第二十四記録【命綱は赤い糸?】
四月十五日、月曜日。
別府温泉での週末という名の「強制リフレッシュ休暇」を終え、迎えた週明けの朝。九条家のダイニングには、今日も優雅で、そしてどこか狂った日常が流れていた。
「ん〜っ! まりちゃん、お肌ツヤツヤだねぇ♡ やっぱり別府のお湯は最高だね!」
向かいの席で、父・壮一郎が満面の笑みを浮かべている。その手には焼きたてのトースト。ただし、その上にはバターではなく、黒い真珠のようなキャビアが山盛りに乗せられている。
「まぁねー。サウナも入ったし、泥パックもしたし。完全回復って感じ?」
私もドヤ顔で、同じくキャビアトーストを大口でパクリと頬張った。塩気が強い。朝から塩分過多だ。でも、この背徳感こそが「勝利の朝食」って感じがする。
先週の激動の日々――凪による耳噛み事件や、大樹の間接キス、ユンジンとの事故チューといった「特大イベント」のダメージも、温泉パワーでなんとかリセットできた……気がする。
「お嬢様、本日の紅茶はマリアージュフレールのマルコポーロでございます。甘い香りが、お仕事への活力を与えてくれるでしょう」
直之が完璧な手つきでカップに紅茶を注ぐ。朝からサングラスの威圧感がすごいが、その所作は芸術的だ。
「ありがと、直之」
「うむうむ! まりちゃんもだいぶお仕事が板についてきたねぇ〜♡ パパ、嬉しいよぉ!」
父が目尻を下げてデレデレする。仕事と言っても、サメ映画見たり、お菓子食べたり、社内を徘徊していただけだけど。
「あったりまえでしょー。私にかかれば、社会の荒波なんて水たまりみたいなもんだって」
調子に乗ってふんぞり返る私に、父はニカっと笑い、爆弾を投下した。
「じゃあ、そろそろまりちゃんにも『社会見学』してもらっちゃおうかなー♡」
「……はぁ?」
トーストを持つ手が止まる。
「社会見学? 何それ。小学生?」
「違うよぉ。現場を知ることは、経営者一族としての務めだからね! 今週からは特別監査室を出て、各部署の『現場』を体験してきなさ〜い!」
「えっ、めんどくさ……なんのために?」
父はキャビアトーストをパクリと食べ、もぐもぐしながらウィンクした。
「決まってるじゃな〜い。大事な大事な『お婿さん探し』のために♡ 現場で汗を流す男たち……グッとくるでしょ?」
「……」
やっぱりそれか。このタヌキ親父、ブレない。
こうして、私のゴールデンウィーク前の新クエスト『現場体験ツアー』が、強制的に受注されたのだった。
午後一時。九条グローバル本社・裏手。
そこには、現在建設中の地上五十階建て新社屋ビルの工事現場が広がっていた。組み上げられた鉄骨が空を突き刺し、巨大なクレーンが唸りを上げている。
「うわぁ……ガチ現場じゃん」
私は現場事務所の前で、尻込みしていた。埃っぽい風。重機の音。飛び交う怒号。完全に住む世界が違う。
しかし、今日の私の装備は一味違った。
ねぇ明菜。これ、浮いてない?
私は自分の体を見下ろした。
今日のコーデは『ワークマン女子・現場カワイイ』スタイルだ。作業用のつなぎなのだが、色は淡いベージュにピンクのステッチが入っており、ウエストがキュッと絞られていてスタイルが良く見える。足元は厚底の安全靴。そして頭には、特注のピンク色のヘルメット。正面には「一条」のネームシールが貼られている。
『何言ってるのよ。戦場にこそ華が必要なの』
上空から声がした。見上げると、巨大なクレーンのフックの上に、明菜が優雅に腰掛けていた。風に紫のスーツをなびかせ、まるで現場監督のように下界を見下ろしている。
『ヘレン・ケラーは言ったわ』
明菜がフックの上で立ち上がり、高らかに宣言する。
『「人生はどちらかです。勇気ある冒険か、あるいは何ものでもないか」ってね!』
彼女はビシッと私を指差した。
『さぁ、冒険の時間よ茉莉子! このコンクリートジャングルで、ターザンごっこしてきなさい! 命がけの恋の吊り橋効果を味わうのよ!』
「冒険じゃなくて労働じゃん……」
私はボヤいた。帰りたい。帰ってイベント周回したい。でも、パパからの指令は絶対だ。ここで逃げたらブラックカードが止まる。
意を決して、現場へのゲートをくぐろうとした時だった。
「おーーーい! 待ってたぞ茉莉子ちゃーーーん!!」
ズドォォォォン!!
