第三十二記録【エラーコード:恋】
私は大きく息を吐き出し、視聴覚室のいつものソファに深く沈み込んだ。
あの恥ずかしすぎるパイロットスーツから、ようやく自分の服に着替えることができた。
ベビーピンクのクロップドニットと、ショートデニム。
肌にまとわりつくゴムの感触から解放され、コットンの柔らかさが身に染みる。
「実験、成功してよかったね。……正直、死ぬかと思ったけど」
私は隣にいるはずの男に声をかけた。
しかし、返事がない。
「恭弥?」
顔を上げると、剣崎恭弥はソファには座っていなかった。
彼は部屋の中央にあるスクリーンの前に立ち、腕を組んでこちらを見下ろしていた。
いつもなら、この時間は「実験の成功祝い」と称して、コーラとポップコーンを片手にB級サメ映画の鑑賞会が始まるはずだ。
けれど、今日の彼は様子が違う。
トレードマークの白衣を脱ぎ捨てていた。
着ているのは、あの時――サメ映画で泣いた時と同じ、爽やかな水色のカッターシャツ。
袖を肘まで捲り上げ、血管の浮いた男らしい腕が見えている。
部屋の照明は落とされていない。
スクリーンは真っ白なままだ。
静かすぎる。空調の音だけが、ブォーッと低く響いている。
「座れ。まーちゃん」
恭弥が、低く、硬い声で言った。
「え? 座ってるけど」
「違う。……そこじゃない。姿勢を正して、オレの話を聞け」
「はぁ?」
意味がわからない。
でも、彼のアイスブルーの瞳があまりにも真剣で、鬼気迫るものがあったから。
私は渋々、ソファの上で居住まいを正した。
「コホン!……報告がある」
ドンッ!!
恭弥がデスクの上に、分厚い書類の束を叩きつけた。
辞書くらいある。重そうだ。
「な、なにこれ」
一番上の表紙には、明朝体で太々とこう書かれていた。
『被験体No.002との接触における自律神経系の異常数値に関する考察』
「は?」
私は目を点にした。
被験体No.002って、私のことだよね。
「何これ、反省文? 私のことモルモットにした挙句、セクハラまがいのことした謝罪文?」
「違う」
彼は即答した。
「これは……オレの、今の状態の解析結果だ」
「恭弥の?」
恭弥は無言で指示棒を取り出し、部屋に備え付けのホワイトボードに向き合った。
キュッ、キュッ、とマーカーが走る音が響く。
彼が書き殴ったのは、複雑な折れ線グラフだった。
「いいか、よく見ろ」
彼はポインターでグラフの低い位置をバシッと叩いた。
「通常時、および『シャークトルネード』シリーズ鑑賞時におけるオレの心拍数は、平均して120前後だ。サメが空から降ってくる興奮状態であっても、この数値を維持している」
「基準がサメ映画な時点でおかしいんだけど」
「だが!」
彼は私のツッコミを無視して、グラフが急上昇している赤いラインを指し示した。
それは、天井を突き破らんばかりの急勾配を描いている。
「先ほど、コックピット内でまーちゃんと接触した際……数値は瞬間的に180を超えた」
「ひゃくはちじゅう!?」
「異常事態だ。さらに、脳内物質の分泌量をシミュレートした結果、ドーパミン、オキシトシンの濃度が通常の3倍以上を記録している」
彼は真顔で、汗を滲ませながら力説する。
「この数値は、致死量に近い。あるいは、重度の中毒症状だ」
「……そ、それで?」
私は圧倒されながら聞いた。
「最初は、システムのバグを疑った。生体センサーの故障、もしくはオレの脳内に未知のウイルスが感染し、エラーを引き起こしている可能性だ」
彼はホワイトボードに『BUG』『VIRUS』と書き、その上に大きく『×』印をつけた。
「だが、機材の再チェック、およびオレ自身のMRI検査の結果……すべて『正常』を示した。バグではない。ウイルスでもない」
