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003. エリス・リンドブルーム嬢


 魔王は黙々と野山を下っていた。

 その姿はあけっぴろげな裸ではなく、ヘカトンケイルに潰された人間の遺体から剥いだブカブカのシャツに袖を通し、男物の下着を履いた、てんでチグハグな格好。靴は無く、裸足のままでぺたぺたと山道を歩いている。

 

 剣ひとつも携帯していない、いかにも脆弱な人間がひとりで居る。

 魔獣からしてみれば極上の獲物だ。

 彼らは無警戒な柔らかな肉を目にするやに舌舐めずりをし、興奮に息を荒げて飛びかかっていく。が、ひどく不機嫌なエーレンバールがちらりと視線を向けた端から声も上げずに絶命する。

 ある者は灰と化し、ある者は石化し、ある者は心臓を潰される。

 

 魔王が歩いた道にはいまや十や二十ではきかない魔獣の亡骸が点々と打ち捨てられていた。

 

 そんな殺戮者――エーレンバールが眉根をひそめ、舌打ちとともに吼える。

 

「ええい、行けども行けども森ではないか! 貴様! 本当に方角は合っているのだろうな!?」


 猛々しく言う魔王のすぐ後ろに青白い影が浮かんでいた。

 それは人の形をし、足先を宙に浮かせて漂う、いわゆる霊魂である。

 

 彼の顔は悲しみからかひどく歪んでいたがそれも仕方のない話で。

 なにせ穏やかに天へと召されようとしていた時に目ざといエーレンバールの魔手に囚われ、あれよこれよと呪いの類で現世に縛り付けられ、道先の案内人を(無理矢理に)命じられたというのだから、死者の嘆きも極まろうというものだった。

 

「黙りこくっていないでしっかりと答えろ。その口は何のためにあると思っているのだ? 恋人に愛をささやく為か? 違う! 余に道を示すためだろうが!」


 霊は死した以上、生者とは言葉を交わせない。

 当然エーレンバールは仕組みを熟知している。が、その上で無茶を言う暴王の言葉に霊魂はさらに打ちのめされ、ただ青ざめた顏を上下にこくこくと振り、意思表示をする。

 一刻も早く天の迎えが来ることを、彼は静かに願っていた。

 

 背後に血河を、顏に苛立ちを。

 嘆きの死霊がさめざめとした面持ちで示す先に進むこと小一時間。

 切り立った崖に辿り着き、地平まで広がる平原のうえに中規模の街があるのが目に映った。

 

 石の壁にレンガ造りの屋根。煙突がせっせと吐き出す煙は人の生活の匂い。

 

「ようやく人里に辿り着いたか。案内ご苦労だった。では死ね」


 振り返りもせずにエーレンバールは彼なりの言葉で労い、指先をぱちりと鳴らす。そうして死霊は魂を燃やし尽くされ、天に召されることなく消失した。

 

 

 街へと下る道を見据えたエーレンバール。と、サイズ違いのシャツを着たその身体へと呼びかける人間の集団が道の先に現れた。

 

エリスさま(・・・・・)ーーっ!」


 先頭の人物が慌てふためいた顏をして、誰よりも早くにエーレンバールのもとへと駆け走る。その速さはまさに矢のようだ。

 銀の髪に陶器じみた白い肌をした美形の女。彼女は浮浪者もかくやの格好で立つエーレンバールを見るやに蒼白な顔をして、

 

エリスさま(・・・・・)っ! まさか! 乱暴を振るわれたのですか!? こんな衣服しか与えられないとは、ああ、なんてことを……!」

「いや、余は……」


 エリスとは?

 王の名を間違える女の態度に、エーレンバールの片眉がぴくりと上がる。

 

 そう言う彼女の出で立ちも随分なものだった。ブラウスは煤の汚れがあちこちに付き、スカートは継ぎ接ぎだらけで元の部分が分からない有様だ。

 顔立ちこそ貴人のそれだというのに、どうして彼女がこのような……使用人の服を着ているのか? エーレンバールの胸に浮かんだ疑問は次の瞬間に氷解する。

 

「お迎えにあがりましたぞ、エリス様! どけっ、魔族が! お嬢様が汚れでもしたらどうする!」

「った……っ……すみません……」


 追いついた男が女を押し退け、そのうえ平手で腕をはたく。

 女は抵抗もせず、悔しさに唇を噛むでもなく、腹の前で両手を重ねると恭しく頭を下げると「申し訳ありません」と静かに言った。

 

