004. 名を禁じられた王
「貴様、何故あのような扱いをされて黙っていた」
飾り気のない自室に戻った直後。エーレンバールは女へ向けてそう言った。
言っている意味がよく分からない、と。彼女は首をかしげ、無言でそう主張する。
「あのような、とは……?」
「山を下る余を迎えに参じた時のことだ。『魔族』と呼ばれながらに貴様は突き飛ばされておったろうが」
容赦のない扱いだったことは疑いない。いかに人間とて、対等の者にあれだけの扱いは決してしないだろう。
それでも女は疑問を顔に浮かべたままだった。
魔族という奴隷の所有者である人間がその身を気遣うことなど、今の世にはほとんど無いことだったからだ。
女は思う。リンドブルーム家の爪弾き者、エリス嬢は屋敷から姿を消し、戻ってからは別人のように変わってしまったと。
「エリス様。そのようなことを訊くなんて今日は一体どうされたのですか? 魔族ならあの程度の扱いは当然のことではありませんか」
「当然のこと、だと……?」
言う女の顏からはやはり感情が消える。
使役される者。権利をはく奪された者。未来を失った者に特有の顏。
かつて魔族を率いた王、エーレンバールには戦後の世情を知る必要があった。
自分の死後、残された同胞がどのような運命を辿ったのか。
魔が敗れ、人が勝利した世界はどう変化をしたのか。
いや……それを抜きにしても、彼という個人には――魔王であった彼には、最低の扱いを受ける魔族を捨て置くことなど出来なかった。
金髪紅眼の身を得た魔王が同胞たる女へと手を伸ばし、言う。
「貴様、名前は何と言う?」
彼女はためらった。自身の名を口にしたことなどもう十何年と無く、心に秘めるべきものだと考えていたからだ。
「奴隷の私に名前など……」
「黙れ。貴様は貴様、世に生まれ落ちた一個人であろうが。父母より授かった名を余に教えよ」
エーレンバールの声には強い力があった。
当主の男が夜毎に呼ぶ、醜悪で下卑た声とは違う。使用人があざ笑う声とも違う。
彼女を求め、彼女の奥底を知りたいと願う親しみの声。あるいは魂に語りかける王の声とでも言えばいいのか。
「……シフォネ、です。奴隷に堕ちる前、私は母と周囲にそう呼ばれていました……」
「フハッ、良い名ではないか。シフォネよ、貴様は魔王エーレンバールの名に聞き覚えはあるか?」
「エーレンバール……? エリス様! その名を口にしてはなりません」
血相を変えたシフォネが似合わぬ声を出す。勢いよく扉を振り返り、部屋のそばで聞き耳を立てている者がいないか確認し、安全だと判断をした彼女はその白い顏をエーレンバールへと寄せた。
「何故だ?」
「かの王の名はランドール正教により禁じられたのです。みだりに口にし、それが正教に知られようものならば異端扱い――……魔族と同等の差別を受けることもありえます。正教の目と耳は世界中に張り巡らされています。どうか口にせぬよう、ご留意ください」
エーレンバールが肩を揺らせて笑う。まさかそれだけの大悪に仕立て上げられているとは。真実を語り、正義を名乗り、世界を敷くのは常に勝者の側だったな。
「フハッハハ……。エーレンバール。栄光の名。笑えるな。自らの名を口にすることが罪だと? 冗談としては上々の部類だ」
「エリス様ッ!」
両手を握りしめ、絞り出すようにしてシフォネが言った。主人が自ら危険に首を突っ込むのを平静に見ていられる従者などありはしない。それでなくとも、彼女は数日行方不明になった身なのだ。
屋敷の日陰者として業務に従事したシフォネと、エリスとは親しくなければ直接の面識はない。それでも彼女は、今のシフォネにとって確かに仕えるべき主のひとりには違いない。
その主が――紅い瞳をした令嬢が椅子の背もたれに身を預け、腕組みをし、威厳を高めるようにあごさきをくいと上げた。
彼女が立てた人差し指の先にシフォネの視線が吸い込まれる。
「美しき魔族の娘、シフォネよ。貴様はエーレンバールをどう思う? 魔族を救う英雄か? 裏切られて死んだ愚かな王か? 正直に答えよ。聞き耳を立てている者など一人も居ない。余は決して他言せぬ」
迷いがあった。
けれどどうしてだろう。決して口にしてはいけないはずなのに、口にしたくなってしまうのは。
幼い日、流浪の日々を送っていた中で母がこぼしていた言葉をシフォネは思い出していた。
『いつか魔王様がお戻りになられるの』
『エーレンバール様は死んだって長老が言ってたよ?』
