第二十五記録【雨宿りと缶コーヒー】
ガガガガッ、ドン。
工事用の簡易エレベーターが、地上への到着を告げる重い音を立てた。
鉄格子の扉が開く。
「よし、無事帰還だな」
大樹が私の腰に手を伸ばし、二人を繋いでいた安全帯のフックをカチャリと外した。
プラーンと垂れ下がる黄色いロープ。
ほんの数十分前まで、あれが私の命綱であり、彼との物理的な「赤い糸」だった。
拘束が解かれ、自由になったはずなのに。
なぜか、腰のあたりがスースーして心細い。
地上200メートルでの、あの力強いハグの余韻が、まだ背中や腕に残っている気がした。
「ありがと。怖かったけど、なんかすごかった」
私が素直にお礼を言うと、大樹はニカっと笑ってヘルメットを小脇に抱えた。
「上からの景色、最高だったろ?」
「景色っていうか、大樹の背中しか見てなかったけどね」
「ニャハハ! それが一番の絶景だろ!」
相変わらずのポジティブさだ。
でも、不思議と嫌味に聞こえない。
私たちは並んで、現場事務所の方へと歩き出した。
空気が、妙に生温い。
さっきまでの爽快な風が止み、湿った重たい空気が肌にまとわりついてくる。
『あら……?』
空から明菜が舞い降りてきた。
彼女は怪訝な顔で、急速に灰色に染まっていく空を見上げた。
『セネカは言ったわ。「人生とは嵐が過ぎ去るのを待つことではない。雨の中でダンスをする方法を学ぶことだ」ってね』
彼女はパチンと指を鳴らし、ビニール傘を差した。
『……ま、ダンスどころじゃなさそうだけど。来るわよ』
「え?」
私が空を見上げた、その瞬間だった。
ポツッ。ポツッ。
冷たい雫が頬を打ち――。
ザアアアアアアアッ!!!!
「うわぁっ!?」
予兆もそこそこに、バケツをひっくり返したような猛烈なゲリラ豪雨が襲ってきた。
視界が真っ白になるほどの雨量だ。
地面の土埃が一瞬で泥水に変わる。
「うおっ、マジかよ! 降るとは聞いてたけど早すぎんだろ!」
一瞬で全身ずぶ濡れだ。
「茉莉子ちゃん! 本社までは戻れない! 走るぞ!」
大樹は着ていた作業着の上着を素早く脱ぐと、それを広げて私の頭上にかざした。
即席の傘だ。
「えっ、大樹が濡れちゃう……!」
「いいから入れ! 行くぞ!」
彼は私の肩をグイッと抱き寄せると、泥に足を取られないように庇いながら走り出した。
「きゃああっ!」
雨音と、泥の跳ねる音。
そして、ジャケットの下で密着する彼の体温。
相合傘ならぬ、相合ジャケット。
少女漫画みたいなシチュエーションだけど、現実はもっと泥臭くて、必死で、そして――熱い。
「あそこだ! あのプレハブ!」
彼が指差したのは、現場の隅にある資材管理用の古びたプレハブ小屋だった。
ガラララッ! バタン!
重い引き戸を閉めると、轟音のような雨音が少しだけ遠ざかった。
でも、屋根を叩くバラバラバラという音は凄まじく、密室の中に反響している。
「はぁ……はぁ……すげぇ雨……」
「ねぇ、びっしょり……」
六畳ほどの狭いプレハブ小屋。
パイプ椅子と長机、乱雑に積まれた工具箱とヘルメット。
埃っぽい匂いと、雨の匂いが充満している。
そして、何より。
「……」
目の前にいる大樹の存在感が、狭い空間を圧迫していた。
上着を私に貸したせいで、彼は黒のTシャツ一枚だ。
雨を吸った布地が肌に張り付き、岩のような胸筋や腹筋のラインが露わになっている。
濡れた茶髪から、ポタポタと雫が滴り落ちて、鎖骨を伝ってTシャツの中へと消えていく。
……目のやり場に困る。
色気が、暴力的すぎ。
一方の私も、ワークマン女子のつなぎが水を吸って重くなっていた。
中の服が肌に張り付いて、気持ち悪いけど……それ以上に、彼に見られているような気がして恥ずかしい。
「寒みぃな。……ほら、これ」
大樹が小屋の隅にある小型冷蔵庫から、缶コーヒーを取り出した。
あったか〜い、の赤文字。
「あ、ありがと……」
「握っとけ。ここエアコンないから、冷えると風邪引くぞ」
渡された缶コーヒーの熱さが、冷えた指先にジンと染み渡る。
微糖の甘い香り。
「タオル、タオルっと……お、あったわ」
彼は棚から新しいタオルを引っ張り出すと、私の頭にバサッとかけた。
「自分で拭けるか? ……いや貸して、俺がやる」
「えっ、自分で……」
言うが早いか、彼は私の頭をワシワシと拭き始めた。
先日の「わしゃわしゃ」とは違う。
力強いけれど、どこか壊れ物を扱うような、丁寧な手つき。
近い。
顔が近い。
彼の腕が動くたびに、熱気と、汗の匂いが私を包み込む。
うわぁ……
私の脳内メーターが警告音を鳴らしていた。
【環境デバフ:湿度(不快指数上昇)】
【環境バフ:フェロモン(ドキドキ指数限界突破)】
相反するステータス異常が同時にかかって、頭がクラクラする。
雨音に閉じ込められた二人きりの空間。
逃げ場なんて、どこにもない。
ひとしきり髪を拭き終わると、大樹はタオルを首にかけ、パイプ椅子にドカッと腰を下ろした。
ギシッ、と椅子が悲鳴を上げる。
ふと、静寂が訪れた。
屋根を叩く雨音だけが、BGMのように響いている。
「……悪かったな、連れ回して」
「え?」
「お前、こういう場所慣れてねぇのに。無理させた」
彼は缶コーヒーのプルタブをカシュッと開け、一口飲んだ。
そして、琥珀色の瞳を私に向けた。
その目は、いつもの陽気な光ではなく、もっと深く、熱っぽい光を帯びていた。
「でもさ。……俺は楽しかったぜ。茉莉子ちゃんが来てくれて」
「うん。私も、楽しかったよ。怖かったけど」
「怖がってるお前も、可愛かったけどな」
ドクン。
サラッと言った。
この人、本当に無自覚タラシだ。
大樹はコーヒーの缶を弄びながら、少し言い淀んだ。
「なぁ、茉莉子ちゃん」
「ん?」
「俺……」
彼が立ち上がった。
狭いプレハブ小屋で、彼の巨体が目の前に迫る。
「君のこと、マジで……」
空気が変わる。
雨音が遠くなる。
彼の瞳が、私を真っ直ぐに射抜いて、逃さない。
え。
なにこれ。
この流れ、まさか……?
