第三十記録【バルコニーの共犯者】
ワルツが終わると同時に、私たちは賞賛という名の檻に囲まれた。
「素晴らしかったよ、桐生くん!」
「彼女はプロのダンサーかね? いやはや、美しい!」
次々と押し寄せる称賛の言葉。
レオさんは完璧な笑顔で応対している。グラスを掲げ、礼を述べ、握手をする。
隙がない。あまりにも完璧な「王子様」だ。
けれど、私にはわかった。
彼の瞳が、死んでいることに。
光を失ったガラス玉のように、何も映していない。
限界って顔してる。
私はそっと、彼のタキシードの袖を引いた。
「……ねぇ。少し、風に当たりに行きませんか?」
レオさんがこちらを見る。
一瞬、虚を突かれたような顔をして――すぐに、心底安堵したようにニッと笑った。
「いいね。エスケープしよう」
私たちは人混みを巧みにすり抜け、会場の隅にある重厚なカーテンの隙間へと滑り込んだ。
ガラス戸を開ける。
ヒュオオ……。
冷たい夜風が、火照った頬を撫でる。
そこは、ホテルの広大なバルコニーだった。
人気はない。遠くに見える東京の夜景だけが、宝石箱をひっくり返したように輝いている。
パタン。
ガラス戸を閉めると、会場の喧騒が嘘のように遠ざかった。
「はー……疲れた」
レオさんが手すりに歩み寄り、大きく息を吐き出した。
彼は蝶ネクタイを緩め、第1ボタンを外す。
その仕草だけで、纏っていた王子様の鎧が剥がれ落ちていくようだ。
「人間って、どうしてああも中身のない会話が好きなんだろうね」
彼は手すりに背中を預け、会場の方を冷めた目で見やった。
そこには、気怠げで、どこか棘のある素のレオさんがいた。
「『君のドレスは素敵だ』『今期の業績は順調だ』……全部、記号の羅列だ。誰が喋っても同じ」
「中身がないのは、レオさんも一緒でしょ」
私が言うと、彼は眉を上げた。
私は近くのウェイターから掠め取ってきていた、二つのワイングラスのうちの一つを彼に差し出した。
よく冷えた白ワインだ。
「はい」
「ありがとう」
彼はグラスを受け取り、一口飲むと、苦笑した。
「君、本当に口が悪いね。……でも、正解」
彼は夜景の方へ向き直り、グラスを傾けた。
「僕には、あの中の誰も彼もが同じ顔に見えるんだ。欲と見栄で塗り固められた、精巧なマネキン。僕自身も含めてね」
その言葉は、自嘲と言うにはあまりにも淡々としていて。
深い虚無の底から響いているようだった。
私はドレスの裾が汚れるのも構わず、彼隣の手すりに肘をついた。
「私も、そう見えてた時期がありました」
「え?」
「中学生の頃。演劇部でね」
私は夜の闇に向かって、ポツリと語り出した。
誰にも――明菜以外には話したことのない、古傷の話。
「自分では完璧に演じているつもりだったのに、先輩に言われたの。『アンタの演技は嘘くさい』『中身がない人形みたいで気味が悪い』って」
レオさんの手が止まる。
「それ以来、周りの人間がみんな仮面を被った怪物に見えるようになっちゃって。だから私も、もっと分厚い仮面を被って、誰にも中身を見せないようにしたんです」
「……」
レオさんは何も言わずに聞いていた。
同情も、慰めもない。
ただ静かに、私の言葉を咀嚼している。
やがて、彼はふっと息を漏らした。
「似てるね、僕たちは」
「そうかも……」
「空っぽで、嘘つきで。……世界を斜めに見てる」
彼は夜景を見つめたまま、独り言のように呟いた。
「だからかな。君といる時だけ、息が吸える気がするんだ」
その言葉はあまりにも弱々しく、寂しげで。
いつもの意地悪な嘘の匂いがしなかった。
私は隣に立つ彼の、手すりに置かれた手を見た。
白くて、形が良くて、どこか冷たそうな手。
「私も、レオさんの前だと、演技しなくていいから楽かな」
私は彼を見上げて、ニカっと歯を見せて笑った。
令嬢スマイルじゃない。
部屋でゲームをしている時のような、無防備な笑顔。
