第7話 ブラックギルドからの引き抜き工作
第7話 ブラックギルドからの引き抜き工作
最近、『鋼鉄の牙』は妙に静かだった。
もちろん完全に平和ではない。ガルガは相変わらず大声だし、セリアはすぐ嫌味を言う。だが以前みたいな殴り合いは減った。
朝になると進捗管理ボードの前に人が集まり、依頼札を確認する。
「今日の採集誰だ?」
「第三班だな」
「回復薬の補充しとけよ」
「了解ー」
そんな会話が自然に飛ぶ。
誰かが水を飲み、誰かが休憩札を裏返す。
それは、かつての『鋼鉄の牙』では考えられない光景だった。
「……気持ち悪いくらい平和だな」
ガルガがぼそりと呟く。
「いいことだろ」
「いや、お前らが普通に会話してんのが怖ぇ」
「失礼ね」
セリアが睨む。
その横で、ケイは黙々と書類を整理していた。
羽ペンの音。
紙をめくる音。
窓から入る初夏の風が、インクと薬草の匂いを揺らしていく。
そこへ。
「失礼します」
黒服の男が入ってきた。
途端にロビーの空気が変わる。
高級な革靴。銀糸入りの外套。磨かれた指輪。
『黒狼の爪』の紋章。
「……なんの用だ」
ヴィクトリアが警戒する。
男は薄く笑った。
「本日は事務員のケイ様へご提案がありまして」
ロビーが静まる。
ガルガが眉をひそめた。
「提案?」
「ええ。ぜひ一度、お話を」
男の視線はケイへ向いていた。
ケイは帳簿から顔を上げる。
「業務中ですが」
「短時間で結構です」
「残業扱いになりますが」
「……は?」
「拘束時間が延長されますので」
黒服の男が一瞬固まる。
周囲の冒険者たちが吹き出した。
「また始まった」
「残業って言うなよ!」
だが男はすぐ笑顔を戻した。
「もちろん、相応の待遇は保証いたします」
「…………」
ケイは少し考えたあと、立ち上がる。
「では一時間以内でお願いします」
「助かります」
ヴィクトリアが慌てて袖を掴んだ。
「お、おいケイ」
「はい」
「行くのか」
「情報収集です」
「でもあいつら絶対ロクでもないぞ!」
「理解しています」
「なら――」
「なお」
ケイは静かに続けた。
「定時までには戻ります」
「そこなの!?」
夕方。
ケイが連れて行かれたのは、中央区の高級クラブだった。
磨かれた大理石の床。甘い香水。弦楽器の音色。酒の香りも『鋼鉄の牙』とは別世界みたいに上品だ。
ふかふかの椅子へ案内され、金色の酒が置かれる。
「ぜひ」
「勤務中ですので」
「……は?」
「アルコール摂取による判断力低下リスクがあります」
「いや少しくらい――」
「不要です」
男の笑顔が引きつる。
「……なるほど。噂通りですね」
「どのような噂でしょう」
「感情がない」
「あります」
「あるんですか」
「疲労と眠気は常に」
「そういう話ではなく」
男が咳払いをした。
「単刀直入に申し上げます。我々『黒狼の爪』へ来ませんか」
机に革袋が置かれる。
重い音。
金貨だ。
「現在の五倍はお支払いできます」
「ほう」
「専属秘書付き、個室完備。最高級待遇です」
「…………」
「あなたほどの人材が、なぜあんな崩壊寸前ギルドに?」
男は笑う。
「あなたがいれば、我々はさらに大きくなれる」
ケイは黙って資料を受け取った。
経営計画書。
収益予測。
人員配置。
ぱらり、と紙をめくる。
そして。
ケイの目が、初めて露骨に冷えた。
「……なるほど」
「ご理解いただけましたか?」
「はい」
ケイは静かに紙を置いた。
「非常に危険です」
「は?」
「有給消化率ゼロ」
「ゆ、有給?」
「休日出勤の概念なし」
「……」
「感情論による評価制度」
「それは仲間意識を重視した――」
「責任所在不明瞭」
「……」
「加えて長時間労働前提の人員設計」
ケイの声は淡々としていた。
だが、そこにははっきり拒絶があった。
「典型的ブラック組織です」
「ぶ、ブラック?」
「崩壊します」
男の顔が引きつる。
「……我々を侮辱しているのですか?」
「事実確認です」
「我々はこの街最大のギルドですよ!?」
「だから危険なのです」
ケイは静かに言った。
「規模が大きい組織ほど、疲弊が蓄積した時の崩壊が深刻になります」
「…………」
「あと」
ケイは書類の一枚を指差した。
「この収益予測、どんぶり勘定です」
「ど、どんぶり?」
「希望的観測が多すぎます」
「なっ……!」
「現場負荷を無視しています」
その瞬間だった。
ケイの脳裏に、前世の光景が蘇る。
会議室。
白い壁。
『いけます!』
『気合で乗り切りましょう!』
『現場が頑張れば!』
そして潰れていく人間たち。
吐き気がした。
心臓が嫌な音を立てる。
ケイは静かに立ち上がる。
「申し訳ありませんが」
男を見下ろした。
「こんな泥船に転職するメリットがありません」
「……っ」
「お引き取りを」
完全な拒絶だった。
男の顔から笑みが消える。
「……後悔しますよ」
「可能性はあります」
「なら――」
「ですが」
ケイは少しだけ目を細めた。
「少なくとも、あそこには休憩時間がありますので」
男は何も言えなかった。
夜風が吹く。
外へ出ると、街にはいつもの雑多な匂いが満ちていた。
焼いた肉。泥。煙。酒。
『鋼鉄の牙』の方角から、誰かの笑い声が聞こえる。
ケイは少しだけ足を止めた。
思い出す。
進捗ボードの前で騒ぐ冒険者たち。
休憩札。
喧嘩しながら報告書を書くガルガ。
眠そうに印を押すヴィクトリア。
以前ならありえなかった光景。
「……帰りますか」
その声は。
ほんの少しだけ柔らかかった。