鼓膜が破れそうな轟音が響いた。土煙の向こうから、一人の男が走ってくる。
作業着の袖をまくり上げ、泥と油にまみれた腕を露出させた筋肉ダルマ。大山田大樹だ。
「よぉ! よく来たな!」
彼は私の前で仁王立ちし、ニカっと笑った。汗で濡れた前髪をかき上げる仕草が、スポーツドリンクのCMみたいに爽やかだ。
……悔しいけど、この「現場」という背景が一番似合う男だ。
彼は私の格好をジロジロと見て、目を丸くした。
「へぇ! 案外そういうの似合ってんじゃん! なんかこう……アクションゲームのキャラみてぇで可愛いいぞ!」
「あ、ありがと……」
褒め言葉……だよね? 可愛いって言われたことに、少しだけ頬が熱くなる。
「よし! じゃあ行くか!」
大樹は手招きして、私を鉄骨がむき出しになったビルの入り口へと案内した。
しかし、エレベーターに乗る直前。彼が急に立ち止まり、真顔で振り返った。
「茉莉子ちゃん。ここからはマジで危ねえぞ」
いつもの「アハハ」という笑いがない。職人の目だ。
「お前、現場慣れしてねぇし、足元フラフラだろ。何かあってからじゃ遅せぇんだ」
彼は腰につけていたポーチから、ごつい金属のフックがついた太いロープを取り出した。工事現場で使う安全帯だ。
「失礼するぞ」
彼は私の前に跪くと、私の腰のベルトに、そのフックをカチャリと掛けた。
「えっ?」
そして、ロープのもう片方の端にあるフックを――。
ガチャン!
自分自身の腰ベルトの金具に、しっかりと連結した。
「はい、装着完了!」
「……は?」
私は自分の腰と、彼の腰を繋ぐロープを見た。短い。長さ、わずか80センチくらいしかない。
これじゃ、彼が動けば私も強制的に引っ張られる。物理的に離れられない。
「え、ちょ、大樹? これ近すぎない? 私ペット?」
「バカ! 命綱だ」
大樹はロープをグイッと引いた。私は「おっと」とよろめいて、彼の胸元に引き寄せられる。
近い。汗の匂いと、彼の熱気がムワッと顔にかかる。
彼は私の目を見て、真剣な声で言った。
「俺から離れんなよ。……絶対守ってやるから」
ドクン。
心臓が跳ねた。
なによそれ。そんな真剣な顔で言われたら、ときめくに決まってるじゃん。
『あら〜♡ これが本当の「赤い糸」ならぬ「黄色いロープ」ね』
明菜が茶化してくるが、笑っていられない。この物理的拘束感。逃げられないという事実が、私の心拍数をじわじわと上げていく。
ガガガガガッ……。
工事用の簡易エレベーターが、不穏な音を立てて上昇していく。窓はない。網ごしに、地上がどんどん遠ざかっていくのが見える。
到着したのは、地上200メートル。建設中の最上階エリアだ。
「ひぃっ……!」
降りた瞬間、私は足がすくんだ。壁がない。あるのは鉄骨の骨組みと、足場の鉄板だけ。吹きっさらしの風が、ビュービューと音を立てて襲ってくる。
下を見ると、走っている車が米粒みたいに小さい。
「む、無理! 高い! 死ぬ!」
私はしゃがみ込みそうになった。高所恐怖症じゃないけど、これはレベルが違う。あんな細い鉄骨の上を歩くなんて、サーカスかよ!
「おいおい、ビビりすぎだろ」
大樹が笑いながら、腰のロープをグイッと引いた。
「下見んな。前だけ見ろ。……いや、俺の背中だけ見とけ!」
彼は私の前を歩き出した。ロープがピンと張る。
彼の背中。広くて、分厚くて、岩みたいに頼もしい背中。
風で私がよろめくたびに、ロープを通じて彼に「ガツン」と衝撃が行く。でも、彼はビクともしない。まるで地面に根を張った大木みたいだ。
どうなってんの、このゴリラ。
呆れつつも、その背中が目の前にあることが、信じられないくらいの安心感を与えてくれる。
これが、吊り橋効果? いや、命綱効果か。
しばらく現場を回っていると、天候が急変した。
ヒュオオオオオッ!!
突風だ。ビル風が牙を剥いて襲いかかってきた。
ガタンッ!
足場の鉄板が大きく揺れる。
「きゃっ!?」
バランスを崩した。厚底の安全靴が、鉄板の継ぎ目に引っかかる。体勢が崩れる。支えがない。倒れる――!
