第十八記録【Hey!Mr.】
四月十日、水曜日。十八時半。
四月の夜風は、まだ少し肌寒い。
ビルの隙間から吹き抜ける風が、私の露出した二の腕を容赦なく撫でていく。
「さむっ」
私は小さく身震いして、黒のカーディガンを肩にかけ直した。
今日の私の装備――ファッションテーマは『抜け感のある大人の余裕』だ。
トップスは白のキャミソールに、黒のカーディガンをあえて袖を通さずに肩掛けするスタイル。
ボトムスはグレーの台形ミニスカート。
これ、ただのミニスカじゃない。カッティングの妙で、脚が驚くほど長く、真っ直ぐに見える魔法のアイテムだ。
足元は黒のショートブーツで引き締める。
完全に「ソ・ユンジン特攻」装備だ。
あの年下好き、妹属性好きの拗らせ男にクリティカルを入れるためだけに、厳選したセットアップである。
場所は表参道の交差点近く。
待ち合わせ場所に立っていると、向こうから完璧なスーツ姿の男が歩いてきた。
ソ・ユンジン。
今日も今日とて、発光するような白い肌と、隙のないスタイリング。
歩くだけで道行く女性が振り返るレベルの顔面偏差値だ。
彼が私に気づく。
そして――視線が止まった。
私の顔じゃない。
白のキャミソールから覗くデコルテ。
そして、ミニスカートから伸びる太もも。
ゴクリ。
喉仏が動いた。
聞こえるはずのない生唾を飲む音が、私の脳内スピーカーにははっきりと聞こえた気がした。
私は口元を手で隠し、ニヤリと笑った。
食いついた。
チョロい。
いくら「同い年」というデバフがかかっていても、男の本能には抗えないらしい。
『あらあら♡ わかりやすいわねぇ』
私の肩越しに、明菜が顔を出してケラケラと笑う。
『オスカー・ワイルドは言ったわ。「誘惑を取り除く唯一の方法は、それに屈することだ」ってね。彼の理性ゲージ、今ガリガリ削れてるわよ』
だよねー。
私たちは二人して、獲物を見定めるような目つきでニヤニヤと彼を見つめた。
ユンジンが私の目の前まで来る。
そして、眉間に深い皺を寄せて言った。
「何ニヤニヤしてるんだ」
「え? 別に?」
「気持ち悪いな。一人で薄ら笑いを浮かべて。不審者か?」
「ひどっ! 人を待ち合わせ場所の地縛霊みたいに言わないでよ」
彼はフンと鼻を鳴らし、バサッと自分のジャケットを脱ぐと、私の肩に乱暴に被せてきた。
「隠せ。目の毒だ」
「あら、照れ隠し?」
「寒そうだからだ! 風邪を引かれたら仕事に支障が出る!」
耳が赤い。
わかりやすいツンデレだ。
「で、どこ行くの? 今日は直帰してネトゲ……じゃなくて、資格の勉強しようと思ってたんだけど」
私が文句を言うと、ユンジンは私の顔をジロジロと観察し、断言した。
「今朝鏡を見たか? 顔色が悪いぞ」
「は? 悪くないし。今日チーク薄いだけだし」
「いいや、悪い。肌のツヤがない。目の下にクマがある。これは明らかなビタミン不足、およびミネラル欠乏のサインだ」
彼は私の腕を掴むと、強引に歩き出した。
「ついてこい。ボクが厳選した店で、徹底的に栄養補給させる」
「えー……ジャンクがいい。ポテト食べたい」
「ジャンクフード禁止!」
連行されたのは、路地裏にある隠れ家的なカフェだった。
コンクリート打ちっぱなしの壁に、温かみのあるウッドテーブル。
照明は暗めで、各テーブルにキャンドルが揺れている。
窓の外には、表参道の落ち着いた街並みが見える。
「うわ、意識高そ〜」
私が店内の空気に気圧されていると、ユンジンは慣れた様子で一番奥の席へとエスコートした。
「ここ、オーガニック野菜とスムージーの専門店だ。味もいいし、何より栄養価の計算が完璧だ」
彼はメニューを開くこともなく、店員に注文を始めた。
「ケールと小松菜のスムージーを二つ。それと、パワーサラダボウル。ドレッシングはアマニ油で」
「ちょ、私のオーダーは?」
「ない。キミに選択権はない」
独裁者かよ。
私は不満たっぷりに頬を膨らませた。
「なんでそこまで管理されなきゃいけないのよ。私、これでも健康優良児だよ?」
「嘘をつけ」
ユンジンはスマホを取り出し、数回タップすると、画面を私の目の前に突きつけてきた。
「これを見ろ」
画面に映っているのは、私たちが交換した連絡先のトークルーム。
そこには、私がこの数日間、彼に送りつけた食事の写真が並んでいた。
四月七日 朝:ゼリー飲料(10秒でチャージ)
四月七日 昼:カップ麺(激辛)
四月七日 夜:スナック菓子とコーラ
四月八日 朝:なし
四月八日 昼:菓子パン(凪とのデート時)
茶色い。
あるいは無色透明。
ビタミンという概念が死滅している。
「……マリコ」
ユンジンが、私の名前を呼んだ。
下の名前を呼び捨て。
同い年だと分かってから、彼は私を「マリコ」と呼ぶようになった。
それは親しみというより、出来の悪いペットを呼ぶようなニュアンスに近い。
「酷すぎると思わないか? これで人間の機能を維持できているのが不思議なくらいだ」
彼は深く、重いため息をついた。
心底呆れている顔だ。
「えー、でも美味しいよ? 添加物ってうまみの結晶じゃん」
「……ハァ」
『確かにねぇ』
隣で明菜がスムージーを飲みながら頷いている。
『あのヤクザ執事が管理してくれてない時のアンタの食事……スラム街のネズミの方がまだマシなもの食べてるわよ。ブリヤ・サヴァランも言ったわ。「君が何を食べているか言ってみたまえ。君がどんな人か当ててみせよう」ってね。今のアンタは……そうね、歩く添加物?』
現代人は忙しいの。効率重視なの。
やがて、運ばれてきたのは、芝生を液体にしたような深緑色のスムージーと、洗面器みたいなボウルに入った大量の草だった。
「……これ、罰ゲーム?」
「ご褒美だ。細胞が歓喜するぞ」
ユンジンは有無を言わせぬ笑顔で、ストローを私の口元に突きつけた。
「これを完食するまで帰さないからな」
「うぅ……」
私は観念して、緑色の液体を吸い込んだ。
……ん?
