親であるということは、義務でなければ権利でもない(スチュアート・ゴードン『ドールズ』)
昔のことを、子供だったころのことをどれだけ覚えているだろうか。
年齢にもよるが、鮮明に思い出せるという人は少ないだろうと思う。ほとんど思い出せない、という人もいるかもしれない。「大人でいる」というのは疲れる。
今回は、そんなお疲れな人に童心に戻って楽しんでもらいたいメルヘンでホラーな映画。スチュアート・ゴードン監督による『ドールズ』。
まずはあらすじ。
英国の田舎を車で移動していたネグレクト気味な父デヴィッド・バウアー、意地悪な継母ローズマリー、実の母と暮らしたい娘ジュディの三人家族は、嵐が近づいているというのにぬかるみにはまり車が立ち往生してしまう。
近くの古い屋敷に住んでいたのは、ガブリエル・ハートウィック、ヒラリーという名の親切な老夫婦。快く三人を一晩泊めてくれるという。ジュディが「友達のクマのぬいぐるみを失くしてしまった(実際は母に捨てられた)」と聞けば、新しい友達としてパンチという名の人形を与えた。
暖かい食事を三人がごちそうになっていると、さらに三名の避難者が屋敷を訪れる。英国人ヒッチハイカーのイザベル、イニッド、そして彼女らを拾った温厚なアメリカ人セールスマンのラルフ。
ジュディとラルフは、人形師だったガブリエル氏の工房に招かれる。子供であるジュディはもちろん、父を早くに失ったラルフも「子供の頃はこんな人形と遊んだな」と童心に帰り楽しんだ。
一方、イザベルは屋敷のものを盗もうと企んでいた。
高価そうなものの物色中、時計のベルが勝手に鳴りだす。
一度、二度、三度。ベルが鳴る度にイザベルは止めたが、物色をやめなかった。これまでのベルは警告だったのか。四度目のベルが鳴ると、彼女は動き出した人形たちに引きずられ、連れ去られてしまう。
ジュディはその現場を目撃していたが、普段から夢見がちな子供だった彼女のことを両親は信じてくれない。しかし、ラルフだけはジュディのスリッパに付いた血液を見て彼女を信じた。
床の血痕をたどり屋根裏に向かうが、彼らは何も見つけられない。それどころか「ラルフがイザベルを殺害した」とバウアー夫妻、イニッドに誤解されてしまう。
ラルフは屋敷の主人であるガブリエル氏に話をするが、なぜか「血痕は私のこぼした塗料だ」と言う。また、ガブリエル氏はこうも言う。
「もっと童心に帰ると良い」
この屋敷に存在する無数の人形は、全て生きた人形だった。
彼らは「童心を持たないもの」を攻撃し、殺害してしまう。
ローズマリーとイニッドは、本格的に活動を始めた人形の餌食となった。一方ローズマリーの死体を確認したデヴィッドは、「これはラルフの仕業だ」と考えラルフを殺害しようとする。
『死霊のしたたり』『フロム・ビヨンド』のスチュアート・ゴードン、ブライアン・ユズナのコンビにしてはおとなしい一作。『チャイルド・プレイ』や『パペットマスター』以前に公開されたという点でも、影響が大きい割には知名度が低い作品。
生き人形を作る、不思議な力を持ったハートウィック夫妻。彼らは子供と、子供と共にある人形という存在に強いこだわりを持っている。
あらすじにも書いた通り、ハートウィック夫妻の人形たちは人を「童心の有無」で選別する。
屋敷を訪れた人々の中で、ラルフだけは童心を忘れてはいなかった。
ラルフは子供ではないから、ジュディと全く同じ目線に立つことはできない。「大人である」ということと「子供である」ということは両立できないように。
「夢を見られる」こととと「夢しか見えない」ことが同じではないように、「子供だった頃のことを忘れてしまい、子供の目線を想像できない」のが大人の条件ではない、はずだ。
子供の見る夢を否定し、破壊する。あるいはそれを利用して利益を得る。
それが大人のやることか。
今回のタイトル「親であるということは、義務でなければ権利でもない」としたが、ガブリエル氏は作中で「では何か」という答えを提示している。
「親であるという事は特典で、権利じゃない」
義務は論外として、権利という表現にも「行使するかしないかを選べる」ような違和感を感じる。親であるという事は、大人でいるということの「特典」であるとするのが、違和感がない。ガブリエル氏のこの言葉を聞くまでは、自分の言葉ではうまく表現できなかった。
ハートウィック夫妻と人形たちは、不思議で恐ろしい存在であると同時にとぼけたところのあるユーモラスな存在でもある。グロテスクな部分が無いこともないが、作品全体の印象は怖い部分や残酷なところも含めてまさに童話。日本で言うなら平山秀幸監督の『学校の怪談』が近い。
良い作品だと思うが、私が知る限り視聴手段が少ない。リマスター版のブルーレイが出ているくらいか。最近は少なくなっているが、レンタルで見かけた等、機会があれば手に取ってみてもらいたい。




