第十九記録【BarbieGirl】
グラリ。
世界がスローモーションになる。
「あっ!」
ヒールが抜けない。
重力に引かれ、私の体は石畳に向かって傾いていく。
「危ない!」
ユンジンの腕が伸びてくる。
強い力で引き寄せられる。
でも、勢いがつきすぎていた。
私が倒れ込むベクトルと、彼が引くベクトルが交錯し――。
私たちは二人もろとも、歩道の脇にある植え込みへと倒れ込んだ。
ドサッ。
街路樹の枝葉がクッションになる。
背中に土と葉の感触。
そして、私の上に覆いかぶさる重み。
「っ……!」
衝撃に身を固くして、目を開けた。
そこには。
至近距離にある、ユンジンの顔。
驚愕に見開かれた瞳。
長いまつ毛の一本一本まで数えられそうな距離。
そして。
唇に感じる、柔らかくて温かい感触。
……え?
時が止まった。
世界から音が消えた。
触れている。
私の唇と、彼の唇が。
ぴったりと。隙間なく。
事故だ。
重力のエラーだ。
少女漫画でしか見たことないような、ベタすぎるハプニング。
でも、現実は漫画みたいにキラキラしてなかった。
重いし、痛いし。
なにより――甘い。
3秒、だったかもしれない。
でも、私には30秒にも、永遠にも感じられた。
彼の唇は、驚くほど柔らかかった。
スムージーのフルーツの香り。
微かな吐息。
ドクン、ドクンと伝わってくる彼の心臓の鼓動。
熱い。
触れている部分から、熱が溶け出して全身に回っていく。
ファーストキス。
私の大事なファーストキスが。
こんな、物理演算バグみたいな事故で。
ユンジンの瞳が揺れてる。
彼の唇が、微かに震えて、私の唇をなぞった気がした。
パッ。
彼が弾かれたように体を起こした。
私を抱き起こす手つきは乱暴で、でも震えていた。
「……計算外だ」
ユンジンが口元を手で覆い、信じられないものを見たような目で私を見ている。
その頬は、雪のような白さから一転、熟れた桃のように真っピンクに染まっていた。
「ば、バグだ……ありえない……確率的に0.01%以下の事故だ……」
ブツブツと計算を始めているが、耳まで真っ赤だ。
私は遅れてパニックになった。
「い、いやぁぁぁっ!!」
悲鳴ともつかない声を上げて、私はその場から逃げ出そうとした。
無理。
顔が見れない。
恥ずかしくて死ぬ。
私が植え込みから這い出し、走り出そうとした瞬間。
ガシッ!
「待て!」
腕を掴まれた。
強い力。
「離してよバカ! 変態! キス魔!」
「落ち着け! 違う、聞いてくれ!」
ユンジンは私の腕を掴んだまま、必死に弁解した。
焦っている。
彼もまた、大パニックに陥っているのだ。
「い、今のは事故だ! 不可抗力だ! だから大丈夫だ!」
「何が大丈夫なのよ!」
「ボクは……ボクは、沢山の女の子とキスしてきたから! これくらい、なんとも思ってない! 全然気にしてないから!」
ピタリ。
私の動きが止まった。
……は?
沢山の女の子?
気にしてない?
私にとっては初めての、大事なキスだったのに。
あんたにとっては、数ある「処理」の一つだって言うの?
怒りが湧いてきた。
羞恥心を塗りつぶすくらいの、真っ黒な怒りが。
「最低」
私は彼の腕を振り払った。
「あんたなんか知らない! 二度と顔見せないで!」
私は踵を返し、今度こそ本気で走り出そうとした。
その一歩目を踏み出した、その時。
ズキッ!
「あ、痛っ……!」
左足首に鋭い痛みが走った。
力が入らない。
その場に崩れ落ちそうになる。
さっき転んだ時、捻ったんだ。
「うぅ……」
最悪だ。
カッコよく去ることさえできないなんて。
惨めすぎる。
すると。
背後で気配がした。
「……乗れ」
振り返ると、ユンジンが私の前に背中を向けてしゃがみ込んでいた。
「え?」
「足、やったんだろ。家の近くまで送るから、背中に乗れ」
「い、いいよ! 自分で帰れるし」
「意地を張るな。ここで放置したら、ボクの寝覚めが悪い」
彼は有無を言わせぬ口調で背中を差し出した。
その背中は、スーツ越しでもわかるくらい逞しくて、広かった。
私は唇を噛み締め、渋々その背中に腕を回した。
ふわり。
簡単に持ち上げられる。
高い視点。
彼の体温と、高級な柔軟剤の香り。
そして、トクトクと速い心音が、背中越しに伝わってくる。
こいつの心臓も、うるさいな。
悔しいけど、安心感がある。
さっきあんな酷いこと言ったくせに。
こういう時は、やっぱり頼りになる男の人なんだ。
駅までの道中、私たちは無言だった。
電車に乗っても、気まずい沈黙は続いた。
運良く空いていた優先席に私を座らせ、ユンジンは目の前に立って吊革に掴まった。
「……足、見せて」
彼は短く言うと、私の足首をそっと触った。
「っ……」
「腫れてないな。軽い捻挫だ。冷やせば治る」
「……ありがと」
「礼には及ばない。管理不足はマネージャー……じゃなくて、ボクの責任だからな」
彼はフンと鼻を鳴らし、窓の外へと視線を逸らした。
ガタン、ゴトン。
電車の走行音だけが響く。
車内には私たち以外、ほとんど人がいない。
窓ガラスに映る二人の顔。
どちらも、どこかバツが悪そうで、顔が赤い。
気まずい。
さっきの感触が蘇ってくる。
柔らかかったな、とか。
意外と熱かったな、とか。
そんなことを考えていると、ふいにユンジンが何かを呟いた。
「ク ニョソゲ イプスル、プドゥロプコ タッタテッタ」
「え?」
聞き取れない言葉。
韓国語だ。
「な、なに? 悪口?」
私が聞くと、彼は慌てて「なんでもない!」と首を振った。
『あらあら♡』
その時、隣に座っていた明菜が、私の耳元で囁いた。
『翻訳してあげましょうか? 今の言葉』
明菜は楽しそうに、意地悪く翻訳した。
『「アイツの唇……柔らかくて、暖かかった」……ですって♡』
ボンッ!
