第三十三記録【実証完了】
ロボット開発部、視聴覚室。
来る。
私はギュッと目を閉じて、身構えた。
心臓の音がうるさい。自分のものなのか、目の前に迫っている彼のものなのか、もうわからないくらいに警鐘を鳴らしている。
膝に乗せた分厚い論文――彼からの、世界一理屈っぽくて重たいラブレターを持つ手が震える。
彼の吐息が、頬を撫でた。
鼻先が触れそうな距離。
――なのに。
ピタリ、と気配が止まった。
「……ん?」
恐る恐る、薄目を開ける。
そこには、恭弥の端正な顔が、至近距離で私を見つめていた。
ブルーの瞳が、薄暗い部屋の中で妖しく光っている。それは、深海で獲物を見つけたサメの目のようだった。
「なに? しないの?」
私が間抜けな声で聞くと、彼の形の良い唇がフッと歪んだ。
「焦るな、まーちゃん」
彼は私の耳元に顔を寄せ、低く、熱を帯びた声で囁いた。
「理論は完璧だ。論文に書いた通り、オレの脳内シミュレーションでは、キミに対する感情は『愛』で間違いない」
「だ、だったら……」
「だが」
彼の言葉が、私の鼓膜を震わせる。
「科学者として……実証データが足りない」
「じ、実証……?」
聞き慣れない単語に、私の思考が停止する。
彼はゆっくりと顔を離し、私の目を真っ直ぐに射抜いた。
「そうだ。机上の空論で満足するわけにはいかない。被験体No.002――キミとの直接的な接触による、『相互作用』の確認が必要だ」
相互作用。接触。
その学術用語が、彼の口から出ると、ひどく猥雑な意味を持って響いた。
「え、ちょ、ちょっと待って。心の準備が……」
私が後ずさりしようとした、その時。
「確保する」
彼の腕が伸び、私の肩を掴んだ。
ドサッ。
「あ……っ」
抵抗する間もなく、私は背後のソファに押し倒されていた。
柔らかいクッションに体が沈む。
視界が反転し、天井の蛍光灯が目に入る。
そして、その視界を遮るように、恭弥が覆いかぶさってきた。
「……っ!」
逃げ場がない。
左右は彼の腕で塞がれ、上からは彼の体の重みを感じる。
水色のシャツ越しに伝わってくる彼の体温が、異常なほど熱い。
「逃げるな、まーちゃん」
彼が私を見下ろす。
その表情は、いつもの冷静沈着なマッドサイエンティストではない。
余裕がなく、切羽詰まった、一人の「男」の顔だった。
「……検証に協力しろ」
言葉は理屈っぽいのに、声が微かに震えている。彼自身も、限界が近いのだ。
べ、別に逃げてないけど……。
ていうか、こんな……受け止める体勢になるなんて聞いてない!
私は混乱して、助けを求めるように視線を彷徨わせた。
すると、部屋の隅の何もない空間に、紫色の悪魔が見えた。
『あら〜♡』
明菜だ。彼女はコーラの瓶を片手に、特等席で映画鑑賞でもするように寛いでいる。
『なんて素敵な官能映画かしら♡ たっぷり鑑賞しなくっちゃ。いいぞー! やっちまえ博士ー!』
この悪魔め!
私が明菜を罵倒した瞬間。
恭弥の、ひんやりとした指先が、私の顎をすくい上げた。
「オレを見ろ」
強制的に視線を戻される。
もう、彼しか見えない。
「始めるぞ」
それが、実験開始の合図だった。
ふわり、と彼の唇が重なった。
最初は、ついばむように優しく。
私の唇の形を確かめるように、角度を変えながら、何度も触れてくる。
研究対象を慎重に観察するような、丁寧なキス。
でも、それだけじゃなかった。
「……んっ」
私が小さく声を漏らしたのを合図に、彼の動きが変わった。
優しさが、熱を帯びた貪欲さに変わる。
彼が私の下唇を軽く噛み、そこから舌先を割り込ませてきた。
「あっ……!」
強引な侵入。
驚いて開いた口の中に、彼の舌が滑り込んでくる。
嘘……っ!?
