……すごいや! サンタさん、どうもありがとう!」
男の子は満面の笑みを浮かべて、大きな声でサンタに礼を言う。写真立てが元通りになったことで、サンタからクリスマスプレゼントを受け取った気分だった。
「礼には及ばんよ。ただ、気をつけるんじゃぞ。壊れた物は直せるが、怪我をした人はそうはいかんからな」
ウインクをするサンタに男の子は神妙な顔つきで「はい」と答える。
「じゃあ、わしはそろそろ行くからな」
「――サンタさん?」
男の子がもじもじしながら上目づかいにサンタを見る。
「なんじゃ? まだ何か用か?」
「一つ聞きたいことがあるんだけど……」
「わしで答えられることなら答えよう」
その瞬間、男の子の瞳がキラリと光る。
「サンタになるには、どうしたらいいの?」
「ふむ……」
サンタは視線を逸らして顎鬚を撫でながら、何かを考えるような仕草を見せる。そして、小さく頷くと、自分の顔を男の子に近づけて耳元で囁くように言った。
「サンタには忘れてはならんものがある。それは『優しい気持ち』じゃ。クリスマスだけじゃない。どんなときでもじゃ。心から困っている人がいたら助ける。心から願っている人がいたら願いを叶える――いつもそんな気持ちを忘れないことが大切じゃ。
お前がそんな生き方をしていれば、サンタの方から声をかけてくるかもしれんぞ。『サンタになる気はないか?』とな。
ふむ、そろそろ仕事に戻る時間じゃ。気をつけて帰るんじゃぞ」
サンタは軽く手を振ると、路地の奥へと消えて行った。
後ろ姿が見えなくなった瞬間、写真立てを持つ、男の子の手にぐっと力が入る。
「優しい気持ちを持つ。困っている人を助ける。願いを叶える……俺、やってみる」
冬晴れの空を見上げながら、男の子は自分に言い聞かせるように言った。
その日は、彼――「吉野 陽太」にとって特別な一日となった。
つづく