第三十四記録【HOT.Danger】
四月二十二日、月曜日。午前七時半。
ピピピピ、ピピピピ……。
目覚ましのアラームを止めた瞬間、頭がズンと重いことに気づいた。
「……んぅ」
起き上がろうとして、体が鉛のように重いのを感じる。
喉が少し渇いているし、顔も火照っている気がする。
私は眠い目のままサイドテーブルの体温計を手に取り、脇に挟んだ。
嫌な予感がする。
数十秒後。電子音が鳴る。
『37.2℃』
「微熱?」
微妙な数字だ。平熱より少し高いけれど、動けないほどじゃない。
私はベッドに倒れ込み、天井を仰いだ。
「あー……これ絶対、先週の変態博士のせいだ」
金曜日の夕方。剣崎恭弥との視聴覚室での出来事がフラッシュバックする。
あんな濃厚で、酸素奪われるようなことされたら、知恵熱も出るっての。
週末ずっとドキドキして気が張ってたから、その反動が来たのかもしれない。
『あら〜♡ 愛の熱病かしら? ロマンチックねぇ』
天井から、紫色のネグリジェを着た悪魔――明菜が逆さまに顔を出した。
違うって。ただのオーバーヒート。
私はのろのろと起き上がり、引き出しから市販の風邪薬を取り出した。
水で流し込む。
「ふぅ、行くか」
「あら、休まないの?」
「これくらいで休んでたら、有給なくなっちゃうし」
私は鏡の前で身支度を整えながら、ふと自嘲気味に笑った。
私、ほんとに偉くなったもんだ……。
1ヶ月前までの私なら、爪の先が痛いだけでも「今日は無理!」って布団に潜り込んで、一日中ゲームをしていたはずだ。
それが、微熱くらいで出社しようとしてるなんて。
「あのニートから、風邪っぽくても出社するなんて……もう完全な社畜の仲間入りだな」
私がドヤ顔で呟くと、明菜がバサッと派手な羽扇子を広げ、優雅に扇ぎ始めた。
『はいはい。社畜自慢もいいけど、プロの社畜ならもっと会社の身になるような仕事しなさいよ? 雑用ばっかりじゃなくてさ』
うっさい! 今から行って稼ぐの!
好感度という名の大事な大事なステータスを。
私はカバンを掴み、熱っぽい頭を振って部屋を出た。
本社十五階・経営戦略室。
そこは、これまでの部署とは明らかに空気が違っていた。
静かだが、張り詰めた緊張感。
パソコンの冷却ファンの音と、キーボードを叩く高速の打鍵音だけが響いている。
壁一面のホワイトボードには、複雑な戦略図やグラフがびっしりと書き込まれていた。
その中心にあるデスクで、一人の男が電話をしていた。
「Yes, I understand regarding the timeline... ネ、アラッスムニダ(はい、わかりました)。資料は午後までに送ります」
英語と韓国語、そして日本語を流暢に使い分ける、切れ長の目の美青年。
ソ・ユンジン。
九条グローバルの頭脳と呼ばれる、敏腕コンサルタントだ。
彼は電話を切ると、入り口に立っていた私に気づいた。
「お、来たな」
彼は立ち上がることなく、手招きをした。
細身のスーツに、銀色のネクタイピンが光る。
「おはようございます、ユンジンさん」
「おはよう。……悪いが、挨拶は短縮だ。見ての通り、猫の手も借りたいくらい忙しい」
彼はデスクの横に積まれた、山のようなダンボール箱を指差した。
三箱ある。中身は全部、紙のファイルだ。
「そこにある過去のプロジェクト資料、全部カテゴリ別にファイリングしてサーバーにスキャン登録してくれ。……期限は、今日の昼までだ」
「えっ、これ全部!?」
私は目を剥いた。
ざっと見ても数百冊はある。これを午前中だけで?