彼は指示棒をデスクに置いた。
カラン、と乾いた音が響く。
彼は肩で息をしながら、私の方へ向き直った。
「論理的に可能性を一つずつ潰していった結果……残った可能性は、一つしかない」
スッ。
恭弥の手が、自分の顔に伸びた。
彼の一部とも言える、銀縁の眼鏡。
それを、ゆっくりと外す。
「……あ」
眼鏡が外された素顔。
レンズというフィルターを通さない、彼のアイスブルーの瞳が露わになる。
彫りの深い顔立ち。通った鼻筋。
疲れたように目の下に薄い隈があるけれど、その瞳は熱を孕んで、潤んでいるように見えた。
悔しいけど――私は息を飲んだ。
眼鏡外したら、余計にキリッとして……カッコいいじゃん、この変人。
いつもの理屈っぽいマッドサイエンティストの仮面が剥がれて、ただの「男」の顔がそこにあった。
彼はデスクの上の論文を手に取り、パラパラとめくった。
そして、最後の一枚――結論のページを開き、私に突きつけた。
「読め」
私は恐る恐る、その紙面を見た。
そこには、それまでの無機質な数式やグラフは一切なかった。
代わりに、少し震えた、力強い手書きの文字で、たった一行だけ記されていた。
『結論: 私は、一条茉莉子を愛している』
「…………ッ!!」
ボッ!!
音が聞こえる勢いで、私の全身の血が沸騰した。
な、なにこれ。
なんなのこれ!?
「ばっ、バカじゃないの!?」
私は思わず叫んでしまった。
論文を持つ手が震える。
「なによこれ! なんで論文!? なんで結論!? こんな……こんな理屈っぽくて、めんどくさい告白ある!?」
顔が熱い。耳まで真っ赤だ。
バカみたい。本当にバカみたい。
でも、数式で埋め尽くされた分厚い紙束の最後が、こんなにシンプルな言葉だなんて。
愛おしすぎて、どうにかなりそうだ。
恭弥はフッと、自嘲気味に笑った。
眼鏡のない瞳が、優しく細められる。
「エラーコードじゃない。……これが、オレの出した『解』だ」
彼はスクリーンを離れ、こちらへ歩いてきた。
一歩、また一歩。
ドサッ。
彼が、私の隣のソファに座った。
ソファが重みで沈む。
近い。
シャツ越しの体温が伝わってくる。
「な、なによ……」
私は紅潮した顔を隠すこともできず、彼を見上げた。
至近距離で見る彼の素顔は、破壊力が高すぎる。
「検証は終わった」
恭弥は何も言わず、じっと私を見つめたまま、さらに距離を縮めてきた。
私の膝に、彼の手が触れる。
逃げ場がない。
背もたれと、彼の腕の中に閉じ込められる。
彼の顔が近づいてくる。
整った鼻梁。薄い唇。
そして、私を映して揺れる、綺麗な色の瞳。
あっ……
私は悟ってしまった。
この距離。この空気。
もう、避けられない。
私、いまから……
彼の吐息が、頬にかかる。
キスするのか……この変人と。
私はゆっくりと、目を閉じた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・職業:論文の結論(=愛された女)
現在のステータス
・魅力:S(変人科学者の論理を破壊し、「愛」というバグを植え付けた)
・メンタル:B(めんどくさい告白にキュン死寸前)
新規獲得アイテム
・【愛の論文】:総ページ数120枚。世界一重くて、理屈っぽいラブレター。
・【恭弥の素顔】:眼鏡というリミッターが外れた、危険な兵器。
【明菜の分析ログ】
あらあら、ご熱いこと。
「好き」の一言を伝えるために、論文を一冊書いちゃうなんて。
理系男子の愛って、質量が重すぎて尊いわねぇ。
でも、ここからが本番よ。
彼は言ったわよね? 「理論は証明された」って。
科学者にとって一番大事なのは、理論の後の「実証実験」よ。
濃厚なデータの収集……耐えられるかしら、まーちゃん?