私の顔から湯気が出た。
真っ赤になる。
茹でダコだ。
なにそれ。
なにそれぇぇぇ!!
全然「気にしてない」じゃないじゃん!
めっちゃ意識してるじゃん!
しかも感想漏らしてんじゃん!
「ば、バカ!」
私は思わず、目の前のユンジンの腕をペシッと叩いた。
「痛っ! なんだよいきなり!」
「なんでもないわよ! バカ!」
照れ隠しだ。
もう、どこを見ても恥ずかしい。
電車は、私の家の最寄り駅に到着した。
都内でも有数の、高級住宅街がある駅だ。
ホームに降り立つと、ユンジンが不思議そうな顔をした。
「ここ、キミの最寄りか?」
「うん、そうだけど」
「へぇ……。ここ、セレブが多いことで有名だぞ。マリコって、実は超お金持ちか?」
ギクッ。
痛いところを突かれた。
確かに、この駅で降りる20代なんて、実家が太いかパパ活女子くらいしかいない。
私は冷や汗をかきながら、精一杯の棒読みで誤魔化した。
「ち、違うよー。私はただのしがない令嬢ですわー。ほほほ」
「……ふっ」
ユンジンが吹き出した。
「なんだその喋り方。下手くそだな」
彼は笑いながら、私の頭をポンポンと軽く叩いた。
「まぁ、令嬢じゃなければ『特別監査室』なんて謎の役職についてないよな」
「うっ……」
「冗談だ。気にするな」
彼は優しい目で私を見た。
『金貨の騎士、正位置』
明菜がカードを掲げる。
『「信頼」「着実な歩み」。……どうやら、ただの「管理対象」から昇格したみたいね』
駅のロータリーでタクシーを拾い、私は乗り込んだ。
「今日は……ありがと。いろいろ」
栄養管理も。
転んだ時のことも。
おぶってくれたことも。
全部含めて。
ユンジンはポケットに手を突っ込み、今日一番の、とびきりの笑顔を見せた。
モデルのキメ顔じゃない。
素の、23歳の青年の笑顔。
「あぁ。またご飯に行こう。……今度は、もっとマシなものを食わせてやる」
バタン。
タクシーのドアが閉まる。
車が走り出す。
バックミラー越しに、彼が小さくなるまで見送ってくれているのが見えた。
私はシートに深く沈み込み、唇に指を触れた。
「……オカンじゃ、ないじゃん」
あんな顔するなんて。
あんなこと言うなんて。
私のSSR図鑑のデータが、音を立てて書き換わっていく。
ソ ユンジン → 【顔がいいオカン】……削除。
【不器用で、キスが柔らかい……同い年の男の子】
「……はぁ。無理」
私は熱い顔を手で覆った。
今日のスムージーの味も、アクシデントの痛みも、全部彼の色に塗り替えられてしまった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・職業:ファーストキス喪失者
現在のステータス
・魅力:A(怪我の功名。守ってあげたい欲を刺激)
・メンタル:C(怒りと羞恥心とときめきのジェットコースター)
新規獲得アイテム
・【ファーストキスの記憶】:一生消えない、甘くて痛い事故。
・【韓国語の愛の囁き】:意味を知ってしまったが最後、呪いのように効く。
【明菜の分析ログ】
おめでとう、大人の階段を一歩登ったわね。
まさか物理演算バグから恋が始まるとは。
「沢山の女の子と〜」なんて強がってたけど、あの動揺っぷりを見るに……彼にとっても相当「効いた」みたいよ?
さぁ、オカン卒業おめでとう。
これからは「男」として意識しなきゃいけないわね。大変だコリャ♡
明日は木曜日。「変人」のターンよ。
色気より食い気の次は……色気よりサメ気?
心の準備はいいかしら?




