第四十四記録【レンズ越しの不良少年】
五月五日、土曜日。
ゴールデンウィークの終わりが、死神の足音のように近づいている。
午後一時。
九条邸、私の部屋。
遮光カーテンで閉ざされたこの空間は、俗世から切り離された暗黒要塞と化していた。
「あと三時間……! このイベント周回が終われば、私のGWに悔いなし……!」
私はPCモニターの光だけを頼りに、鬼の形相でキーボードを叩いていた。
服装はいつもと一緒だから割愛。髪は鳥の巣。
床にはコーラの空きペットボトルと、ポテチやらチョコの残骸が散乱している。
まさに廃人。
『あーあ』
ベッドの上で、明菜がゴロゴロしながらタロットカードをシャカシャカと混ぜている。
『なんでアタシ、こんなつまらない女に取り憑いたのかしらー。退屈で死にそう〜』
それは悪うございましたね! こちとらマジで忙しいの! 黙ってて!
『そうなのね……じゃあアタシは他のイケメンにとり憑きに行こうかしら……茉莉子さよーならー』
バイバーイ! 二度と帰ってくんなー!
ブブブッ。
スマホが鳴った。
画面には『雨宮 凪』の文字。
「……げっ。凪? 無視無視」
私は画面を伏せてプレイに戻った。
しかし。
ピロン♪ ピロン♪ ピロン♪
連続する通知音。
しつこい。なんだこれ。
私は渋々スマホを手に取った。
『おはようございます。今、玄関前にいます』
『社長から「まりちゃんを外に連れ出して光合成させてあげて」と業務命令を受けています』
『3分以内に降りてこないと、直之さんに上がらせてもらってマスターキー借りますよ?』
「ブラック企業かよ!!」
私は絶叫した。
直之が絡むと逃げ場はない。あいつは躊躇なくドアを蹴破ってくる。
私は涙目でチャットウィンドウを開いた。
【ネギ姉:ごめん! こんな大事な時に急用思い出した! マジごめん! 落ちる!】
メンバーたちの「ええええ!?」「ギルマスゥゥゥ!」という阿鼻叫喚を無視し、私は断腸の思いで電源を落とした。
「くそ……覚えてろよ凪……!」
私はブツブツと呪詛を吐きながら準備を始めた。
『あら、メイクはしないの? 乙女として終わってるわよ』
しない! もういい! 誰に見せる顔もない!
私は大きめの黒キャップを目深に被り、黒マスクを装着。
ダボッとしたグレーのパーカーのフードを被るという、完全な「不審者スタイル」で部屋を出た。
正門前。
そこには、可愛らしいクリーム色のスクーターに腰掛け、タバコをふかしている凪がいた。
イタリア映画に出てきそうな洒落たスクーターと、煙草。そのアンバランスさに、少し拍子抜けする。
「おはようございます、茉莉子さん。……ハハ、すごい格好」
凪はタバコを携帯灰皿にしまい、ニッコリと笑った。
「じゃあ、行きますか。後ろ、どうぞ」
「……どこ行くの」
「光合成ですよ」
都内の大型書店、芸術書コーナー。
今日の凪は、黒のライダースジャケットに黒のスキニーパンツ。
インナーは白Tシャツという、シンプルながらも尖ったスタイルだ。
髪もワックスで無造作にセットされている。
凪の私服……なんかいいな。完全にバンドマンか悪い男だけど、似合いすぎでしょ。
私はマスクの下で少し頬を緩めながら、彼について歩いた。
凪は、海外の風景写真集を手に取り、真剣な眼差しで見入っていた。
「……いいですね、この構図。光の入り方が絶妙だ」
「凪、本当にカメラ好きなんだね」
私が言うと、彼は顔を上げた。
「ええ。レンズ越しだと、世界が少しだけ綺麗に見えるから」
その横顔は、いつもの「完璧な秘書」ではなく、夢を追う少年のように見えた。
凪がパタンと写真集を閉じ、私に向き直った。
「夏休み、どうします?」
「は? 夏休み? まだ5月だよ? GWも終わってないのに」
「人気のリゾートは早く埋まります。……俺と旅行に行こうよ」
急な誘い。
そして、あまりに直球な。
「えっ、二人で? ……いやいや、無理でしょ。パパが許すわけないじゃん」
「案外あの人なら許してくれるんじゃないですかね?」
えぇ!そうだよ!あのタヌキなら許すだろ!それが私の目的なんだもん、たださぁーえぇぇ……いきなり海外?