ピロン♪
【スキル・選択肢シミュレート発動!】
視界に、ゲームの選択肢ウィンドウが緊急ポップアップする。
【イベント発生:大樹からの告白!? どう切り返す?】
▶ A:「え、なに? 雨の音で聞こえない〜(すっとぼけ)」
(成功率:40% / その場は流せるが、大樹が不機嫌になる可能性あり。問題の先送り)
▶ B:食い気味に「私も!」と言う
(成功率:10% / もし「マジで腹減った」とかの勘違いだったら、恥ずかしすぎて即死する)
▶ C:無言で見つめ返し、キス待ち顔をする
(成功率:??% / 危険度MAX。そのまま押し倒されるルート直行)
えっ、えっ、えっ!? どれ!?
Aは卑怯すぎる! Bはギャンブルすぎる! Cは無理、心臓持たない!
ていうか、本当に告白なの? 勘違いじゃないの?
待って待って、処理が追いつかない!
【警告:CPU使用率100%】
【長考ペナルティ発生:フリーズします】
「あ、う、あ……」
私は口をパクパクさせたまま、完全に思考停止した。
顔が沸騰しそうだ。
大樹が一歩、近づいてくる。
「俺……」
来る。
言われる。
私の心臓が爆発する、その瞬間――。
ピカッ!!!!
視界が真っ白に染まった。
直後。
ドガラガッシャァァァァン!!!!
「ひゃあああっ!!」
耳をつんざくような落雷の音。
プレハブ小屋がビリビリと震える。
そして、照明がプツンと消えた。
停電。
薄暗い小屋の中、窓からの稲光だけがチカチカと光る。
「怖っ……!」
私は恐怖のあまり、選択肢なんてかなぐり捨てて、目の前の温かいものに飛びついた。
「おっと……」
抱きついた先は、大樹の体だった。
濡れたTシャツ越しの、硬い腹筋。
彼も反射的に、私の背中に腕を回して抱き止めてくれた。
……。
…………。
雷鳴が遠ざかっていく。
少しずつ、目が暗闇に慣れてくる。
静寂。
聞こえるのは、激しい雨音と、お互いの心臓の音だけ。
密着している。
さっきの工事現場でのハグよりも、もっと密接に。
お互いの濡れた服が触れ合って、体温が直接伝わってくる。
「……」
私は彼の胸に顔を埋めたまま、動けなかった。
離れたくない。
怖いから? いや、それだけじゃない。
この安心感に、もっと浸っていたい。
パッ。
照明が点いた。
明るさが戻る。
私たちはハッとして、パッと体を離した。
「……わ、悪ぃ。大丈夫か?」
大樹が気まずそうに頭をかいた。
耳が赤い。
「う、うん。びっくりした……」
私も顔が熱い。
どこを見ればいいのかわからない。
「ハハッ。すげぇ音だったな」
彼は苦笑いをした。
「タイミング悪すぎだろ、雷様もよぉ……」
ボソッと呟く声が聞こえた。
やっぱり、何か言おうとしていたんだ。
大事なことを。
「何か、言おうとした?」
私が恐る恐る聞くと、彼は首を振った。
「いや。……今は、いい」
彼は私の頭にポンと手を置き、優しく撫でた。
「今は、雨が止むまで……こうしてたい」
彼はもう一度、私をそっと引き寄せた。
今度は、守るように、包み込むように。
私は抵抗しなかった。
彼の胸に頭を預け、温かい缶コーヒーを握りしめる。
告白は、雷にかき消されてしまったけれど。
この沈黙と体温だけで、言葉よりも雄弁な何かが伝わってくる気がした。
外の雨は、まだ止みそうになかった。
でも、この狭いプレハブ小屋の中だけは、世界で一番安全で、温かい場所だった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・職業:雨宿りのヒロイン
現在のステータス
・魅力:A(濡れた髪と服、そして雷への恐怖。男の庇護欲をフルスロットルで刺激中)
・メンタル:B(新スキル「選択肢」は、雷の前では無力だった)
新規獲得アイテム
・【微糖の缶コーヒー】:甘くて苦い、雨の日の味。
・【プレハブの密室】:吊り橋効果の延長戦ステージ。
【明菜の分析ログ】
ベタねぇ〜!
昭和のラブコメか! ってくらいの王道展開じゃない。
「いいところで雷が鳴って聞こえない」。
神様も粋な演出をするわね。
でも、これでよかったのかもよ?
中途半端な言葉より、肌で感じる熱の方が、今のアンタたちには必要だったみたいだし。
さぁ、雨が上がったらどうする?
空が晴れたら……いよいよ、本番よ?
心の準備はできてる、茉莉子♡