「無理か?」
彼はパソコンの画面から目を離さずに聞いた。
試すような響きはない。ただ純粋に、リソースの確認をしているだけだ。
「やります。猫の手よりはマシなところ、見せてやる」
私は腕まくりをして、資料の山に取り掛かった。
バサッ、バサッ、ピピっ。
ファイリングとスキャンを繰り返す単純作業。
頭を使う必要はないけれど、今の熱っぽい体には地味に堪える。
ふぅ……暑い……。
オフィスの空調は効いているはずなのに、背中にじわりと汗が滲む。
薬が効いてきているのか、それとも熱が上がっているのか。
私は手を動かしながら、横目でユンジンの仕事ぶりを盗み見た。
「……ここ。数字が合ってない」
彼は部下が持ってきた資料を一瞥しただけで突き返した。
「あっ、すみません!」
「前年比の計算式、セルの参照元がズレてるよ。あと、ここのグラフは見づらいから3Dじゃなくて2Dに直して。結論がブレて見える」
「は、はい! すぐ直します!」
「焦らなくていいから、確実にやって。……リカバリーはボクがしておくから」
厳しい。けれど、的確だ。
ミスを指摘するだけでなく、具体的な修正指示とフォローまでが一瞬で行われる。
クライアントとのWeb会議でも、相手の無理難題を論理的に切り返し、いつの間にかこちらのペースに持ち込んでいる。
すごいな。
悔しいけど、カッコいい。
これが「デキる男」ってやつか。
変人科学者とはまた違う、知的な色気がある。
「マリコ」
不意に声をかけられ、私はビクッとした。
「は、はい!」
見上げると、ユンジンが私のデスクの横に立っていた。
手には、コンビニの袋を持っている。
「休憩しろ。根詰めても効率落ちるだけだ」
彼は私のデスクに、コトンと何かを置いた。
カカオ70%のチョコバーと、ビタミン配合のゼリー飲料。
「え、これ……」
「糖分補給。……顔色、悪いよ」
彼は私の顔をじっと覗き込んだ。
切れ長の目が、鋭く観察している。
「あ、ありがとう……」
「また朝飯抜いたでしょ?」
「えっ」
図星だ。薬を飲むために水しか飲んでいない。
「お菓子ばっか食べてるから、ここぞって時にスタミナがないんだよ」
彼は呆れたようにため息をつき、腕を組んだ。
「いいか? 人間の脳が働くにはブドウ糖が必要なんだ。特に朝は、ちゃんとお米を食べなきゃダメ。炭水化物は太るとか気にしてるのかもしれないけど、代謝を上げる燃料がないと体温も上がらないし、免疫力も落ちるんだよ?」
いや……気にしてないけど、むしろ朝からウニいくら丼とか食ってるけど……。
「う、うん……」
「わかったら、これ飲んで少し休みな。……終わったら声かけて」
彼はポンと私の頭に手を置くと、自分の席へと戻っていった。
お母さん、いや姉かよ。
口うるさい。
でも、その説教じみた言葉の裏にある気遣いが、弱った体には妙に心地よかった。
私はゼリー飲料を吸い込んだ。
冷たい液体が喉を通り、少しだけ体が楽になった気がした。
――この時はまだ、そう思っていた。
午後四時。
資料整理はなんとか終わったが、すぐさま次の仕事が降ってきた。
明日の会議で使う、大量の資料のコピーと製本だ。
ウィーン、ガシャン。ウィーン、ガシャン。
コピー機のリズミカルな音と、排気口から出る生温かい風。
独特のトナーの匂い。
「うっ……」
急に、足元がふわっと浮いたような感覚に襲われた。
視界がぐらりと揺れる。
やばい……なんか変。
コピー機の端に手をついて体を支える。
頭がガンガンする。さっきまでの「微熱」とは明らかに違う、嫌な熱さだ。
「マリコ」
遠くから、ユンジンの声が聞こえた。
「それ終わったら、裏紙のシュレッダーも頼んでいい? 機密文書だから今日中に処理したいんだ」
彼の声が、水の中にいるみたいに遠く響く。
……まだ、あるんだ。
断りたい。
「具合が悪いので帰ります」と言いたい。
でも、さっき自分で言った言葉が頭をよぎる。
『猫の手よりはマシなところ、見せてやる』
ここで倒れたら、ただの足手まといだ。
口だけ達者な、使えない女だと思われる。
私は歯を食いしばり、気力を振り絞って返事をした。
「……はーい。了解です」
自分でも驚くほど普通の声が出た。
でも、額から流れる冷や汗は、もう止まらなかった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・職業:社畜(発熱中)
現在のステータス
・魅力:B(健気さは評価するけど、顔色がゾンビ一歩手前よ)
・メンタル:C(気力だけで立ってる状態。限界突破寸前)
新規獲得アイテム
・【オカンの差し入れ】:チョコバーとビタミンゼリー。愛の説教付き。
【明菜の分析ログ】
あ〜あ、無理しちゃって。
「飴と鞭」の使い方が上手いわねぇ、あのコンサルタント様は。
仕事は鬼のように厳しいけど、ご飯食べたかとか、顔色が悪いとか、そういう細かいところは絶対見逃さない。
こういう「生活指導」してくる男、嫌いじゃないでしょ?
でも、無理は禁物よ。
張り詰めた糸が切れるのは、もうすぐそこ。
倒れるなら……せめてイイ男の腕の中になさいよ?




