第二十八記録【暗室の二人】
私は金縛りにあったように動けなかったが、彼がフッと短く笑うと、魔法が解けたように足が動いた。
吸い寄せられるように、ガラス戸をくぐってバルコニーへ出る。
「……また、見ちゃった」
夜風に吹かれながら、私は小さく呟いた。
先週の屋上ランチの時と同じ。
彼は私の前でだけ、こうして悪い顔を見せる。
凪はジャケットを脱いで手すりに掛け、乱暴に捲り上げたシャツの腕を組んだ。
「社長には内緒ね。……うるさいから、あの人」
「パパに見つかったら、ただじゃ済まないかもね」
「でしょ? 喫煙者は肩身が狭いんですよ」
彼は悪戯っぽく肩をすくめた。
言葉は軽いけれど、その瞳はどこか冷めている。
「ここは風が強くて寒いね」
凪は空を見上げた。
そして、私の手首を不意に掴んだ。
ひやりとする冷たい指先。
「もっといい場所、あるんだけど」
「え?」
「来るでしょ? お姉さん」
有無を言わせぬ握力。
彼は私を引いて、社長室の中へと戻った。
でも、出口の方じゃない。
彼が向かったのは、部屋の最奥にある重厚な書棚の裏側だった。
カチャリ。
彼が壁のパネルを操作すると、書棚の一部が音もなくスライドした。
そこには、防音仕様の重い鉄扉があった。
「ここ、社長が昔、趣味で使ってた暗室。今はデジタル移行しちゃって使わないから、俺が借りてんの」
「暗室……?」
「どーぞ」
彼は私を中に押し込み、自分も入ると、内側から厳重に鍵をかけた。
カチャ、リ……。
金属音が密室の完成を告げる。
真っ暗闇。
何も見えない。
ツン、とした酸っぱいような薬品の匂い。
「電気、点けるよ」
ボウッ……。
スイッチが入ると同時に、世界が赤く染まった。
「……うわぁ」
天井の安全灯だけが灯る、赤一色の空間。
視界の色彩が奪われ、距離感が狂う。
まるで深海か、誰かの胎内にいるような、非日常的な閉塞感。
部屋の中央には現像用の流しがあり、その上にはロープが張り巡らされていた。
そこには、現像されたばかりの無数の写真が、木製のクリップで吊るされていた。
「新しい写真、見てくれる?」
凪がシンクにもたれかかりながら、顎で写真をしゃくった。
私は恐る恐る近づき、赤い光の中で揺れる印画紙を覗き込んだ。
「え?」
そこに写っていたのは、風景でも、会社の資料でもなかった。
私だった。
それも、先日のデートで撮ったキメ顔の写真じゃない。
パンを大口で頬張っている顔。
会議中にこっそりあくびを噛み殺している顔。
大樹の背中を見て、間抜けに口を開けて驚いている顔。
眉間に皺を寄せてスマホゲームに熱中している顔。
全部、私。
全部、誰にも見せていないはずの、隙だらけの私。
「ちょ、ちょっと! いつの間にこんなの!?」
私は顔から火が出る思いで叫んだ。
こんなブサイクな瞬間、撮られた記憶すらない。
いつ撮ったの? どこから見てたの?
「いい顔するなぁと思って」
背後から、凪の声が近づいてくる。
「みんなさ、カメラ向けると『いい子』の顔するでしょ。作り笑いして、一番いい角度で、自分を良く見せようとする」
彼の指先が、吊るされた私の写真を弾いた。
写真はくるくると回る。
「俺、そういうの嫌いなんだよね。……見飽きてるから」
彼の声に、冷たい色が混じる。
それは、ただの秘書とは思えない、もっと深い闇を見てきたような響きだった。
彼は私の真後ろに立ち、私の肩越しに写真を見つめた。
「俺が撮りたいのは、仮面被った『一条さん』じゃない」
耳元に、彼の吐息がかかる。
「俺だけに見せてくれる、こういう……無防備で、隙だらけの顔」
ゾクリと、背筋に電流が走った。
「は、恥ずかしいから捨ててよ!」
私は慌てて写真に手を伸ばし、隠そうとした。
でも、彼の手が私の手首をガシッと掴んで止めた。
「無理だよ。フィルムだし。もう、焼き付けちゃったし」
グイッ。
強い力で引かれ、私の体は反転させられた。
背中が冷たいステンレスのシンクにぶつかる。
「あっ……」
逃げ場がない。
後ろは冷たい流し台。前には、凪の体温。
彼は両手を私の左右のシンクの縁につき、完全に私を囲い込んだ。
赤い光の中、彼の顔が浮かび上がる。
その瞳は、赤い照明を受けてなお、深く黒く光っていた。
ファインダー越しに獲物を狙う、あの肉食獣の目だ。
やばい……逃げなきゃ……
私の脳内アラートが鳴り響く。
と、とりあえずここで、スキルを発動。
【スキル・敵意感知、発動……!】
ピピピッ……ガガガッ!
