第二十六記録【夕焼けの誓い】
午後五時半。
バラバラバラ……。
プレハブ小屋の屋根を叩き続けていた激しい雨音が、次第に小さくなっていった。
「……ん。弱まったな」
私の肩を抱いていた大樹が、そっと腕を解いた。
密着していた体温が離れる。急に寒くなった気がして、私は少し身を縮めた。
「止んだみたいだね」
「通り雨だったな」
大樹が立ち上がり、引き戸をガラリと開けた。
湿った風と共に、西日が差し込んでくる。
「ふぅ……。とりあえず本社に戻るか?」
彼が振り返って聞いた。
私は頷こうとして――彼の視線が、ふと上空、建設中のビルの最上階へ向けられていることに気づいた。
職人の目だ。
「現場、気になる?」
私が聞くと、彼はバツが悪そうに鼻を擦った。
「あー……まあな。今の豪雨でシートが飛んでねぇか、一応確認しときてぇ。……茉莉子ちゃんは先に帰っててもいいぞ?」
「ううん。付き合うよ」
私は立ち上がった。
まだ帰りたくなかった。さっきの雷で中断された言葉の続きが、気になって仕方なかったから。
「一人じゃ危ないでしょ? 命綱、持ってるの私だし」
私が安全帯を見せると、大樹はパッと顔を輝かせた。
「へへっ、頼もしいね! じゃあ、最後に一っ走り付き合ってくれ!」
ガガガガガッ……。
再び、工事用エレベーターが上昇していく。
さっき降りてきたばかりの道を、また登る。
狭いカゴの中。二人きり。
さっきのプレハブでのハグを思い出して、会話が続かない。
機械音だけが響く中、チラチラと目が合うたびに、お互いすぐに逸らしてしまう。
チン。
到着音が鳴った。
鉄格子を開け、屋上へと足を踏み出す。
その瞬間。
「うわぁ……」
私は息を飲んだ。
そこには、黄金の世界が広がっていた。
西の空に、燃えるような夕日。
分厚い雨雲が割れ、その隙間から強烈な光が差し込んでいる。
濡れた鉄骨や水たまりが、夕日を反射して神々しいほど輝くマジックアワー。
「よし、養生も無事だな。飛ばされてない」
大樹がブルーシートの固定を確認し、満足げに頷いた。
彼はタオルで首元の汗を拭うと、ゆっくりと私の方を振り返った。
逆光で、彼の表情が見えにくい。
でも、そのシルエットからは、さっきプレハブ小屋で感じたのと同じ、真剣な気配が漂っていた。
「……さっきの続き、いいか?」
「えっ」
心臓が跳ねた。
さっきの続き。雷にかき消された、あの言葉。
「あ、あの……大樹?」
私が後ずさりしようとすると、彼は一歩踏み出して距離を詰めた。
逃がさないというように。
「俺は頭も良くねぇし、気が利いたことも言えねぇ。……でも」
彼は私の両肩をガシッと掴んだ。
熱い掌。
力が強い。でも、痛くはない。
「茉莉子ちゃんが危なっかしくて、放っとけねぇんだよ。今日みたいに、俺が支えてないとどっか行っちまいそうで」
夕日に照らされた彼の瞳。
琥珀色が、燃えるように輝いている。
そこには、迷いも、嘘も、駆け引きもなかった。
ただ真っ直ぐな、熱情だけ。
「だから、俺が守ってやる」
彼は宣言した。
まるで、世界の理を決めるかのように力強く。
「一生、俺のそばにいろ」
ドクンッ!!
時が止まった。
一生?
それって、プロポーズ?
あまりの直球に、私は言葉を失った。
顔が熱い。夕日のせいじゃない。全身の血液が沸騰しそうだ。
「……へ、へんじ……」
私が何か言おうと口を開いた、その瞬間。
グイッ。
強い力で引き寄せられた。
抵抗不可。
「んっ……!?」
彼の顔が迫り、視界が塞がれる。
そして。
唇に、温かくて柔らかい感触が押し付けられた。
キス。
以前の間接キスや、無理やり突っ込まれたちくわとは違う。
直接的な、唇と唇の接触。
彼の唇は少し荒れていて、カサついているけれど。
でも、驚くほど熱くて、柔らかかった。
舌が入ってくるようなテクニックはない。
ただ押し付けるような、不器用で、でも情熱的なキス。
……っ
鼻腔を満たすのは、雨上がりの匂いと、彼の汗の匂い。
そして、男の人の匂い。
ちくわの味、しない。
男の人の……味がする。
私の脳内が真っ白になった。
足の力が抜けて、へなへなと崩れ落ちそうになる。
でも、大樹の太い腕が、私の腰をしっかりと支えていた。
絶対に離さないとばかりに。
長いような、一瞬のような時間が過ぎ。
彼がゆっくりと唇を離した。
「……」
至近距離で見つめ合う。
彼の顔も、夕日に負けないくらい赤くなっていた。
大樹は照れくさそうに、でも誇らしげにニカっと笑った。
その笑顔があまりにも眩しくて。
私は何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。
夕焼けの空の下。
私たちは、命綱よりも強い何かで結ばれてしまったのかもしれない。
九条家、ダイニングルーム。
私は風呂上がりのパジャマ姿で、長いテーブルについていた。
目の前には、直之特製の極上フィレステーキ。
でも、私の食欲は怒りによって掻き消されていた。
ガチャン!
