第二十記録【B級ホラーで泣く男】
四月十一日
ピピッ、ピピッ、ピピッ。
十七時ジャスト。
私のスマホのアラームが、一日の終わりを告げるファンファーレのように高らかに鳴り響いた。
特別監査室。
私はゲーミングチェアの上で、死んだ魚のように脱力していた体を、ゾンビが蘇生するみたいにゆっくりと起こした。
「やっと終わった」
目の前のトリプルモニターには、社内の防犯カメラ映像が映し出されている。
定時と共に、社員たちが一斉に席を立ち、帰宅の準備を始めている様子。
それはまるで、アリの群れのように、活気に満ちていた。
「帰宅だ! 帰宅だ! 我が家の回線が私を待っている!」
私は立ち上がり、天井に向かってガッツポーズを突き上げた。
今日の仕事は完璧だった。
ネットサーフィンによる情報収集、動画視聴によるトレンド分析、そして適度な昼寝による脳のメンテナンス。
給料泥棒? 違うね。
これは「特別監査」という名の高度な待機任務なのだ。
さぁ、帰ってログインボーナスを受け取るぞ。
今日は限定イベントの初日。スタートダッシュ決めないと、ランキング上位には食い込めない。
私はウキウキでバッグを掴み、部屋の出口へ向かった。
その時。
ブブッ。
ポケットの中のスマホが、不吉なリズムで震えた。
嫌な予感。
背筋に冷たいものが走る。
恐る恐る画面を見る。
送信者:『剣崎 恭弥』
『緊急任務が発生した。至急ラボへ来られたし』
「はぁ?」
私は天井を仰いだ。
緊急任務?
ロボット開発部の部長が、監査室の私に何の用よ。
どうせまた、くだらない実験のモルモットにされるに決まってる。
先週も散々、サメ映画の物理演算について語られた悪夢が蘇る。
『あらあら、お呼び出し?』
頭上から、楽しそうな声が降ってきた。
明菜だ。
彼女は天蓋付きベッドの上に優雅に寝転がり、空中でトランプのようにタロットカードを切っている。
紫のミニスカートから伸びる脚をブラブラさせて、完全にくつろぎモードだ。
『マッドサイエンティストからのラブコールじゃない。光栄に思いなさいよ』
どこがよ。絶対ろくなことじゃないって。スルーしよっかな。
『そうかしら?』
明菜は体を起こし、空中に数枚のカードを裏向きにして扇状に展開した。
『さぁ、選びなさい。今夜のアンタの運命を』
強制イベント?
『いいから選ぶ!』
ピコピコハンマーが目の前で揺れる。
拒否権はないらしい。
私は渋々、一番右端のカードを指差した。
「……じゃあ、これで」
明菜がニヤリと笑い、カードをめくる。
【THE HANGED MAN(吊るされた男)】の逆位置。
『プッ、アハハハ! 傑作!』
明菜が腹を抱えて笑い出した。
『意味は「無駄な抵抗」「徒労」「報われない努力」まさに今のアンタそのものね! 抵抗しても無駄よ、運命の歯車には逆らえないの♡』
……最悪じゃん。
『さぁ、行ってらっしゃい♡ 偏屈な研究室の怪人が、地下室で手ぐすね引いて待ってるわよ〜!』
明菜は高笑いと共に、紫色の煙のように消えていった。
悪魔め。覚えてろよ。
いつか絶対、聖水をぶっかけてやる。
私は観念して、地下の研究開発フロアへと向かった。
エレベーターが下がるにつれ、空気の匂いが変わっていく。
上層階の小綺麗なアロマの香りから、機械油と金属、そして焦げた回路の匂いへ。
男の職場って感じだ。
「……失礼しまーす」
重い鉄扉を開けると、中は薄暗かった。
メインモニターの青白い光だけが、部屋の中央を照らしている。
相変わらずの秘密基地感。
「遅いぞ、コネ条」
暗がりから声がした。
剣崎だ。
彼はデスクに向かって何か作業をしていたが、私が入ってくると椅子を回転させてこちらを向いた。
