第四十三記録【酒を口移し】
「……なにも面白くないけど」
私は唇を尖らせてふてくされた。
正体がバレた上に、マティーニまで飲まれてしまった。
この男に主導権を握られっぱなしなのは、九条家の名折れだ。
レオさんは濡れた髪をかき上げながら、不思議そうに首をかしげた。
「ねぇ、どうして僕にだけ『さん』付けで、敬語なの? 恭弥にはタメ口なのに」
「んー……」
私は腕組みをして、少し考え込んだ。
そして、目の前にある整いすぎた顔面をじっと見つめ、真顔で答えた。
「レオさんの顔面が『さん』って感じするし、あと敬語の方が自然に出てくるっていうか……圧?」
「ははっ、なんだそれ。顔面が『さん』って」
彼は呆れたように笑い、でもどこか愛おしそうに目を細めた。
「変な子だなぁ、君は」
ブンッ。
突然、重い音がして、室内の照明が全て落ちた。
完全な暗闇。
視界が遮断され、プールの水音だけがチャプチャプと響く。
「わっ!?」
驚いて立ち上がろうとした瞬間、濡れた腕を強く引かれた。
ボフッ、と硬い胸板に抱き寄せられる。
塩素と、彼の香りが、暗闇の中で濃厚に立ち込めた。
ピンポンパンポ〜ン♪
館内放送が流れる。
その声は、機械的なアナウンスではなく、明らかに聞き覚えのある声だった。
『ただいま、原因不明の停電が発生しました。復旧まで、暗闇での濃厚な時間をお楽しみください♡』
明菜……あの悪魔……! ついに物理干渉だけでなく、船の設備までハッキングしたの!?
私は戦慄した。
けれど、今の私に襲いかかっているのは、悪魔の悪戯よりももっと危険な「熱」だった。
「……っ」
暗闇で視界が効かない分、聴覚と触覚が異常なほど鋭敏になる。
耳元にかかる、熱い吐息。
濡れた素肌から伝わる、彼の体温。
心臓が痛いくらいに跳ねる。
「……僕、本気になっちゃったかも」
小さく、けれど熱を帯びた囁き。
いつもの飄々とした王子様の声ではない。
もっと低く、粘り気のあるオスの声。
「は……?」
上ずった声が出る。
「きっと、あの4人も嘘つきなシンデレラに夢中だと思うんだ。見てたらわかるよ、男だもん」
彼の腕に力がこもる。
逃がさないという意思表示。
私の背中に回された手が、下着のラインをなぞるように這う。
「だからとか、競争心とかじゃないけど……僕も、君をもっと知りたいと思ったんだ」
「ちょ、レオさ……」
言葉は、塞がれた。
唇に、柔らかくて熱い感触。
いつも感じる「王子様」のような優しいキスではない。
私の唇を割り、強引に入り込んでくる、貪るようなキス。
彼の中に残っていたマティーニの味と冷たさが、私の口内へと流れ込んでくる。
舌先が絡み合い、アルコールの味と、彼の唾液の味が混ざり合う。
んっ……、熱い……。
脳が溶けそうな感覚。
息ができない。
暗闇の中で、私たちの濡れた水音が響く。
彼の舌が、私の口内を執拗に探る。まるで、隠している秘密をすべて暴き出そうとするかのように。
「んぅ……っ」
私が小さく声を漏らすと、彼は一度だけ唇を離した。
暗くて表情は見えないが、彼の瞳が獣のように光っている気配がした。
「僕のことも、みんなと同じように扱ってよ」
「え……」
「敬語はやめて。呼び捨てで呼んで」
彼は私の濡れた唇を、親指の腹でゆっくりとなぞった。
「……これは命令じゃなくて、ただの男としてのワガママ」
返事をする間もなく、再び唇が重なる。
今度はもっと深く。
逃げようとする私の舌を捕まえ、吸い上げるような濃厚な口づけ。
(ちょ、レオ……ッ
私の抵抗する力は抜け、ただレオの首に腕を回すことしかできなかった。
冷たいプールサイドで、唇だけが火傷しそうに熱い。
マティーニの酔いが回ったのか、彼への陶酔なのか、もうわからなかった。
パッ。
唐突に照明が戻った。
眩しさに目を細める。
レオがゆっくりと体を離した。
彼の唇は濡れて赤く腫れていて、瞳は獲物を食べた後のように妖しく輝いている。
いつも完璧な王子様の顔が、今は欲に濡れた男の顔をしていた。
彼は満足そうに微笑み、濡れた手で私の頭をポンポンと撫でた。
「いい子だ」
そのまま彼は、何も言わずにプールサイドを去っていった。
残された私は、顔を真っ赤にしてその場にへたり込んだ。
心臓のバクバクが止まらない。
唇に残るマティーニの味と、レオの感触が消えない。
……とんでもないモンスターを起こしちゃったかもしれない。
午後三時。
船が港に到着した。
タラップが降り、五千人の社員たちがぞろぞろと下船していく。
私は魂が抜けたように、ふらふらと歩いていた。
唇……腫れてないかな。まだ熱い……。
「茉莉子ちゃーん!」
背後から声をかけられた。
ビクッとして振り返ると、アカネちゃんが小走りで駆け寄ってきた。
「よかった〜やっと会えた! ずっと探してたんだけど……大丈夫? お腹」
心配そうな顔。
なんてピュアなんだ。聖母か。
さっきまで薄暗いプールバーで不純異性交遊まがいのことをしていた自分が恥ずかしくなる。
「あ、うん……昨日からの腹痛がまだ続いててさー。へへ……」
嘘をついてごめんなさい。
でも、今は彼女の純粋さが眩しい。
「そっか、お大事にね。……じゃあ、また!」
手を振り、離れようとするアカネちゃん。
しかし、彼女は急に立ち止まり、振り返って私の手をギュッと握った。
「連休明けの会社でも、仲良くしてね!」
花が咲くような、とびきりの笑顔。
ズキュン!!
私の胸に、愛の矢が突き刺さった。
猛獣たちに振り回され、疲弊した心に、そのピュアな言葉が染み渡る。
「も、もっちろん! ランチ行こうね! 絶対だよ!」
「うん! じゃあね!」
アカネちゃんは嬉しそうに手を振り、人混みの中へ消えていった。
っしゃあ! 連休明けから会社行く理由ができたわ!
私はウキウキでスキップしながら桟橋を歩いた。
家に帰ってゲームするのも楽しみだけど、会社の友達とランチするのも悪くない。
私の人生、捨てたもんじゃないかも。
『……ふふ。平和ボケしてなさいな』
明菜が空中に浮かびながら、冷めた目で私を見下ろした。
『女の友情はハムより薄い」って言うけどね』
うるさい! 縁起でもないこと言わないでよ! 帰るよ!
私は明菜を手で払い除け、迎えに来た黒塗りのリムジンへと乗り込んだ。
まだ続く長いゴールデンウィーク。
でも、これは新たな戦いの始まりに過ぎなかった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:唇がアルコール漬け
新規獲得アイテム
・【大人のキスの味】:マティーニ風味。度数は高め。
・【アカネとの約束】:唯一の良心。
【明菜の分析ログ】
嘘つき王子が本気になったわね。
「特別扱いしないで」って言う男は、大抵「一番特別にしてほしい」って思ってるのよ。面倒くさい生き物ね。
さて、GWはまだ続くわね
誰と会うの?またあの王子様?それともまだキスしていない男?