フォークを皿に突き立てる。
「ちょっとパパ! どういうつもり!?」
私は向かいの席でワインを揺らしている父・壮一郎を睨みつけた。
「今日の現場、マジで死ぬかと思ったんだけど! 地上200メートルだよ!? 吹きっさらしだよ!? 命綱あっても落ちたらトラウマもんよ! 労災認定されるレベルだよ!」
私の剣幕に、父は全く悪びれずにヘラヘラと笑った。
「ごめんねぇ〜♡ 可愛いまりちゃんを危ない目に合わせちゃって〜!」
「反省してない!」
「でもでもぉ! パパ、信じてたもんね〜! まりちゃんなら『吊り橋効果』で恋に落ちるって! 現場の男の汗と筋肉……どうだった? キュンとした?」
父はウキウキと身を乗り出してくる。
やっぱり確信犯だ。このタヌキ親父、最初から計算ずくだったんだ。
「……」
キュンとしたか、と言われれば。
夕焼けのキスを思い出して、顔が熱くなる。
否定できない自分が悔しい。
『アンタねぇ』
呆れた声が横から聞こえた。
明菜だ。
彼女はテーブルの上にドカッと腰掛け、勝手にパパの高いヴィンテージワインをボトルごとラッパ飲みしている。
『文句ばっかり言ってるけどさ』
彼女は唇についたワインを指で拭い、ニヤリと意地悪く笑った。
『死にかけたより、「イイこと(キス)」したくせに。なんて強欲な娘かしら』
「ぶっ!!」
私はステーキを吹き出しそうになった。
口の中の肉を必死に飲み込む。
う、うるさい! あれは不可抗力! 事故! カウントしない!
『あらそう? 満更でもない顔してたけど?』
明菜はパッと虚空からカードを取り出し、テーブルに並べた。
【THE SUN(太陽)】
【STRENGTH(力)】
『今日の成果よ。太陽の下で、力強い愛をゲット。……これ以上ないハッピーエンドじゃない』
彼女はカードを指先で弾く。
『でも、これで終わりじゃないわよ?』
シャカシャカ、とカードを切る音が響く。
そして、次なるターゲットを示すカードを一枚、テーブルに叩きつけた。
バンッ!
【THE HIEROPHANT(法王)】
厳格な法王が描かれたカード。
意味は「規律」「契約」「伝統」。
『次はこれ。法王……つまり、社長の側近であり、規律を守る者』
明菜が私を見据える。
『雨宮 凪。……あの「人狼」秘書の番よ』
ンナ!
凪。
あの耳噛み事件以来、まともに顔を合わせていない。
次は彼か。
ふと、昼間の大樹の笑顔が脳裏をよぎる。
「俺が守る」と言ってくれた、真剣な表情。
不器用なキス。
あんなに真剣に……私を……
ズキッ。
胸が痛んだ。
私は彼の気持ちを利用しているだけなんじゃないか?
「婿探し」というミッションのために、彼の純情を踏みにじっているんじゃないか?
罪悪感が、どす黒く広がっていく。
「……」
私はフォークを置こうとした。
もう、やめようか。こんな不誠実なこと。
でも。
その時、頭の中に「ブラックカード停止」「回線切断」「PC没収」という地獄の未来予想図が浮かんだ。
ダメよ、私!
ここで止まったら、私のオタクライフが死ぬ!
私はガバッと顔を上げた。
罪悪感を、物欲と生存本能で塗りつぶす。
「……やる」
私はステーキを大口で頬張り、無理やり飲み込んで立ち上がった。
「私は女優・九条茉莉子! パパの会社を継ぐ……じゃなくて、一生遊んで暮らすためにやるっきゃないのだから!!」
フォークを高く掲げ、高らかに宣言する。
「次のターゲットも、完膚なきまでに攻略してやるから! 覚悟してなさい!」
その宣言に合わせ。
部屋の隅に控えていた直之が、太い腕を突き上げた。
「さすがでございます、お嬢様!」
『イエ〜イ! その意気よ!』
明菜もボトルを掲げて乾杯する。
一人だけ状況が飲み込めていないパパが、キョロキョロと周りを見渡した。
「え? なになに? 何が始まるの? パパだけ仲間はずれ〜?」
私は生き残るために、悪女にでもなってやるんだから!
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・職業:罪悪感を食らう悪女(見習い)
現在のステータス
・魅力:A(不器用なキスを受け入れたことで、大人の階段を一歩登った)
・メンタル:B(罪悪感を物欲でねじ伏せる強靭さを獲得)
新規獲得アイテム
・【大樹のキス】:ちくわ味ではない、男の味。
・【法王のカード】:次なる試練への招待状。
【明菜の分析ログ】
ふふっ、いい顔するようになったじゃない。
罪悪感を抱えながらも前に進む……それが「魔性の女」への第一歩よ。
さぁ、次は厄介な相手。
「法王」の皮を被った「人狼」。
規律と本能の狭間で、アンタはどう立ち回る?
楽しみにしてるわよ、茉莉子♡