意外と、悪くない。
青臭さはあるけど、フルーツの甘みで飲みやすくなっている。
「どうだ?」
「……まぁ、飲める。美味しいかも」
「だろう?」
彼は得意げに笑い、自分もサラダを口に運んだ。
食事をしながら、私たちはポツリポツリと話をした。
仕事の愚痴。
同期の噂話(私はほとんど知らんけど)。
不思議と、会話が弾む。
凪やレオさんみたいな「探り合い」がない。
大樹みたいな「熱血」もない。
ただ、同じ23歳の社会人として、等身大で話せる気楽さ。
口うるさいオカンだけど、根は悪いやつじゃないのかも。
私の偏食を本気で心配してくれてるわけだし。
意外と、いい奴……?
私がそんなことを思い始めた、その時だった。
「あの……すみません」
控えめな声がかかった。
私たちのテーブルの横に、若い女性が立っていた。
少し顔を赤らめて、ユンジンを見つめている。
「えっと、ソ・ユンジンさん……ですよね?」
「!」
ユンジンの動きが止まる。
フォークを置き、ゆっくりと顔を上げた。
「……はい、そうですが」
「やっぱり! きゃーっ、どうしよう!」
女性は口元を押さえて小刻みに震え出した。
「ファンなんです! 雑誌、毎月買ってます! 今月号の特集のスーツ姿、すっごくカッコよかったです♡ あの、もしよかったら握手していただけませんか?」
ファン?
雑誌?
私が状況を飲み込めずにポカンとしていると――。
スッ。
ユンジンの雰囲気が一変した。
さっきまでの「口うるさいオカン」の顔が消え去り、そこには完璧な「スター」の微笑みが張り付いていた。
「ありがとうございます。いつも応援してくださって嬉しいです」
声のトーンまで違う。
低音で、甘く、包容力のある響き。
彼は立ち上がり、女性の手を優しく包み込んだ。
「こ、これに! サインお願いできますか!?」
「もちろんです。お名前は?」
彼は女性が差し出した手帳に、流れるような筆記体でサインを書き入れた。
その仕草の、優雅なこと。
K-POPアイドルが降臨したのかと思った。
ファンサ対応、完璧すぎる。
女性は夢見心地でサインを受け取ったが、ふと我に返ったように、チラリと私の方を見た。
「あの……そちらの方は……?」
彼女の目が細められる。
嫉妬。
値踏みするような視線。
「もしかして、彼女さん……とか?」
やばい。
空気が凍る。
ここで「はいそうです」なんて言われたら、私はこのファンの人に背中から刺されるかもしれない。
SNSで特定されて炎上案件だ。
私はブンブンと首を振ろうとした。
その時、ユンジンがサラッと言った。
「あぁ、彼女はボクのマネージャーです」
「へ?」
「今日は次の撮影の打ち合わせをしていまして」
彼はニコリともせず、事務的な顔で嘘をついた。
マネージャー。
なるほど、そう来たか。
女性の顔色がパッと明るくなる。
「あ、そうなんですね! すみません、お仕事中にお邪魔しちゃって! マネージャーさんも、すみません!」
矛先が向いてきた。
私は引きつった笑顔を貼り付け、必死に話を合わせた。
「い、いえいえ〜。いつもユンジンを応援していただき、ありがとうございますぅ〜。彼もファンの皆様の声が一番の励みになりますので〜」
誰だよ私。
胡散臭い業界人みたいな口調になってしまった。
女性は「頑張ってください!」と手を振って、満足げに去っていった。
嵐が去った後。
ユンジンはドカッと椅子に座り直し、大きなため息をついた。
「……ふぅ。驚かせたな」
スターのオーラは霧散し、いつもの仏頂面に戻っている。
私はストローを咥えたまま、彼をジト目で見た。
「ねぇ。どういうことだってばよ?」
「……何がだ」
「マネージャーって何さ。それに、今のファンサ。……ユンジンって、もしかして芸能人?」
彼はバツが悪そうに視線を逸らし、ポケットからスマホを取り出した。
そして、あるアプリの画面を開いて、私に見せてきた。
「……これ」
画面に映っていたのは、インスタグラムのようなSNSのプロフィール画面。
アイコンは、キメ顔のユンジン。
そして、フォロワー数の欄には『58.4万人』という数字が輝いていた。
「ご、ごじゅうはちまんにん!?」
インフルエンサーじゃん!
