消去法
ふと、我に返った。
自分はダレなのだろう。何者なのだろう。何をしていたのだろう。
思い出せない。すべてが思い出せない。何もかも。何も。
自分は誰なのだろうか?
自分はどんな家庭を持っていたのだろうか。
いや、その前に、そもそも自分は男なのだろうか? 女なのだろうか?
前方に視線を巡らせて探してみるも、鏡の代わりになりそうなものは見つからない。遠くに窓のようなものがあるが、残念ながら少し高すぎて、鏡の代わりにはなりそうにない。
視線を下げて、自分の身体を観察する。飾り気のない薄汚れた衣服。色は薄緑色。材質は丈夫さだけを追求したような、おおよそオシャレとは無縁のようなもの。作業着のようだ。
おおよそ女性のものとは思えない。
男だろうな。きっと。
そうだ、携帯だ。携帯電話を見ればなにかわかるかもしれない。
俺はズボンのポケット、つづいてベルト、胸ポケットをまさぐ……ろうとした。しかし身体が自由に動かない。腕が、動かない。
肩が突っ張ったように固まり、腕が動かせない。
少し不安になった。怪我でもしているのだろうか……?
しかし、だ。
いま確かに俺は、ごく自然にズボンの右と胸ポケットを確認しようとした。そう「いつもしていたかのように」、だ。
携帯は持っていたようだ。しかし、いま持っているかどうかはわからない。
携帯さえ使えれば助けも呼べるのに。
少なくとも俺を知っている誰かに、なにが起きたのかを聞くこともできるのに。
しかし現実として、いま電話には手が届かない。
持っているかどうかもわからない。
何故かも思い出せない。
そして、腕も動かない。
俺は懸命に記憶を探ってみた。
何かないだろうか。何かヒントになるようなものは。
ふいに、なにかが脳裏によぎった。
女の顔。
よく知った顔。いや、「よく知っていた」というべきか?
白い肌。ほんのりと赤い頬。
意志の強そうな眉に、少し挑発的な大きな目。
いつもとがり気味の唇。
毛先だけに少しウェーブがかかった髪は、肩ほどまである。
深紫のベレー帽がお気に入り。
俺の右に、そう、俺の右肩の少し下あたりにいつもその顔があった。
愛美だ。
また記憶の一部が脳裏によぎる。まるで映画のフラッシュバックのように。
町を歩く愛美。愛美と手をつないで歩く男。
愛美より頭1つほど高い背丈。
白とグレーのチェックのセーター。
短く刈って、後ろになでつけた髪。遠めからもわかるほどの無精ヒゲ。
しかし、顔ははっきりと見えない。
これが俺か?
二人は駅前の大通りを歩く。
稲荷神社の前を通りすぎ、ドラッグストアの角を曲がる。
人通りはまばらで、傘を差してママチャリに乗る買い物客もいる。
そうだ、これは近所の駅だ。この角をまがるとチェーンのイタリアンレストランがあることを俺は知っている。
愛美も良く行った。俺はシーフードリゾットを、彼女はカルボナーラを頼むのが好きだった。
レストランに行き、そのあと横のカラオケに行くのが、二人のデートの常だった。
カラオケ。
そう思った瞬間、まだ何かが脳裏に走る。映像の破片。
マイクを握り、楽しそうに熱唱している男。不精ヒゲ。
笑っている愛美。
テーブルのウーロン茶。
しかし、どうしても歌っていた歌は思い出せない。
ふと。
足が段差にあたり、躓きそうになった。
現実に還る。
そうだ、ここはどこなのだろう。なぜこんなところに居るのだろう。
なぜ、歩いているのだろう。
愛美はどこだ?
そしてなぜ、こんなにも薄ら寒い。
愛美だ。愛美のことを思い出せば、すべて思い出せる気がする。
俺は必死で、彼女の顔を思い出そうとした。彼女の顔を、一緒にいった場所を、髪の匂いを。 イタリアンレストランを出て、カラオケに行く。いつものコース。
木製のドアを開き、緑色に赤の縁がついた足拭きマットの上を歩いて外に出ると、すぐ隣ににぎやかなゲームセンターがある。カラオケ屋はその3階なので、ゲームセンターの前を通りすぎてから、非常階段のようならせん状の階段を上がる。
カラオケでは、いつも彼女が先に歌い、俺はインターホンでウーロン茶を2杯注文する。
いつもの、いつものデートコース。
そしてその後は……?