その瞬間。
私の脳内で、パパパッと光が走った。
ピロン♪
【スキル・選択肢シミュレート発動!】
明菜に叩き込まれた、別府合宿の成果。
私の視界に、ゲームのような半透明のウィンドウが表示された。
【突風によりバランス崩壊! どうする?】
▶ A:「キャー!」と可愛く叫んでしゃがみ込む
(成功率:30% / ぶりっ子判定され、大樹に笑われる可能性大)
▶ B:大樹の名前を呼んで助けを求める
(成功率:80% / 依存度UP。ただし声が出るか不明)
▶ C:自力で体幹を立て直す
(成功率:1% / 運動神経皆無のため、高確率で落下死亡フラグ)
えっ、えっ、どれ!?
Aはキャラじゃないし、Cは無理だし、やっぱB!?
でも名前呼ぶの恥ずかしいし、えっと、えっと……!
【警告:長考によるタイムオーバー!】
【ペナルティ:フリーズ(棒立ち)が発生します】
「あ……」
考えすぎて、思考がショートした。私は棒立ちのまま、重力に従って横へと倒れ込んでいく。
そこには、足場がない。鉄骨の隙間だ。
死ぬ。
私が目を閉じた、その時。
ガツンッ!!
腰に凄まじい衝撃が走った。ロープが限界まで張った音だ。
「バカ野郎ッ!!」
怒号と共に、太い腕が伸びてきた。
グイッ! と強引に体が引き寄せられる。
ドンッ!!
「うぐっ……」
私の顔が、硬い何かに埋まった。ヘルメット同士がゴチンとぶつかる。
……痛くない?
恐る恐る目を開けると、視界いっぱいに作業着の布地があった。
大樹の胸だ。
彼がロープを手繰り寄せ、私を自分の懐に抱き込んでいたのだ。
「はぁ……はぁ……」
耳元で、彼の荒い息遣いが聞こえる。
そして。
ドクン、ドクン、ドクン。
風の音にかき消されないくらい大きな、彼の心臓の音。私の体を通じて、直接響いてくる。
汗の匂い。鉄の匂い。そして、人間離れした熱気。
私は彼の腕の中で、完全に動きを封じられていた。
「ぼーっとしてんじゃねえ!」
耳元で怒鳴られた。体がすくむ。
「危ねえだろ! 落ちたらどうすんだ!」
「ご、ごめんなさ……」
私が謝ろうと顔を上げると、大樹と目が合った。
彼は怒っていた。でも、その目は不安で揺れていた。
「……っ、悪ぃ。デカい声出した」
彼はバツが悪そうに視線を逸らし、私を抱きしめる腕にギュッと力を込めた。痛いぐらい強い。でも、それが「絶対に離さない」という意思表示みたいで。
「……怪我、ねぇか?」
「う、うん……大丈夫……」
「そか。……よかった」
彼は安堵の息を吐き、ポツリと言った。
「やっぱ、お前が心配で目ェ離せねぇわ」
「……え?」
「俺が守るって言ったろ。……だから、もっと俺を頼れよ」
至近距離。彼の瞳が、私を真っ直ぐに射抜いている。
命綱で繋がれた、逃げ場のない距離。
地上200メートルの恐怖と、彼に守られているという安心感。
感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、私は顔を真っ赤にすることしかできなかった。
「……う、うん」
私は小さく頷き、彼の作業着の裾をギュッと握りしめた。
風に揺れる命綱。
それはまるで、私と彼を結ぶ、不格好だけど強靭な赤い糸のように見えた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・職業:現場の荷物(回収済み)
現在のステータス
・魅力:B(ピンクのヘルメットとつなぎ姿が、逆に「守ってあげたい感」を演出)
・メンタル:C(吊り橋効果により心拍数異常上昇中)
新規獲得アイテム
・【大樹の安全帯】:物理的にも精神的にも逃げられない拘束具。
・【スキル・選択肢シミュレート】:実装初日で処理落ち。使い物にならないポンコツ機能。
【明菜の分析ログ】
やるじゃない。
「犬の散歩」かと思ったら、しっかり飼い主に抱きしめられてるじゃないの。
地上200メートルでのハグ。
どんなジェットコースターよりドキドキしたでしょ?
でも、安心して。
これはまだ予行演習よ。
次は「雨」が降るわ。
濡れた服、狭い部屋、二人の体温……。
何が起きるか、想像つくでしょ?
ふふっ、楽しみねぇ♡