 立場を理解してしまった者の顏だ。エーレンバールに見せた心配の様子はどこにも無い。今の彼女に感情の起伏は、文字通りに一切無かった。何もかもが消え失せ、人形のように変わってしまった。

 

「散歩に出たきりお帰りにならないとは! 我々従者一同、心より心配いたしましたぞ! 当主様、それに兄様と姉様も胸を痛めておりました!」

「貴様らは一体……む、そうか。そういうことか。フハッ……! ハハ!」


 話の筋をエーレンバールは理解した。

 この女の肉体は彼らが仕える家の一員らしい。

 名はエリス。ファミリーネームは不明。

 

 従者の一団はエリス嬢の捜索に山へと繰り出し、下山途中の彼女――中身は世を揺るがす大魔王だが――と遭遇したという話の流れだろう。

 

 人里を目指していたエーレンバールにとっては僥倖だった。彼は右腕を突き出し、思い思いの顏でこちらを見る従者らへ高らかに命じる。

 

「いかにも! 余はエリスである(・・・・・・・・)! 帰り道を少々失念してしまっていてな、すまんが道中の案内を頼むぞ、人間ども!」


 空気が停止し、ややあって従者らが互いの顏を見合わせた。

 そうして当人を前にして堂々と議論を交わす。

 

 なんと乱暴な口をきくのだろうか、エリス様は正気を失った、乱暴がひどかったのだろう、あるいは恐ろしいものを見たか、思い思いの言葉をあけっぴろげに言う従者たち。

 

「光の柱だ」と誰かが言う。

「さっきの光の柱! あれがエリス様をおかしくしちまったに違いねえ!」

「おお、きっとそうだ。あれは凄かったからなあ。エリス様もご覧になったでしょう?」

「『ご覧になったか』、だと? フッハ! 馬鹿なことを言うでない!」


 エーレンバールが両手を腰に添え、ふんぞり返って得意げに言う。


「エ、エリス様……?」

「光の柱を放ったのはこの余に他ならぬわ! 貴様らでも分かるような、実にすばらしい力の輝きだったろう? だがな、あの程度で驚嘆してもらっては困るぞ。余の魔力の深奥は底知れぬほどに深いのだからな。先の魔力放出など、復活に際しての景気づけの祝砲に過ぎ……」


 気付けば従者らの目つきがひどく悪い。

 仕えるべき者に向けるべき目ではなく、罪を犯した犯罪者に向けるような侮蔑、あるいは容疑者に向ける不信の目がエーレンバールへと注がれていた。


 無表情を顔に貼りつけていた女までもが目を丸くし、こちらをじっと見つめている。

 

「悪魔憑きか……?」


 誰かがぽつりと言った。 

 流石のエーレンバールも状況を察し、口元に手を添えるとわざとらしく咳込み、

 

「ごほっ……見た。確かに見た。そのせいで調子が悪いのだ。早いところ余を家まで連れて行くがよい」


 本来のエリス嬢を知る人物であれば『彼女は絶対にそんな口調で喋らない』と誰もが思うような口を利き、自分たちでは手に余る事態だと判断をした従者一団は、演技下手なエーレンバールを連れて下山し、屋敷を目指した。


 いの一番に駆け寄った名も知らぬ女――〝魔族〟と蔑まれた女は一言も口を利かず、ただ顏を伏せて黙々と最後をついて歩く。

 

………………

…………

……


 当主の男――オッシマン・リンドブルームは実にありふれた人間らしい人間だった。

 金銭を好み、虚勢を張り、権力の維持に熱を上げる男。彼はでっぷりとした体で女の身のエーレンバールを抱きしめ、

 

「エェリス! よくぞ戻った、父に心配を掛けるとは……お前という娘はなんという親不孝な娘だ! 亡き母が知れば嘆き悲しむに違いない! これよりはこの父が偉大な愛でお前を満たしてやろう!」


 芝居がかった声で豚が――この身体(エリス)の父が言う。

 彼の後ろには若い男女が並び立ち、にやついた目をエーレンバールへと向けていた。当主の合図を受けると二人もまた歩み寄り、エーレンバールの白い手を取ると感情豊かを装い、世にありふれた心配の言葉を口にする。

 

「心から心配したぞ」

「妹を無くしてしまっていたら、私たちはきっと立ち直れなかった」

「お前の帰りを皆で祝おう」

「兄妹の絆と愛は永遠に」


 魔王が内心でつばを吐く。あからさまな虚言。唾棄すべき人間だ。

 嘘偽りを並び立てることに一体どんな意味があるというのだ?