その姿を見て、私は少しだけ目を丸くした。
「あれ……?」
彼は、いつもの白衣を着ていなかった。
着ていたのは、薄い水色のシャツだった。
一番上のボタンを開け、袖を少し捲り上げている。
……え、なんか新鮮。
白衣の下って、あんな爽やかな色のシャツ着てたんだ。
普段の「怪しいマッドサイエンティスト」という外装が剥がれて、一気に「知的な若手研究者」って感じに見える。
素材はいいんだよな、素材は。
中身がバグってるだけで。
剣崎は私の姿を一瞥し、フンと鼻を鳴らした。
「なんだ。今日もジャージか」
「……悪かったわね」
私は自分の格好を見下ろした。
今日はいつもの芋ジャージじゃない。
ネット通販で買った、某有名ゲームとコラボした限定品の黒いパーカーだ。
背中に大きくロゴが入っていて、私の中では「一軍のおしゃれ着」なんだけど。
まぁ、一般人から見ればただのジャージか。
「退勤直前だったの。楽な格好で帰りたくて着替えただけ」
「機能性を重視するのは合理的でよろしい。だが、その背中のプリント……『伝説の勇者』と書いてあるの、恥ずかしくないのか?」
「う、うるさい! これはレア装備なの!」
私はパーカーのフードを深く被り直した。
デリカシーのない男だ。
「で、緊急任務って?」
「これだ」
彼が指差した先。
巨大なメインモニターに映し出されていたのは、禍々しいタイトル画面だった。
『ゾンビ・シャーク vs ゴースト・シャーク in ALCATRAZ 〜地獄の監獄島〜』
「……は?」
「本日発売の新作だ。海外から取り寄せた。日本未公開の激レア盤だぞ」
剣崎は真顔で言った。
眼鏡の奥の瞳が、少年のようにキラキラと輝いている。
「これから上映会を行う。陪席を許可する」
「それだけ?」
「それだけとは何だ。これは人類の英知が詰まった重要サンプルだぞ。一人で見るより、被験体の反応もデータとして収集したい」
やっぱりモルモット扱いじゃん。
私の貴重なアフターファイブを、サメ映画のデータ収集に使おうってわけ?
「帰る。ログインボーナス受け取りたいし」
私は踵を返そうとした。
「ポップコーンがあるぞ。キャラメル味だ」
ピタリ。
足が止まる。
「コーラもだ。ゼロカロリーではない、赤ラベルのやつだ」
……ぐぬぬ。
わかってるじゃないか。
私の好物を完全に把握している。
私は大きくため息をつき、ドカッとソファに座り込んだ。
「わかったよ。付き合えばいいんでしょ」
「賢明な判断だ」
剣崎は満足げに頷くと、部屋の照明を完全に落とした。
そして、私の隣に座った。
近い。
ソファが少し沈む。
ふわりと、彼から清潔な石鹸の匂いと、微かなコーヒーの香りが漂ってきた。
白衣がないせいか、いつもより距離が近く感じる。
「始めるぞ」
上映開始。
内容は、予想通り……いや、予想を遥かに超えるクソ映画だった。
チープなCGのサメが、これまたチープなゾンビメイクの人間を襲う。
ゴーストシャークは壁をすり抜けるし、ゾンビシャークは陸を歩く。
物理法則なんて完全に無視した、カオスな映像が続く。
「おい、あのサメ。海中で火を吹いたぞ」
剣崎が即座に反応する。
「火吹きスキル持ちのサメって……」
「あれは体内のメタンガスが引火したという設定らしい。非科学的だが、ゾンビ化による腐敗ガスの影響だと考えれば、一理あるかもしれん」
「いや、どう見ても作画ミスでしょ。水中で火炎放射とか魔法使いかよ」
「だが待て、あそこで主人公が使っている銃、装弾数が無限だぞ。リロードの概念がない」
「チート乙。運営に通報案件だわ」
私たちはポップコーンをつまみながら、映画にツッコミを入れ続けた。
なんだかんだ、楽しい。
この変人となら、気を使わずにバカな話ができる。