そうだ。家に帰る。
家に、帰るんだ。デートのあとは家に帰る。
二人一緒にだ。
俺たちは一緒に暮らしているんだ。
思い出した。俺は愛美が好きだった。
本当に本当に好きだった。
愛美を愛していた。
目が覚めると、左に愛美が寝ている。それが幸せだった。
愛美の髪をなでるのが、愛美に髪をなでてもらうのが好きだった。
脳裏に、結婚式の映像がよぎる。
上司からのはなむけの言葉、恩師のスピーチ、悪友たちが悪ノリしたクイズ大会。
横で笑っている愛美。冷や汗が頬を伝う俺。
花嫁の手紙。愛美の両親も泣いている。
そして。
そして。
愛美の裸体を思い出す。
しっとりとした身体の感触。
上気し、赤く染まった頬。乱れた髪。
愛美の、声。
絡み合う、白い肌、褐色の腕、長い髪、短いヒゲ、とろけるような声、うめき声。
声、互いの声。
温泉旅行。
浴衣でポーズをとる愛美。
スーパーに買い物。
たまねぎの山を崩して慌てる愛美。
湯豆腐で晩酌。
電子レンジから熱燗を出そうとして、やけどしそうになる愛美。
雪山でスキー。
土手につっこみ、ヒゲを雪だらけにする男。それを指差して笑う会見。
そして。
そして。
愛美の、血だらけになった、白いセーター。
真っ赤なシミのセーター。
動かなくなった愛美。
その亡骸にすがりつき、セーターに顔を押し付けて、泣いている男。
ヒゲが血に濡れ、てらりと光る。
泣き腫らし、真っ赤になった目。
男の顔が見える。
眉が濃く、男らしい顔立ち。
柔和そうな目。
真っ赤な目。
ガタンッ、と左側から少し大きめの音がした。
家具でも倒したかのような音。
振り向くと、そこには大きな壁。ガラスの壁。
ガラスの後ろは真っ暗で、向こう側は何も見えない。
そこに写っているのは……俺だ。
長く伸びた髪、無精ヒゲ。
中肉中背で、取り立てて特徴もない顔。
少し切れ長だが、おとなしそうな顔つき。
それは疲れきった顔で、困惑したようにじっと俺を見つめていた。
……ちがう!
これは、愛美の横にいた男の顔ではない!
ヒゲ。そうヒゲは同じだ。
しかし他のパーツがまるっきり違う!
ガラスに映った「俺」の顔に、更なる困惑の色が浮かぶ。
これが俺なら、あのヒゲの男は誰だ!?
愛美は、愛美は本当はだれなんだ??
そしてあのヒゲの男は……そして俺は誰なんだ!?
俺は妄想でも見ていたのか??
映画に、ドラマに、果ては見知らぬ女性に恋をし、ストーカーでもしていたというのか?
ちがう!
俺は、俺は……俺はたしかに愛美を愛していた!
そして、愛美も俺を愛してくれていた。
二人が積み重ねた日々、幾度ものデート。
その感情と温度がつまった記憶は、けっして勘違いなんかではない!
ならば……ヒゲの男こそが愛美の旦那で、俺は不倫をしていたのか?
ちがう!
愛美は……確かに俺の妻だった!
結婚式のとき、愛美の隣にいたのは俺だ!
スピーチをしていたのは俺の上司で、泣いていたのは俺のお袋だ!
白いセーターは俺が愛美に買ってやったものだ!
イタリアンレストランも、俺が初デートで愛美を連れていったところだ!
なぜ、なぜ愛美があそこに居たんだ!
なぜ愛美はあんなヤツの家に!
なぜ、俺は、あんなものを握って……!
そして、なぜ俺は愛美を!!!
暗闇の記憶の中で、
血塗られたセーターには、男の血も染みこんで、
駆けつけた近所の住人も、更なる刃の染みとなり、
そして、
首に縄がかけられ、
そして、俺は。
ホラーものを書くのが好きです。
ただ残酷なだけのもの、スプラッタ描写などで嫌悪感を出させるものではなく、文章とその背景だけで「恐怖」を感じていただけるようにがんばりたいです。
「恐怖」って、動物の原初からの感情ですよね。
文章だけで、読者の方の感情を揺さぶることができたら、文章書きとして本当に本望だと思います。