いや、それ以上だ。
「芸能人なんて大層なもんじゃない。……ボクは、この雑誌の専属モデルをやってるんだ」
彼はカバンから一冊のファッション誌を取り出した。
表紙には、著名な俳優。
ページをめくると、特集ページにユンジンが載っていた。
ハイブランドのスーツを着こなし、アンニュイな表情でポーズを決める彼。
本物だ。
修正いらずの美しさが、紙面から溢れ出している。
「学生時代にスカウトされて、副業として続けてるだけだ。本業はあくまでコンサルタントだから、会社ではあまり公にしてないんだけど……」
彼は少し恥ずかしそうに頬をかいた。
「バレたか」
バレたか、じゃないよ。
ハイスペックすぎるでしょ。
高学歴、エリート社員、顔面国宝、そして人気モデル。
天は二物を与えずって言葉、撤回したほうがいいよ。
『金貨の騎士、逆位置……』
明菜がカードをいじりながら呟く。
『「見栄っ張り」や「隠し事」。でも、この隠し事は……悪いものじゃなさそうね。彼にとって、モデルの仕事はもう一つのアイデンティティなんでしょ』
確かに。
仕事の話をする時の彼より、今の少し照れた顔の方が、人間味があって可愛く見える。
「へぇ……。すごいじゃん」
私は素直に感心した。
「私、サインもらっとこうかな。転売したら高く売れる?」
「売るな。あとで書いてやるから大事にして飾れ」
彼は呆れながらも、満更でもなさそうに笑った。
店を出たのは、二十時を回った頃だった。
スムージーとサラダで満たされたお腹は、ジャンクフードの時のような重たさがなく、体が軽い。
栄養が行き渡ったせいか、手足もポカポカしている。
「送るよ。駅まで」
「うん」
私たちは並んで歩き出した。
表参道の裏通り。
街灯に照らされた石畳の坂道は、ロマンチックで、デートの帰り道にはお誂え向きだ。
夜風が心地いい。
彼が貸してくれたジャケットからは、高級な柔軟剤の香りがする。
なんか……いい雰囲気かも。
同い年の友達。
オカンみたいに世話焼きだけど、ハイスペックなモデル。
そんな彼と、こうして夜道を歩いている。
悪くない。
いや、結構いい。
私は少し浮かれた気分で、カツカツとヒールを鳴らして歩いていた。
今日の私は「ソ・ユンジン特攻服」。
ミニスカートから伸びる脚のラインも、彼がチラチラ見ているのを私は知っている。
「なぁ、マリコ」
隣を歩くユンジンが、ふと口を開いた。
「ん?」
「明日も、また写真を送ってくれ。ボクがメニューをチェックする」
「えー、まだやるの?」
「当たり前だ。あんな食事、ボクが許さない」
ぶっきらぼうな言い方。
でも、その声はカフェにいた時よりも少しだけ柔らかくて、優しかった。
ふふっ、と笑みがこぼれる。
やっぱり、根はいい奴なんだ。
完璧主義で面倒くさいけど、私を気遣ってくれている。
私は彼の方を向き、何か言い返そうとして――。
ガッ。
「あっ」
足元で、嫌な感触がした。
石畳のわずかな溝に、ピンヒールの細い踵が深く食い込んだのだ。
抜けない。
足が取られる。
「――え」
体が、前のめりに傾く。
重心が崩れる。
「わっ……!」
視界がグラリと回った。
スローモーションのように、地面が迫ってくる。
転ぶ。
このままじゃ、顔面から石畳にダイブだ。
「マリコ!」
ユンジンの焦った声が聞こえた。
彼の手が、私に向かって伸びてくるのが見えた。
でも、もう遅い――?
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・職業:あざとい誘惑者(自爆寸前)
現在のステータス
・魅力:B+(特攻服の効果は絶大だったが、ヒールという諸刃の剣に足元をすくわれる)
・メンタル:B(いい雰囲気だったのに、物理的に転落中)
新規獲得アイテム
・【モデルのジャケット】:返し忘れた。残り香がヤバい。
・【石畳の溝】:恋の落とし穴(物理)。
【明菜の分析ログ】
おっと。
「好事魔多し」とはよく言ったものね。
いい雰囲気で油断した瞬間、足元をすくわれる。これぞ人生の縮図よ。
さぁ、ここからどうなる?
重力に従って地面にキスするか、それとも……?
次の瞬間、計算高い彼に「計算外」のバグが発生するわよ。