「性格悪いってバレてるし。取り繕う必要ないもん」
そう言って、私は手の中の白ワインを、まるでスポーツドリンクか栄養ドリンクのように、グイッと一気飲みした。
「ぷはーっ! 生き返るー!」
空になったグラスを掲げる私を見て、レオさんが目を丸くした。
そして。
「くくっ、あはははは!」
声を上げて笑い出した。
お腹を抱えて、涙目になるくらい楽しそうに。
「君ってやつは…… さっきダンスの時に『どこかの貴族か』って聞いたの、前言撤回させてくれ。そんな飲み方する令嬢がいてたまるか」
「失礼ね。これでも由緒正しきお家柄だよ? 多分……」
「はいはい、わかってるよ」
彼はひとしきり笑うと、優しい目になった。
虚無が消え、人間らしい温度が宿った目。
彼の手が動いた。
手すりの上にあった私の手に、そっと重ねられる。
冷たい。
でも、嫌じゃない。
彼は私の指の間に自分の指を滑り込ませた。
お互いの指を複雑に絡ませ、あやとりのように縺れ合わせる。
ギュッ。
彼が力を込めた。
ギリギリと、骨が軋むほど強く。痛いくらいに。
「痛い?」
「ううん。……ちょうどいい」
私も握り返した。
爪が食い込むくらい強く。
握手でも、愛撫でもない。
これは確認だ。
この空っぽな世界で、私たち二人だけが「共犯者」であるという、痛みを伴う確認作業。
触れ合っている指先から、彼の孤独と、私の孤独が混ざり合うのがわかった。
言葉はいらない。
この痛みだけが、真実だ。
しばらくそうしていた後、レオさんがゆっくりと手を解いた。
「……そろそろ戻ろうか。嘘つきたちの世界へ」
彼はまた、完璧な仮面を被り直す。
でも、私に向けられた瞳だけは、共犯者に送る合図のように瞬いていた。
「はい。……完璧に騙してやりましょう」
私は空のグラスを彼に預け、不敵に笑った。
「あ、でもその前に……戻ったらあのオードブルの端っこのやつ食べたいなー。お腹空いちゃった」
「君、本当にブレないね」
レオさんは呆れたように、でも楽しそうにクスクスと笑った。
私たちはガラス戸を開け、再び光と喧騒の渦中へと足を踏み入れた。
会場に戻ってきた二人の足取りは、来る時よりも堂々としていた。
周囲の視線も、社交辞令の嵐も、もう何も怖くない。
二人には、誰にも暴けない秘密の共有があるのだから。
その様子を、会場の柱の陰から見つめる影があった。
紫のドレスを着た悪魔――明菜だ。
彼女は手の中にあるカードを一枚、音もなくめくった。
そこに描かれていたのは、月桂樹の輪の中に浮かぶ踊り子の姿。
【THE WORLD(世界)】
意味は「完成」「完全」「調和」。
彼女は満足げに、しかしどこか冷ややかに口角を上げた。
『完璧な二人ね。……お互いがお互いを完結させてる』
彼女はカードを胸元にしまい、喧騒の中に消えていく二人の背中を見送った。
『でも、気をつけて。何がとは言わないけど♡』
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・職業:嘘つきの共犯者
現在のステータス
・魅力:S(虚飾の世界で、唯一「本物」の輝きを放つ黒い宝石)
・メンタル:A(レオの虚無を受け入れ、対等な「共犯関係」を成立させた)
新規獲得アイテム
・【共犯者の痛み】:指を絡め合った時に感じた、言葉よりも確かな繋がり。
・【空白のワイングラス】:飲み干した白ワインと、二人の渇き。
【明菜の分析ログ】
お見事ね。
あの「王子様」に、寂しそうな顔をさせるとはね。
キスよりも深く、愛撫よりも痛く。
指先の痛みだけで繋がり合うなんて、最高に倒錯的でロマンチックじゃない?
彼はもう、アンタをただのオモチャとは見れないわ。
自分と同じ「孤独」を抱えた、唯一無二のパートナー。
その「特別」な席を手に入れた意味……わかってるわよね?