凪が一歩近づき、マスク越しの私の顔を覗き込む。
彼の瞳には、逃がさないという強い光が宿っていた。
「写真撮るだけだからなんにもしないって」
「そ、そんなこと心配してるんじゃなくてさー」
「じゃあ、いいじゃん」
その強引さと熱量に押され、私は思わず後ずさった。
「う、うん……わかった。考える……」
書店の裏路地。
駐車場への近道として入ったその場所には、タバコの吸殻が散乱していた。
「あ? ……おい、あれ雨宮先輩じゃね?」
壁にもたれかかっていた、柄の悪い男たち三人組が、こちらに気づいてニヤニヤと近づいてきた。
見るからにガラが悪い。ヤンキー風情だ。
凪の表情がスッと消え、能面のようになった。
「うわマジだ! お久しぶりっす先輩。……何その格好? どこぞのモデル気取りっすか?」
リーダー格らしき男Aが、小馬鹿にしたように笑う。
「人違いじゃないですか」
凪は冷たく言い放ち、通り過ぎようとした。
しかし、男Bが前に立ち塞がる。
「シカトかよ。俺らと一緒に鉄パイプ振り回してた『狂犬ナギ』くんが、随分と偉くなったもんだなァ。スーツ着てペコペコ頭下げてんすか?」
狂犬……? 鉄パイプ……?
私は驚いて凪を見た。
彼の背中が、微かに強張っているのがわかる。
「てか、連れの女カワイイじゃん」
男Cが、凪の後ろにいる私に目を向けた。
いやらしい視線が、私の全身を舐めるように這う。
「マスクしてるけど目元とかエロいし。なぁ、俺らと遊ばない?」
男が私の肩に手を伸ばしてきた。
「ひっ……」
怖い! 無理! 直之ー! ヘルプー!
バキッ。
鈍い音が響いた。
「ぎゃああああ!?」
男Cが悲鳴を上げて膝をつく。
凪が、男の手首を掴み、ありえない方向に捻り上げていた。
「おい」
凪の声から、丁寧さが完全に消え失せていた。
「その汚ねぇ手で、俺の連れに触ってんじゃねぇよ」
地を這うようなド低音。
目は笑っていない。殺気だけが、そこにあった。
「ひっ……!」
残りの男達が後ずさる。
かつての狂犬の恐怖を思い出したのか、顔色が青ざめている。
「次、俺の視界に入ったら……わかってるな? 潰すぞ」
氷のような視線。
絶対的な捕食者の目だ。
「す、すんませんでしたァ!」
男たちは悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
路地に静寂が戻る。
凪は肩で息をしながら、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……すみません。怖がらせましたね」
いつもの笑顔を作ろうとしている。
けれど、その手は微かに震えていた。
自分の汚い過去を、隠していた本性を、私に見られた恥ずかしさと、自己嫌悪。
凪も、必死に隠してたんだ。
私は咄嗟に、その震える手を両手で包み込んだ。
冷たい。でも、確かに体温がある。
「……ううん。助けてくれて、ありがとう」
「……ッ」
凪の瞳が揺れた。
彼は縋るように私の手を握り返し、そのまま歩き出した。
「……少し、休みましょう。このままじゃ帰せない」
繋いだ手から伝わる熱が、ただの熱ではないことを教えていた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子(不審者Ver.)
・状態:強制連行 & ドキドキ(吊り橋効果)
新規獲得アイテム
・【狂犬のリード】:震える手を握ったことで獲得。彼の手綱はアンタが握ったわよ。
・【夏の予約】:逃げられない約束。キャンセル不可。
【明菜の分析ログ】
あらあら、優等生の仮面の下は、噛みつきそうな狂犬だったのね。
「ギャップ萌え」なんて安っぽい言葉じゃ片付けられないわ。
暴力的な男ほど、実は内面が脆くて繊細なものよ。
さぁ、興奮冷めやらぬ狂犬と、逃げ場のない密室へ……。
アドレナリンが出た後の男は、どうなるか知ってる?
……ふふ。精一杯、可愛がってもらいなさい♡