昨日のアクシデントに振り回されることもない。
ただのオタク友達みたいな、居心地の良さ。
そう思っていた、その時だった。
映画がクライマックスを迎えた。
生き残った主人公、マッチョな元軍人とヒロイン、セクシーな科学者が、崩れゆくアルカトラズ島の屋上で抱き合う。
『Oh, Jack...』
『もう大丈夫だ、Mary... 世界は俺たちが守ったんだ』
夕日をバックに、二人の顔が近づく。
BGMが、壮大でロマンチックなバラードに変わる。
……キスシーンだ。
さっきまでの、血飛沫と爆発のギャグ展開が嘘のように、画面の中はシリアスなラブムード一色になった。
気まずい。
急に、部屋の静けさが際立つ。
隣にいる剣崎の存在感が増してくる。
沈黙。
映画の甘い吐息と、衣擦れの音だけが響く。
私は誤魔化すようにポップコーンを口に放り込み、チラリと横目で彼を見た。
剣崎は、微動だにせずモニターを見つめていた。
暗がりの中、画面の光に照らされた横顔。
鼻筋が通っていて、顎のラインがシャープで。
水色のシャツの襟元から覗く首筋には、男らしい喉仏がある。
眼鏡の奥のアイスブルーの瞳が、宝石みたいに光っている。
ドキン。
心臓が跳ねた。
……知ってたけど。
わかってたけどさ。
この人、顔だけならめちゃくちゃドイケメンなんだよなぁ。
普段は変人発言と白衣オーラで隠れてるけど。
こうして黙って座っていたら、他のメンズにも引けを取らない顔面偏差値だ。
しかも、この薄暗い照明と、シリアスなBGMのせいで、妙に色っぽく見える。
やばい。心拍数が……
意識しちゃダメだ。
相手は性欲値ゼロの研究マシーンだぞ。
サメ映画見てる時に色気感じるなんて、私の脳みそどうかしてる。
そう自分を戒めて、もう一度彼の顔を見た時。
私は、息を飲んだ。
キラリ。
剣崎の頬を、一筋の雫が伝い落ちていた。
……え?
泣いてる?
嘘でしょ。
この映画で?
サメが爆発して、主人公がキザなセリフ吐いてるだけの、このB級映画で?
「……けん、ざき?」
思わず名前を呼んでしまった。
剣崎が、ゆっくりとこちらを向いた。
目が合う。
眼鏡の奥の瞳が、濡れて潤んでいる。
普段の冷徹な「剣の王」の目じゃない。
無防備で、純粋で、どこか儚げな――迷子の子供みたいな目。
そのギャップに、私の胸がキュッと締め付けられた。
なによそれ。
変人のくせに、なんでそんな綺麗な顔で泣くのよ。
反則だ。
剣崎は、涙を拭おうともせず、じっと私を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……なぁ、コネ条」
低い声。
でも、熱っぽい響き。
彼は、何かを言いかけて――。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:コネ条茉莉子(背中に「伝説の勇者」を背負う女)
・職業:B級映画の被験体
現在のステータス
・魅力:C(レア装備のパーカーはオタクにしか刺さらない)
・メンタル:B(「変人」への警戒心が「ときめき」に侵食されつつある)
新規獲得アイテム
・【恭弥の涙】:サメ映画で流すには美しすぎる宝石。
・【水色のシャツ】:白衣の下の正体。清潔感という名の凶器。
【明菜の分析ログ】
はぁ?
ここで泣くの正気かしら?
「事実は小説より奇なり」って言うけど、サメ映画で涙するイケメンなんて、どんなファンタジーよ。
でもね、茉莉子。
「ギャップ萌え」の正体は「認知的不協和」の解消よ。
変人だと思ってた男が見せるピュアな涙……。
これ、一番中毒性が高いやつだから気をつけなさい?
さぁ、ここからどうする?
ハンカチを差し出す? それとも……?




