第二十七記録【秘書の聖域】
四月十六日、火曜日。
「直之、どう? これ」
私は特別監査室の全身鏡の前で、くるりと回ってみせた。
今日の装備は、明菜プロデュースの『デキる女のパンツスーツ』だ。
普段のスカートスタイルとは違う、メンズライクな装い。
パリッとした白シャツに、細身の黒いパンツスーツ。そして首元には、細めの黒いネクタイを締めている。
「お嬢様……! 凛々しゅうございます! 宝塚の男役トップスターのようで!」
直之がサングラスの奥で目を潤ませている。
『マキャベリは言ったわ』
鏡の中から明菜がニヤリと笑う。
『「目的は手段を正当化する」ってね。今日のミッションは“秘書室潜入”。形から入って、あの完璧な城主の懐に潜り込むのよ!』
潜入って……パパの代理で留守番するだけでしょ?
今日のパパは終日外出。表向きは経団連の会合だが、どうせ私と凪を二人きりにするための画策だ。
私はネクタイの結び目をいじりながら、部屋を出た。
目指すは、このビルの心臓部――社長室。
コン、コン。
「失礼します」
重厚な扉を開けると、そこは静寂に包まれた空間だった。
分厚い絨毯が足音を吸い込む。
広大なデスクの向こうで、パソコンに向かっていた青年が顔を上げた。
雨宮 凪。
完璧に着こなしたダークスーツ。
黒髪のウルフカットが、今日はワックスで少しタイトにまとめられている。
「おはようございます、茉莉子さん」
彼は立ち上がり、柔らかな笑みを向けた。
年下なのに、私より遥かに場慣れした、余裕のある佇まい。
「お、おはよう。今日一日、よろしくね」
私が中に入ると、彼は私の姿を見て、少しだけ眉を上げた。
「へぇ。……パンツスーツですか」
彼の視線が、足元から頭のてっぺんまで、ゆっくりと値踏みするように動く。
「似合ってますよ。なんか……禁欲的でイイですね」
さらりと言われた言葉に、喉が詰まる。
禁欲的って、褒め言葉なのか?
午前中。
私は「業務補佐」として張り切っていたのだが、現実は厳しかった。
「あ、茉莉子さん。その資料は触らなくて大丈夫です」
「わかった」
「電話? いえ、僕が出ます。海外のクライアントなので」
「わかった」
「お茶出しは僕がやります。先方は温度にうるさいので」
「わかった……」
……手が出せない。
凪の仕事ぶりは、完璧すぎた。
電話がかかってくれば、流暢な英語と中国語で対応し、クレーム処理も笑顔一つで沈静化させる。
スケジュール管理は分刻みで、パズルのように美しい。
彼はデスクに座ったまま、まるで指揮者のように社長室という空間を支配していた。
すごい……。
私より年下なのに。社歴が長い分、ここでは完全に彼が上だ。
普段の人懐っこい笑顔はそのままに、一切の隙がない。
「……私、いる意味ある?」
ソファで膝を抱えてボヤくと、凪がキーボードを叩く手を止めずに答えた。
「ありますよ。そこにいてくれるだけで、殺風景な部屋が華やぎますから」
「置物扱いじゃん」
「綺麗な置物は、高いんですよ?」
彼はチラリとこちらを見て、悪戯っぽく笑った。
扱いが上手い。完全に手のひらで転がされている。
午後。
暇を持て余した私は、せめて何か役に立とうと、資料棚の整理を勝手に始めた。
「よいしょ……」
高いところにあるファイルを取ろうとして、脚立に登る。
「あっ、茉莉子さん。そこは――」
凪が止めようとした、その時。
バササササッ!!
