表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

心理学批判、あるいはエーリッヒ・フロム「破壊」に関する乱雑な覚書

破壊 人間性の解剖 上下巻 エーリッヒ・フロム 作田啓一、佐野哲郎共訳


心理学実験に関する批判


フロムとは立場が「あまりにも離れている」が、スキナーへの批判としてチョムスキー(Noam Chomsky)とK.MacCorquodaleが紹介されている。

Chomsky, N. 1959. Review of Verbal Behavior by B. F. Skinner. Language. 35:26-58

Chomsky, N. 1971. "The Case Against B. F. Skinner." The Nwe York Review of Books. (30 Dec.)

MacCorquodale, K. 1970. On Chomsky's Review of Verbal Behavior by B. F. Skinner. Jour. of the Exp. Anal. of Behavior. 13(1):83-99



では、ここから、フロム自身の批判の要約を開始する。


61-63ページ。

店員のほほえみと、友だちが会えてうれしいときにうかべるほほえみを、新行動主義は区別することができない。

さらに新行動主義は、迫害者や拷問者となるべく条件づけられたものたちが精神病になる場合が少なくないことを説明できない。また、最も善く適応したものたちの多くがしばしばひどく不幸であったり悩んだり、ノイローゼにかかっているのはどうしてなのか。

「すべての条件づけが反対の方向に働いているにもかかわらず、彼らの理性の力、良心、あるいは愛によって反抗するのを、正の強化はなぜ防げないのか。」

「究極のところ、<b>新行動主義の基礎はブルジョア的体験の本質、すなわち人間の他のすべての情熱よりも、自己中心主義と私欲が優先するというところにある。</b>(太字は本では傍点)」


64ページ。<b>

もし、自分自身でありたいと主張すれば、警察国家では自由あるいは生命があぶなくなる。ある種の民主主義国家においては昇進や職があぶなくなり、フロムがいうには、最も重要なこととして、誰ともコミュニケーションを絶たれた孤立感を味わう。

人々は、無意識の不快感や不安を感じている。理想が社会的現実とのつながりを絶たれていることを感じる。</b>(強調筆者)

「要するに、スキナーの理論は新しい科学的ヒューマニズムのごとく装いをこらした、日和見主義の心理学なのである。」【つまり、環境に対して無力だということで、何も社会に対してする必要がないとおもわせてくれるということ。】


71ページ

「心理学は自然科学の方法をまねることによって体裁をととのえようとしたように思えるが、それは五十年前の自然科学のことであって、最も進歩した自然科学において用いられている<科学的>方法という意味ではない。

【1955年の、J. Robert Oppenheimerの演説(Address at the 63rd Annual Meeting of the American Psych. Assoc. 4 Sept.)を参照、と注にはある。その他のすぐれた自然科学者の同様の論述も参照とあるので、他にも同じような批判はあるのかもしれない。】


80ページ

ミルグラムの服従実験への反対意見。

「私はこの実験によって、現実生活のたいていの状況に関して、何らかの結論を下しうるとは思わない」

1.ミルグラムは服従すべき権威であっただけでなく、科学の代表者で、アメリカの高等教育の最も名高い器官の一つの代表者でもあった。科学は現代社会で高い価値を置かれているので、ふつう示唆されているほど服従が驚きであるとは思われないこと。

むしろ、この集団の三十五パーセントが服従をある点で拒否したことが驚くべきことで、心強いことでもあること。

ミルグラムは、権威への服従と他人を傷つけるなという行動の型の板挟みになっていると想像しているが、現実世界では他人を傷つけてでも自分の利益を求めなければならないと教わるのではないか?

