第四十二記録【マティーニのシンデレラ】
四月二十九日、午後一時。
ホテルの客室通路。
「おんもーい! なんで荷物ってこんな重いわけ? 行きより増えてるってどういうこと!? 物理法則バグってない!?」
私は必死の形相で、パンパンに膨れ上がったキャリーケースとボストンバッグを引きずっていた。
たった一泊二日だ。お土産を買ったわけでもない。
なのに、この質量保存の法則を無視した重量感はなんなの。
『意味のない荷物を持ってくるからそうなるんじゃーない♡』
そのキャリーケースの上に、明菜が優雅に脚を組んで座っていた。
彼女の手には、何故か黒い革鞭が握られている。
ビシッ!
空を切る音が響く。
『ほんとバカね茉莉子は〜。ほら、馬車馬のように働きなさい! ヒヒーン!』
「あんたが乗ってる分が重いんでしょーが!! 降りてよ悪魔!」
私が叫んだその時だった。
「お嬢様!」
疾風のように、直之が現れた。
彼は残像が見えるほどの速さで私の元へ駆け寄り、荷物に手を伸ばした。
「そのような重労働、この直之にお任せを! お嬢様の手はコントローラーを握るためにあるのですから!」
「あ、待って直之」
私は彼の手をパシッと制した。
「大丈夫。今日は自分でできるから」
「へ?」
「自分の尻拭いくらい、自分でする。……昨日の夜、そう決めたんだから」
私は汗をぬぐい、再びキャリーケースのハンドルを握りしめた。
ニートになるための第一歩は、自分でできることは自分ですることからだ。
直之の手が空中で止まる。
サングラスの奥の瞳が、驚愕に見開かれた。
「お嬢様が……ご自分で荷物を……拒否された……自立……ッ!?」
「うぅッ(感涙)」
直之は懐からレースのハンカチを取り出し、顔を覆って号泣し始めた。
「寂しゅうございますが……その逞しいお背中、この直之、涙で明日が見えません……! ご成長されましたな……!」
「明日を見てよ。転ぶから」
私は泣き崩れる執事を放置し、ズルズルと荷物を運び去った。
なんとか荷物を預け、一汗かいた私は、涼を求めて船内の屋内プールバーへと足を運んだ。
薄暗い照明。ゆらゆらと揺れる青い水面。
大人の雰囲気が漂うカウンターで、私は昼間からマティーニをあおっていた。
「うんめぇー! 五臓六腑に染み渡るぅ〜!」
カラン、と氷が鳴る。
空きっ腹にアルコールが直撃し、視界が少しふわふわしている。
『アンタといると退屈しないわねぇ』
隣の席で、明菜もマティーニを飲みながらニヤけている。
『昼酒最高じゃない? これぞ貴族の遊びよ』
うぃ〜。……あー、暑い。水……水に入りたい……。
私はホワホワした千鳥足でマティーニのおかわりを注文し、グラス片手にプールサイドへと向かった。
プールサイド。
そこには、チラホラと先客がいた。
人と言うより、カップルだ。
なんじゃここ! 昼間からイチャイチャしやがって!
水中で抱き合ったり、水をかけ合ったりしているリア充たち。
私はジト目で彼らを睨みつけた。
神聖な水を愛欲で汚すな! こんなところで愛を育んでるの目撃したら、九条茉莉子としてイエローカード突きつけてやるわー! 退場! 全員退場!