『いいや。いずれあの方は蘇るんだよ、シフォネ。そうしてまた、私たち魔族のために立ち上がってくださるの』
『そうなの? そうしたら石を投げられない?』
『勿論さ。魔王様は私たちの希望なんだ。シフォネ、将来どんなに辛い目に遭おうとも希望を捨てちゃいけないよ。明けない夜は無い。魔族の再興を信じ、生き続けてね』
もう……30年以上も昔のことだ。母は使い潰されて死に、自分は奴隷として買われ、差別の中で生き長らえている。
こんな命、いつ終わってもいいと思っていた。それは今だってそうだ。
味方の居ない日々。その中で、今日という日にエリス・リンドブルームという女性だけが自分を向いてくれていた。
その彼女が自分の言葉を待っている。
なら、答えてもいいかな、とシフォネは思ったのだ。
「魔王様は……私たち魔族の希望です。母がかつてそう信じていたように、私もエーレンバール様の復活を……信じています。戦争を生き残り、自身の氏族をまとめる君主たちもきっと同じでしょう。かつての栄光も無く、日蔭の日々を生きる魔族が全てを投げ捨てずに生きているのは、エーレンバール王の再来を信じているからです」
止まらなかった。
自分の歩んだ道を、魔族が味わう辛酸をシフォネは語り続けた。しまった、と思った時には何もかもを口走ってしまった後。
決して口外はしないと言われたとはいえ、自分はなんてことを言い放ってしまったのだろう! 考えたくはなかったが、自分は彼女にからかわれていたのかも知れない。彼女は人間で、自分は魔族だ。弄ばれた経験など無数にある。
人類を滅びの際まで追い詰めた、破滅の魔王エーレンバールの復活を望んでいるなど、ひとたび知れれば自分の首が刎ね飛ばされることは疑いなかった。
胸が早鐘を打つ。
主人の言葉次第で自分の運命は生にも死にも転ぶ。
横髪の下に汗を浮かばせ、シフォネはそっと主人を仰ぎ見た。
そこにあったのは大胆不敵な笑み。讃えられ、悦に浸るような幸せそうな顔だった。
理解が出来なかった。やはり我が主は気が触れてしまったのか?
「……良い。実に良い答えだ。礼として、貴様に吉報をくれてやる」
「エリス様……?」
紅蓮の瞳がシフォネを真っ直ぐに見据える。その瞳には超常の力――魔力、それも極めて強力なものが宿っていた。
〝魔眼〟。
魔王エーレンバールは一つの魔眼に七つの能力を有する稀代の異能者だった。
人の身として蘇った後も魔眼は王と共にあり、超常の力をもってシフォネの心に語りかけていく。
「こ、れは……」
「余はエリス・リンドブルームではない。真の名をエーレンバール。全ての魔族の上に立つ者。夜の王。君主を総べる君主、エーレンバールとは余のことである!」
シフォネの心の中に魔王エーレンバールの記憶が広がっていく。
君臨者の視点。戦争の記憶。決戦の末に受けた冷たい死。蘇りの熱。
魔眼を通じ、身体に注ぎ込まれた情報の数々に嘘偽りはひとつとして無かった。
やがて自分を取り戻したシフォネが目を丸くしてエーレンバールを見る。口元の動きはたどたどしく、しかしはっきりと音を結び、
「魔王……エーレンバール……陛下?」
信じられない、と彼女の美しい顏はそう言っていた。
「いかにも。それこそはまさしく余の名。今度こそ世界を手中に収めんがために冥府より蘇った、魔族の王! シフォネよ。魔族再興の第一歩、そこに貴様の力が必要だ。貴様の王に身を委ねよ、貴様の王に忠を尽くせ。これよりはリンドブルームの使用人ではない。王の臣下として全てを捧げよ。良いな」
なんと自分勝手な物言いだろう。
だが、心地良い、とシフォネは思う。
差し出された手と手が互いに握り、指を絡め――、
ダメだ、と振り切った。
「な、なりません……! 我らが王、エーレンバール陛下。あなたの言葉が真実であることを私は知りました。偉大なる王が再来したのだと。御身のためとあらば私は全てを捧げる覚悟です。ですが……ですが、この身は人間に汚されてしまいました。王が触れるようなものではありません。……っ?」
「構わんさ」
再び指が絡む。
エリスの――いや、エーレンバールの紅い瞳が従者の青い瞳を真っ直ぐに見つめる。
そこに魔力は無く、純粋な熱の視線がシフォネに注がれた。
「人に汚された程度がなんだ? 貴様の身は余が染め変える。今宵より永遠に、な」
そうして二人は寝台にもつれ込む。
再起の魔王と生きる目的をふたたび見出した魔族の女。
二人が契りを結ぶ、蜜の時間が静かに息づいた。