【エラー発生! フェロモン濃度が高すぎます!】
【警告:システム障害。赤色の光により正常な判断ができません】
ダメだ。
タバコの残り香と、現像液のツンとする匂い。
そして、彼の放つ危険な色気に当てられて、脳内CPUが熱暴走を起こしている。
「逃げろ」という指令と、「抱かれたい」という本能が混線して、体が動かない。
「茉莉子さん」
凪が、私の頬にそっと手を添えた。
冷たい指先。
昼間、私の首筋をなぞった、あの指だ。
「この写真のお姉さん……無防備すぎて、そそられる」
「……ッ」
唆られる。
その言葉の響きが、粘り気を持って耳に絡みつく。
いやらしい。
直接触れられるよりも、もっと深く侵食されるような言葉。
彼が顔を近づけてくる。
角度が変わる。
鼻先が触れそうな距離。
彼の睫毛の一本一本まで見える。
キ、キスされる。
大樹の時のような、勢い任せのキスじゃない。
じわじわと追い詰められて、逃げ場をなくされて、心まで暴かれるようなキス。
私は観念して――いや、期待して。
ギュッと目を閉じた。
唇が、わななく。
彼の吐息が唇にかかる。
……。
…………。
数秒の沈黙。
赤い闇の中、薬品の匂いだけが濃くなる。
触れない。
唇が、重ならない。
「……くくっ」
不意に、彼が小さく笑った。
パッ。
気配が遠ざかる。
目を開けると、凪が体を離し、楽しそうに私を見下ろしていた。
「……え?」
私が間抜けな声を漏らすと、彼はニヤリと口角を上げた。
「続きは、また今度」
彼は手を伸ばし、壁のスイッチをパチンと切り替えた。
チカッ、ボウッ。
赤いセーフライトが消え、無機質な白い蛍光灯が点灯する。
一瞬で、世界が現実に引き戻された。
眩しさに目を細める私の前で、凪はいつもの「人懐っこい秘書」の顔に戻っていた。
でも、その瞳の奥には、獲物をいたぶって楽しんだ後のような、残酷な色が残っている。
「ここで手を出したら、社長に殺されちゃうしね」
嘘だ。
社長が怖いからじゃない。
私が期待して目を閉じた顔を見て、満足したから止めたんだ。
この男、性格が悪すぎる。
でも、その笑顔が憎らしいほど魅力的で……私は何も言い返せなかった。
「送りましょうか? お嬢様」
暗室を出ると、彼はスマートに私をエスコートした。
何事もなかったかのように。
私はエレベーターホールまで送られ、呆然としたまま彼と別れた。
手の中には、一枚の写真が握らされていた。
去り際に、彼が私のポケットにねじ込んだものだ。
エレベーターの中で、その写真を見る。
写っていたのは、暗室で見た中で一番恥ずかしい写真。
口を半開きにして、完全に気の抜けた顔で大あくびをしている私。
裏には、走り書きで一言。
『Nice face :)』
「……あいつ、絶対わざとだ」
私は写真を握りしめ、赤くなった顔を手で覆った。
キスはされなかった。
触れられもしなかった。
なのに。
大樹とのキスよりも深く、心を、そして本能を侵食された気がした。
「悔しい」
エレベーターの鏡に映る私は、確かにネクタイが緩んで、ひどく無防備な顔をしていた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・職業:被写体(盗撮被害者)
現在のステータス
・魅力:A(「唆られる」と言わしめた隙だらけの表情。天然の武器ね)
・メンタル:C(寸止めによる欲求不満と、羞恥心でオーバーヒート中)
新規獲得アイテム
・【赤色の密室】:正常な判断力を奪う結界。
・【あくび顔の写真】:凪の歪んだ愛情の証。
【明菜の分析ログ】
あ〜あ、やられちゃったわね。
「キスしない」っていうのが、一番のエロティックだって知ってた?
彼はアンタの唇じゃなくて、脳髄にキスしたのよ。
これでアンタは、家に帰っても、寝ても覚めても、あの赤い部屋のことを思い出しちゃう。
「人狼」のマーキングは、痛みだけじゃないのね。
恐ろしい子。
さぁ、骨抜きにされた次はどうする?