残酷な行動に対して、行動はしたものの、憤慨や恐怖した人間がいたことが最も重要な発見に思う。


よって、「ミルグラムの研究の主要な結果は、彼が重点を置いていないこと、つまり大多数の被験者に良心があり、服従が彼らを良心に反して行動させたときに、彼らが苦痛を覚えたということであるように思われる。」


83ページ

ジンバルド(ジンバードと作中では表記。ジンバルドーとも日本では呼ばれる)の実験への反対意見

この実験の最初の報告は、短い論文(Zimbardo,P. 1972. "Pathology of Imprisonment." Trans-Action. 9 (Apr.):4-8. )で発表されたが、これはフロムへのジンバードからの手紙にあるように、刑務所の改革に関する国会小委員会に、高等で報告されたものの抜粋である。これは短いものなので、ジンバードは公正な批判の根拠になるとは考えていないし、フロムもそれに従うことにしたが、気が進まない。その理由は、この論文と、のちの論文(印刷中だったがジンバードの厚意によりフロムの手に入った、Haney, C; Babjsm C; and Zimbardo,P. "Interpersonal Dynamics in a Simulated Prison." Int. Jour. of Criminology and Penology. 1.)の間には、いくらかの食い違いがあって、それを指摘したかったからだ。


上のような不満はあるものの、ジンバードの意向にしたがうため、最初の報告に関して、二つの点をフロムは簡単に言及する。

1)看守の態度

数字の不正確さ。短い論文では、「サディスティックな看守は三分の一」で、残りは厳しいが公平、親切で好意的に分けられている。これは、あとの宝光社に述べられた、受動的で強圧的統制を及ぼすことはまれ、というのとはずいぶん違って性格付けだ。

つまり、数字にも、描写にも、揺れが見られ、実際に何が起こったのか、解釈の余地が十分にあるように思われる、ということだろう。

また、三分の二がサディスティックにふるまわなかったのなら、そう簡単にサディストに人を変えることはできないということを示しているように思われる。

2)著者たちの中心的命題

被験者の中にはサディスティックあるいはマゾヒスティックな行動への傾向がないことを示した、つまり心理試験でそのような結果はでなかったといっているが、無意識のことを考えると、この結果は疑わしい。(この指摘は、顕在化された行動、意識のみを扱う心理学の潮流への批判でもあるだろう)また、平均的な人々の中にいる無意識的なサディストの割合はゼロではないことからすると、平均的な被験者を選んだのにサディストがゼロというのはおかしいのではないか。


囚人たちはこれらがすべて実験だと知っていたのか。それは「知る」という言葉の意味によっても違ってくるだろう。しかし、意図的に混乱させられて何が何だかわからない場合に、彼らの思考過程に及ぼされる結果かどういうものになるかによっても違ってくるだろう。

現実と夢とがごっちゃになったような環境におかれたときの行動が、現実の人間の行動に対してどれほどのことを理解する助けになるのか、ということだと思う。102-105ページあたりを参照のこと。「たとえば道徳的抑制や良心の反作用の押印がそれであって、それらは全状況が現実であるという感じがしなければ起こらないのである」。

また、住居で不意に本物の警察(!)から逮捕されたのだが、これが合法的かどうかにもフロムは疑問を呈している。



ブルーノ・ベッテルハイムの文章が引用されているが、この人物は問題の多い人物らしいとウィキペディアに書いてあった……と書くととたんに情報の信頼性がさがる気がする。でも、いちおうネットで見つけたこういう話(http://asdnews.seesaa.net/article/2580812.html)もあり、強制収容所に関する話は、割り引いて聞いたほうがいいかもしれない。



環境主義(人間は環境で決まる)と本能主義(人間は遺伝子で決まる)との政治的社会的背景

環境主義理論は、風景的特権に反抗した十八世紀の中産階級の政治的革命の精神。封建制度は自然の秩序であるとされていたので、自然の秩序に対抗する中、生まれつきのもので人は決まらないという考えに傾いていった。