心の中でホイッスルを吹き鳴らしながら、私はプールサイドに腰を下ろした。
今日の服装はデニムのショートパンツにTシャツ。
足だけ水につける。
「冷た〜い……きもちぃ〜……」
パシャパシャと水を蹴る。
その時。
視界の端で、「何か」が発光した。
薄暗い室内にもかかわらず、そこだけスポットライトが当たっているような神々しさ。
一人の男が、クロールで泳いでいる。
水しぶきさえも、ダイヤモンドのように輝いて見える。
「……あっ、レオさんだ」
私が呟くと、レオさんがプールの端に手をかけ、ザバッと上がってきた。
「……えッ」
私は息を呑んだ。
グレーのボクサー水着。
逆三角形の広い背中。
無駄な贅肉が一切なく、彫刻のように割れた腹筋。
濡れてオールバックになった髪から、水滴が滴り落ちて、鎖骨の窪みに溜まっていく。
なんてエッチなの……。R-18指定だこれ。
酒のせいもあり、私は口をぽかんと開けて見惚れてしまった。
男の色気って、物理攻撃力があるんだ。知らなかった。
レオさんが髪をかき上げ、こちらに気づいた。
「やぁ、茉莉子ちゃーん」
甘い声で名前を呼ばれる。
彼が一歩一歩、こちらに近づいてくる。
水に濡れた足音が、私の鼓動とリンクする。
『あらあら〜♡』
明菜が口笛を吹いた。
『あの男、かなりいい身体してるわね♡ 芸術点高いわ』
だよね……眼福……。
『まさかこんな薄暗い場所で会うなんて……きっと神様がキスの一つや二つしなさいって言っているのね』
悪魔が神の名を呼ぶなよ! バチ当たるわ。
レオさんが私の目の前に立った。
プールサイドに座っている私と、立っている彼。
見上げる形になる。
「昼間からマティーニかい? 優雅だね」
彼は濡れた手で髪をかき上げた。
塩素と、彼自身のムスクのような香りが漂ってくる。
「そうでーす」
私は少し恥ずかしくなって、頬をポリポリと掻いた。
「昨日の夜、連絡したのに返事なくて寂しかったなー」
「あー、あれは……ごめんなさい、部屋帰ってすぐ寝落ちしちゃって」
「ふーん……」
レオさんが目を細めた。
ヘーゼルナッツ色の瞳が、私の顔をじっと観察している。
冷たい指先が、私の頬に触れた。
「茉莉子ちゃんってさ。ゲームになると強いのに、そうじゃないと嘘が下手なんだね」
「え? 私が嘘?」
「うん。だって、視線が右上を向いてる……心理学的に、それは『嘘を構築している』時の反応だよ」
「バ、バレてた……」
私は口元を押さえた。
この男相手に嘘をつくなんて、釈迦に説法だった。
レオさんが顔を近づけてくる。
私の逃げ場を塞ぐように、両手をプールサイドについた。
「まだ嘘ついてること、あるよね? 知ってるよ」
「な、なに?」
「君……一条茉莉子じゃなくて、九条茉莉子なんじゃない?」
「!!!!!」
心臓が止まるかと思った。
マティーニの酔いが、一瞬で冷める。
「バ、バレてる!? なんで!? なんで!?」
「簡単なパズルだよ」
レオさんは楽しそうに笑い、私の鼻先を指でつついた。
「社長との距離感が親戚にしては近すぎるし、あの『直之』とかいう執事みたいな男の存在も不自然だ。……そして何より」
彼は昨日の朝の光景を思い出すように、遠くを見た。
「昨日の朝のスピーチで、社長が自分のこと『パパ』って呼んだだろ? 今までそんな一人称、使ったことなかったのに」
パパーーーッ!! あんのタヌキ、余計なことをぉぉぉ!!
私は頭を抱えた。
あの時、全社員の前で「パパ嬉しいなぁ〜♡」とか言ってた。
誰も気にしてないと思ってたのに、この男は聞き逃していなかったのだ。
「あちゃー……」
「でも、安心して♡」
絶望する私の手から、レオさんがマティーニのグラスを奪い取った。
そして、私の口がついた場所から、一口飲む。
間接キス。
そんなことを気にする余裕もないくらい、彼の視線が妖艶だった。
「あの4人には言わないから。……僕と君だけの秘密だ」
彼は意地悪く、でも優しくウィンクした。
秘密の共有。共犯者の契約。
これで私は、彼に弱みを握られたことになる。
「……はぁ。もういいや」
私は大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
ここまでバレたら、隠す意味もない。
「実は……凪とユンジンには、もうバレてる」
「え?」
レオさんの完璧な笑顔が固まった。
グラスを持つ手が止まる。
「なんなら、結構前から知られてる。ごめんね、一番乗りじゃなくて」
「……ははっ」
数秒の沈黙の後、レオさんはおかしそうに肩を震わせて笑い出した。
「なんだ、僕が最初じゃなかったのか。……やっぱり君、面白いね」
彼は私の頭を、濡れた手でくしゃくしゃに撫でた。
「じゃあ、秘密を共有する『共犯者』が増えたってことか。……悪くないね」
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子(正体バレ率:60%)
・状態:泥酔&陥落
新規獲得アイテム
・【レオの沈黙】:秘密を守ってくれる約束。代償はマティーニ一杯。
・【眼福】:グレーの水着。網膜に焼き付け保存完了。
【明菜の分析ログ】
あらあら、どんどん正体がバレていくわね。
「秘密」は、共有する人数が増えるほど、その価値が変わるものよ。
最初は弱みだったものが、いつしか「絆」に変わるかも?
それにしても、あの水着姿……ご馳走様でした♡