ファイルが重すぎて、手から滑り落ちた。
大量の書類が雪崩のように私の上に降り注ぐ。
「わぷっ!」
紙吹雪の集中砲火。
私は頭を守ってしゃがみ込んだ。
「はぁ……」
呆れたようなため息が聞こえた。
すぐに足音が近づいてくる。
「大丈夫ですか?」
凪が私の腕を掴み、脚立から降ろしてくれた。
散らばった資料には目もくれず、私の顔を覗き込む。
「怪我は?」
「な、ない……ごめん、散らかしちゃって……」
私は恥ずかしさで小さくなった。
髪はボサボサ、ジャケットは着崩れ、ネクタイもひん曲がっている。
デキる女どころか、ダメな新人丸出しだ。
凪は私の襟元を見て、ふっと目を細めた。
「じっとしててくれないと、目が離せないですね」
低い声。
仕事用のトーンじゃない。
彼の手が伸びてくる。
「ネクタイ、曲がってるよ」
「あ、自分でや……」
「いいから」
彼は私の手を払い、襟元に指をかけた。
緩んだネクタイの結び目を持ち上げる。
キュッ。
首が締まる感覚。
苦しくはない。むしろ、心地よい拘束感。
彼は丁寧にノットを整えると、その人差し指を滑らせた。
結び目から、シャツの襟の隙間へ。
ツーッ……。
「ひゃっ」
冷たい指先が、私の首筋――頸動脈の上を、ゆっくりと撫で上げた。
「……ッ」
背筋が跳ねる。
至近距離。
見上げると、彼の瞳が至近距離で私を射抜いていた。
「脈、速いですね」
耳元での囁き。
あの時の、耳を噛まれた記憶がフラッシュバックする。
私はカチコチに固まって、息をするのも忘れた。
「……ふふ」
彼は満足げに笑うと、私の肩をポンと叩いて離れた。
「はい、綺麗になりました。……次は気をつけてくださいね?」
ニコッ。
いつもの有能な秘書の顔に戻っている。
……ずるい。
今の、絶対わざとだ。
定時を迎え、私は逃げるように社長室を出た。
「今日はありがとうございました。お疲れ様でした」
「お疲れ様です。気をつけて」
爽やかに見送られたけど、私の心臓はまだバクバクしていた。
仕事中は完璧なのに、ふとした瞬間に見せる男の顔。
そのギャップに、一日中振り回されっぱなしだった。
エレベーターホールで一息つく。
「はぁ……疲れた……」
帰って寝よう。
そう思ってポケットを探ると――。
「あ」
ない。スマホがない。
さっき、応接セットで休憩した時に置き忘れたんだ。
「うわ、最悪……戻らなきゃ」
私はため息をつき、引き返した。
そっと社長室のドアを開ける。
鍵は開いていた。
「失礼しまーす……」
中は薄暗くなっていた。
デスクに凪の姿はない。帰ったのかな?
私はソファの隙間にあったスマホを回収し、ほっと胸を撫で下ろした。
その時。
部屋の奥、役員専用バルコニーへのガラス戸が少し開いているのに気づいた。
風に揺れるレースのカーテン。
私は吸い寄せられるように近づいた。
夕闇の中。
バルコニーの手すりにもたれかかっている人影があった。
凪だ。
彼はジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖を無造作に捲り上げていた。
完璧だったネクタイも緩められ、第2ボタンまで開いた胸元が見えている。
そして。
その細い指先には、タバコが挟まれていた。
スーッ……。
彼が深く煙を吸い込む。
頬がこけ、長い睫毛が影を落とす。
ふぅーっ……。
夜空に向かって、長く、長く煙を吐き出す。
紫煙が風に流れていく。
「……」
私は息を飲んだ。
そこにいるのは、昼間の「完璧な秘書」でも、「人懐っこい年下」でもなかった。
冷たくて、昏くて、どこか退廃的な――「大人の男」。
見てはいけないものを見てしまった背徳感。
でも、目が離せない。
悔しいくらいに、絵になりすぎている。
その時。
彼が気配に気づいて、ゆっくりと振り返った。
目が合う。
彼は、慌ててタバコを消したりしなかった。
隠そうともしなかった。
煙越しに、細めた目で私をじっと見据えている。
「忘れ物?」
低い声。
昼間よりもハスキーで、空気に溶けるような響き。
「あ、うん……スマホ……」
私が答えると、彼はフッと口角を上げた。
自嘲気味な、でもどこか挑発的な笑み。
「ここなら、誰にも見られないと思ったんだけどな」
彼はタバコの灰を携帯灰皿に落とすと、手招きをした。
クイッ、と。
「こっち、来れば?」
「えっ」
その誘いは、明らかに仕事の範疇を超えていた。
踏み込んだら戻れない、危険な領域への招待状。
タバコの香り。
夕闇に溶ける彼のシルエット。
私は動けなかった。
逃げなきゃいけないのに、足が縫い付けられたように動かない。
彼の背後の夜景よりも、彼自身の瞳の闇の方が、深く私を誘い込んでいた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.00
・氏名:九条茉莉子
・職業:聖域への侵入者
現在のステータス
・魅力:A(マニッシュな装いが、逆に「剥きたい」欲を刺激した模様)
・メンタル:C(仕事モードとオスモードの落差に翻弄中)
新規獲得アイテム
・【秘書のネクタイ】:完璧な結び目と、それを緩める瞬間の色気。
・【紫煙の香り】:残り香だけで酔える、大人のアイテム。
【明菜の分析ログ】
やるわねぇ。
「完璧な仕事人」の皮を一枚剥いだら、そこには「退廃的なオス」がいた。
タバコを吸う男の横顔……。
あれは反則よ。ニコチンよりも中毒性が高いわ。
さぁ、手招きされちゃったけど、どうする?
あのガラス戸の向こうは、もう「会社」じゃないわよ。
二人だけの「密室」よ。
行く? 行かない?
……ま、アンタに拒否権なんてなさそうだけどね♡