 いっそのこと、言葉の裏に隠した『お前など愛していない。戻ってこなくて良かったのに』という欲に満ちた本音を向けられた方が、互いに楽だろうに。

 体裁か、見栄か、あるいは両者か。

 エーレンバールは紅い瞳で二人を見たまま、ただ一言も答えなかった。

 



 ややあって従者の一団が立ち去り、「仕事だ」と言い残して当主が自室へと下がった後のこと。

 姉を名乗る女――名をアリアナという――がとうとう本性を露わにし、エーレンバールの期待に応えた。

 

 睨むように視線を逸らさないエーレンバール(いもうと)の頬をアリアナが平手で打つ。

 それは素早く、慣れた手の運び。常日頃において繰り返された動作のひとつだった。

 

 顏をやや上向けたアリアナは妹へと侮蔑の視線を注ぐ。

 お前の上位者は私だ、と信じ切った愚者は言う。

 

 かつての妹は既に無く、忌まわしき魔王が相手だとも知らずに。

 

「あんた、自殺しに山へ入ったんじゃなかったの? 思い出の泉で死ぬつもりだったんでしょ? なのに生きて戻るなんて。屋敷にあんたみたいな陰気くさいのが居ると気が滅入るのよ。ああ、臭い。あんた、本当は死んでるんじゃないの? ハハハ! そうかもね。血色悪い顏に一言も口をきかないんだから、死体と一緒じゃない! ハハ!」


 ああ、これだ。

 これを待っていた。

 

 心の内でエーレンバールが声をあげて笑う。口元をにやけさせないように取り繕うのがここまで大変だとは。

 いいや、これは無理だ。どうしたって口が緩む。


「――貴様には今の顏の方がよく似合っているぞ、女」


 八重歯をちろと覗かせ、エーレンバールがやけに嬉しそうに言う。

 

「は……?」

「言われてみれば確かに臭う。悪辣な(人間)の臭いだな。数は3つ。我が父と……そうか、貴様ら二人だな? なるほど、よくよく見れば人とは思えぬ醜悪な面だ。これは正視に耐えがたい……。目が腐りそうだ。失礼するよ、さらばだ。姉上(・・)


 アリアナの顏が怒りに赤らむ。こめかみには青筋が浮かび、歯をむき出しにして吼えんとする顏は獣のそれだ。


「な、な、な……! な! エェエリスッ! 姉に向かってなんって――」

「――フハッ。その顏、本当に実に良いな」


 閉じた扉の隙間より姉の絶叫が漏れ聞こえ、続けてドアノブをひねる音。

 力の限りにこじ開けようとするが、魔力で閉じられた扉を物理で開くことは決して出来ない。

 

『エリスッ! 行くな! 行くんじゃないわよ! 開けろッ!』

 

 自身を呼ぶ声に耳を貸さず、さて自室に戻ろうかと魔王は思う。

 しかし道がまるで分からない。

 

「……ふむ。まあ、散策もたまには良いだろう。あの女も見つかるかも知れん」

 

 そうして気の向くままにリンドブルームの屋敷を彷徨い歩く。

 

 過去現在において最大の建築物で知られる魔王城で時を過ごした彼にとってみれば、片田舎の名家の屋敷は犬小屋よりも小さく思えるものだったが、これはこれで見どころがあった。

 

 先祖の肖像画が並ぶ廊下。魔獣の首の剥製が並ぶ応接間。使用人が掃除に励む食堂。あらゆるゴミを焼き尽くす焼却炉。それから下水道。……何よりも汚れたその場所に彼女は居た。


「貴様、ここに居たか」

「エリス様? なぜあなたがこちらに?」


 呼びかけると女がきょとんとした顏をこちらへ向けた。

 薄汚れた頭巾を頭にかぶり、穴の開いたマスクで口元を覆う女。

 エーレンバールを誰よりも早くに見つけ、誰よりも先に駆け付けた女。

 

 他の使用人に〝魔族〟と蔑まれ、あからさまに下に見られていたあの女だ。

 

 エーレンバールは彼女と話をしてみたいと考えていた。だがどう言って連れ出したものか? 適当な文句を数秒考え、

 

「貴様が欲しい」、と素直に言った。


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