第三十五記録【え?社畜?この私が?】
四月二十二日、午後九時半。
ガガガガガッ……。
シュレッダーの音が、静まり返ったフロアに響き渡る。
広い経営戦略室に残っているのは、私とユンジンだけだ。
「お疲れ様でしたー」
私は帰宅する他の社員たちに、乾いた笑顔で手を振った。
頭がガンガンする。立っているだけで、地面が揺れている気がする。
『ゲーテは言ったわ』
不意に、耳元で声がした。
明菜だ。彼女はシュレッダーの上に腰掛け、優雅に脚を組んでいる。
『「もっとも偉大な技術は、他人の力を利用する技術である」……アンタ、偉大さとは程遠いところにいるわね。ザ・社畜』
「……脳内に直接響くから、マジでやめて」
私はこめかみを押さえてつぶやいた。このキャンキャン声のせいで頭痛が悪化しそうだ。
『そりゃあそうよ。だって私、アンタに取り憑いてるんだもん。響いて当然でしょ〜♡』
彼女はケラケラと笑い、私の周りを飛び回る。
「うるさい……」
私はよろめきながら、最後の書類をシュレッダーに差し込んだ。
その時。
グラッ。
「あ、れ……?」
世界が急回転した。
天井と床が逆転するような感覚。
膝から力が抜けて、自分の体を支えきれない。
ドサッ!
鈍い音がして、私の視界が暗転する。
「マリコ!?」
遠くで、椅子を蹴倒すような音がした。
「おい! 大丈夫か!?」
駆け寄ってくる足音。
いつも冷静な彼の、焦ったような声。
それが、私の意識の最後に聞いた音だった。
……。
…………。
ふと、目が覚めた。
ぼんやりとした視界に、優しいオレンジ色の光が映る。
「ここ、私の部屋?」
見慣れた天井。間接照明。
おでこには冷たい濡れタオルが乗せられている。
体を見ると、いつの間にか着心地の良いシルクのパジャマに着替えさせられていた。
『おっはよー♡』
視界の上から、明菜が逆さまに顔を覗かせた。
『気分はいかが? 社畜令嬢さーん』
彼女は魔法のステッキのようなものを持ち、私の周りでキラキラと光るエフェクトを出して「回復」するフリをしている。
全く回復していないけど。
私……どうやって帰ってきたの?
私が目で問うと、明菜はニヤリと笑い、ステッキで部屋の端を指し示した。
そして、パッと消える。
私は首を動かして、そちらを見た。
ベッド脇の椅子に、誰かが座っていた。
ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めたユンジンだ。
彼は腕まくりをした状態で、スマホを見ながら深いため息をついていた。
「ユンジン?」
私がかすれた声で呼ぶと、彼はハッと顔を上げた。
「お、気づいたか。お姫様」
「お姫様」という言葉のイントネーションが、どこか皮肉っぽい。
彼の手には、見覚えのあるピンク色の財布と、一枚のカードが握られていた。
私の身分書だ。
「マリコが倒れて、どうしようもなくてさ……悪い住所確認しようと思ったら……たまげたわ」
彼は呆れたように免許証をヒラヒラとさせた。
「住所が『ここ(社長邸)』で、名前が『九条』だもんな」
「あ……う……」
言葉が出ない。
言い訳できない。完全にバレた。
一条マリコという偽名は、あっけなく崩れ去った。
「道理で世間知らずだと思ったよ。……社長の娘が、なんであんな雑用係やってんだか」
彼は不思議そうに首を傾げた。
「婿探し」なんて、死んでも言えねぇぇぇ!
私は布団を頭まで被りたくなった。
「ま、事情は後で聞く」
彼は怒っているわけではなさそうだ。ただ、呆れているだけ。
彼は椅子から立ち上がり、私の顔を覗き込んだ。
「今は寝とけ。まだ顔赤いな」
ペタリ。
彼が大きな手を、私のおでこに当てた。
ひんやりとして、大きくて、ゴツゴツしている男の手。
でも、不思議と安心する重み。
「熱いな。……38度ぐらいか」
彼は眉をひそめ、濡れタオルを裏返して乗せ直してくれた。
「ごめんなさい……迷惑かけて……」
私が弱音を吐くと、彼はフッと口角を上げて意地悪く笑った。
そして、おでこを軽く小突いた。
「ほんとだよ。手のかかる女」
「うぅ……」
「……水、飲むか?」
彼がサイドテーブルから、ストロー付きのグラスを差し出してくれた。
「ありがとう……」
私が一口飲むと、彼は満足げに頷いた。
甲斐甲斐しい看病。
文句を言いながらも、その手つきは驚くほど優しくて、無駄がない。
熱のせいか、彼の優しさのせいか。胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
これが母性? それとも……。
うとうとと、再び眠気が襲ってくる。
まぶたが重くなる。
その時。
ユンジンの背後に、再び明菜が現れた。
彼女はニヤニヤしながら、空中にウィンドウを表示させた。
【ソ・ユンジンのステータス】
好感度: 心配(保護者モード)
性欲値: 30%(弱ってる姿にちょっとグラついてる)
恋愛値: 未測定(お姫様という新事実に困惑中)
あはは……。
性欲値、意外とあるじゃん。
この状況でグラついてるなんて、やっぱり男の人なんだな。
そう思うと、なんだか少しだけおかしくて、私は心の中で笑いながら深い眠りへと落ちていった。
部屋の外。廊下。
「うぅっ……お嬢様……」
ドアの隙間から中の様子を伺っていた直之が、ハンカチを噛み締めて男泣きしていた。
「あんな男に……お嬢様のお部屋に入らせるなんて……! でも、ここまで送り届けてくれた恩義は……感謝せねば……うぅっ!」
サングラスの下から溢れる涙を拭いながら、忠実な執事は葛藤に身悶えしていたのだった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子(正体バレ)
・職業:手のかかるお姫様
現在のステータス
・魅力:B(高熱による潤んだ瞳と赤い頬は、ある種の強力な武器ね)
・メンタル:C(正体がバレたショックと安堵でフワフワ中)
新規獲得アイテム
・【ユンジンの看病】:文句と優しさのミルフィーユ。
・【おでこの感触】:体温計より正確で、優しい手の平。
【明菜の分析ログ】
バレちゃったわねぇ、お姫様。
でも、結果オーライじゃない?
「社長令嬢」って知っても態度を変えない男なんて、そうそういないわよ。
彼はアンタの肩書きじゃなくて、「手のかかる部下」として見てくれてる。
それって、結構レアケースよ?
さぁ、熱が下がったらどうする?
「お姫様」と「執事」の新しい関係、楽しみにしてるわよ♡