大樹の時のような勢い任せのキスとも、ユンジンとのハプニングキッスとも違う。
これは、侵食だ。
彼の舌が、私の口内をくまなく探索し始める。
歯列をなぞり、上顎をくすぐり、私の舌に絡みついてくる。
逃げようとする私の舌を、彼は執拗に追いかけ、捕まえ、吸い上げる。
「んぅ……っ、ふ……っ」
熱い。
口の中が火傷しそうなくらい熱い。
唾液が混ざり合う、水っぽい音が、静かな部屋に響いて恥ずかしい。
彼は本当に「研究熱心」だった。
キスをしながらも、その目は開かれたままで、私の反応をじっと観察している。
私が息苦しくて眉を寄せると、それを楽しむように深く吸い付き、私が快感で震えると、満足げに喉を鳴らす。
私の吐息、震え、上昇する体温――そのすべてのデータを逃さず収集し、味わい尽くそうとしている。
「……っ、は、ぁ……!」
長い。終わらない。
息継ぎの隙間なんて、これっぽっちも与えてくれない。
「ちょ、待って……苦しぃ……」
私が彼の胸を叩いて訴えると、彼は一度だけ唇を離し、私の耳元で熱く囁いた。
「嫌だ。……待てない」
彼の理性のリミッターは、完全に外れていた。
再び、唇が塞がれる。
今度はさっきよりも深く、激しく。
彼の腕が私の腰に回り、さらに強く体を密着させてくる。
彼の心臓が、異常な速さで脈打っている。
もう、だめ……。
頭の中が真っ白になる。
思考が溶けて、感覚だけが鋭敏になる。
彼の匂い、彼の熱、彼の舌の動き。それだけが世界を埋め尽くす。
私は酸欠で痺れる指先で、彼の水色のシャツをくしゃくしゃになるまで強く握りしめた。
永遠にも思える時間の後。
ちゅ、と音を立てて、ようやく彼が唇を離した。
「はぁっ……、はぁっ……!」
二人の間に、一瞬だけ、銀色の糸が引いて――切れた。
その生々しさに、私は顔から火が出る思いだった。
私はソファの上で、ぜぇぜぇと肩で息をしていた。
酸素が足りない。視界がぼやけて、焦点が定まらない。
全身の力が抜けて、指一本動かせない。
恭弥もまた、私の上に覆いかぶさったまま、荒い呼吸を繰り返していた。
いつもは青白い彼の顔が、今は夕焼けのように赤く染まっている。
額には汗が滲み、乱れた前髪が目に掛かっている。
その姿は、どうしようもなく色っぽかった。
「まーちゃん」
彼は体を起こすと、私の顔を覗き込んだ。
そして、親指の腹で、唾液で濡れて腫れた私の唇を、そっと拭った。
その仕草が、あまりにも優しくて、愛おしげで。
私の心臓は、キスされていた時よりも大きく跳ねた。
「仮説以上だ」
彼は満足げに、そして、どこか困ったように微笑んだ。
「君との接触が、これほどのデータを叩き出すとはな」
彼は私の頬に手を添え、熱っぽい瞳で見つめてきた。
「これじゃあ……中毒になるな」
その言葉を聞いた瞬間。
プツン。
私の脳内で、何かが焼き切れる音がした。
……キャパオーバーです。
これ以上の情報の入力は不可能です。システムを強制終了します。
私の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
顔からシュウウウ……と湯気が出ているのが、自分でもわかる。
「あ、が……、きょ、うや……」
私は白目を剥いて、そのままソファの上で気絶した。
その後の記憶は、正直ない。
ただ、薄れゆく意識の中で、どこからかカチンコが鳴る音が聞こえた気がした。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・職業:実験用マウス(思考停止中)
現在のステータス
・魅力:測定不能(変人科学者を理性の向こう側へ送ってしまったため)
・メンタル:機能停止(再起動には時間がかかります)
新規獲得アイテム
・【濃厚なキス】:CERO規定ギリギリの、大人の味。
・【恭弥の中毒宣言】:これからは毎日が実験日和ね♡
【明菜の分析ログ】
カーット! はい、実験終了〜!
ちょっとちょっと、やりすぎよ博士! これ少年誌の限界超えてるから! CERO上がっちゃうから!
けど♡
普段理屈っぽい男がタガ外れると怖いわねぇ。
「研究熱心」にも程があるわよ。あんなに味わい尽くして……まーちゃん、完全にショートしちゃったじゃない。
でも、これで証明されたわね。
「恋」というバグは、どんな天才科学者でも制御不能だってこと。
さぁ、次は最後のターゲットよ。
誰だったかしら?
博士のキスで熱とか出さないでね♡