本能主義は十九世紀資本主義、自由競争の思想が力を持ったことで、競争的な遺伝子・進化の解釈が人気を得ることとなった。



第二編は必見。

人類学のところが、非常に面白い。コリン・ターンブルや、チャタル・ヒュユク(チャタル・ヒュユークと本では表記)についての記述がわくわくした。



214ページ

「社会のイデオロギーや利害にかかわる場合、たいてい客観性は偏見に譲歩する。政治的、経済的目的のために人間の生命を破壊する用意をほとんど無限に持っている現代社会が、そのような権利に関する基本的かつ人間的な疑問に対して自らを弁明する最上の根拠は、破壊性と残酷性は私たちの社会体制が生み出したものではなく、人間の生まれつきの性質だという仮定なのである。」



314ページ

自由への欲求は人間に本源的に備わっていることを暗示する証拠は十分ある。勝利の可能性が少しでもあれば、しばしばまったくない場合でも、圧制者に対して人類は戦ってきた。


316ページ

白人は権力を握ってはいるが、その白人でさえ彼らの体制に強いられて、それほどひどくあからさまな仕方ではないにせよ、自分たちの自由を放棄してきたのである。

おそらく彼らが今日自由のために戦う人びとを憎む気持ちは、自らなした放棄を思い起こさせられるがゆえにいっそう強められるのであろう。


333ページ

戦争が人間の生まれつきの破壊性によって起こるというのは歴史を見れば明らかに不合理。過去から現在に至るまでみな非常に現実的であると自分たちが考える理由で戦争を計画した。ペロポネソス戦争に関するトゥキディデスの記述が非常に適切な例として注で挙げられている。

358ページ

人間の本質―――失われた本能と自意識の二分法に根差している矛盾――世界から切り離されている、でもつながりたい。


372ページ

effective(有能な)―――"to effect"の本来の意味は「成し遂げる」。能動性。


408ページ

リヴィングストン、相互扶助論


414-415ページ

「なぜ社会科学者たちが、人間の成長のための最適度の社会的条件を第一の関心事としなかったという理由は、少数の顕著な例外は別として、社会科学者たちは本質的に現存の社会体制の弁護者であって、批判者ではないという悲しむべき事実を認識すれば、用意に見窮めのつくことである。こういうことがありうるのは、自然科学とは違って、彼らの得る成果は社会が機能するためにほとんど価値を持たないからである。それどころか、誤った成果や表面的な取扱いはイデオロギー的な<接合剤>として役立ち、一方真実はいつものごとく、現状への脅威となる。(注 S・アンドレスキー、Andreski, S. 1972. Social Science as Sorcery. London: A. Deutsch.)そのうえ、問題を十分に研究する仕事は、「人びとの求めるものは、彼らにとって良いものである」という臆断によって、いっそうむつかしくなってしまった。人びとの欲求はしばしば彼らにとって有害であるという事実、そして欲求自体が機能障害または暗示の、あるいはその両方の兆候でありうるという事実は見落とされた。たとえば今日では、たとえ多くの人が麻薬の使用を望んでも、麻薬の常用は望ましくないということは、すべての人が知っている。私たちの全経済体制が、欲求を生み出してそれを商品で満足させることによって利益をあげるということにかかっているので、欲求の非合理性の批判的な分析が人気を得ることはほとんど期待できない。


419ページ

logosのラテン語訳が、ratio


420-421ページ

生命を阻害する情熱も、生命を増進する情熱と同じように、人間の存在的欲求への答えであって、どちらも深く人間的であることを、繰り返しておく必要がある。前者は後者を実現する現実的な条件がない時に、必然的に発達する。破壊者としての人間は、破壊性が開くであるがゆえに、悪人と呼ばれるかもしれないが、彼は人間的なのである。

(422ページにまたがって、ユダヤの伝説にある、三十六人の正義の人たち、いわゆる三十六人の義人について書かれてある。ぼくはこの伝説がかなり好きである)


454ページ

タルムードは、他人の目の前で人をはずかしめた者は、彼を殺した者と見なされるべきであると言っている。


571-576ページ

狂気あるいは希望について

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