第十六記録【水分補給はこの令嬢様にお任せ】
四月九日、火曜日。夕方。
ボリッ、ボリボリ。
「アハハハ! 無理、腹痛い! そこでそのオチはないって!」
特別監査室のピンク色のソファ。
私は行儀悪く寝転がり、堅焼き煎餅をかじりながら、スマホの画面をタップしていた。
画面に映っているのは、くだらないギャグ漫画。
昨日の凪による耳噛み事件のトラウマを癒やすには、こういうIQの低い笑いが必要なのだ。
平和だ。
笑いこそが正義。ドキドキとかサスペンスとか、もうお腹いっぱい。
『……ハァ』
ソファの背もたれから、ぬっと顔が現れた。
明菜だ。
彼女は私のスマホ画面を覗き込み、心底つまらなそうに鼻を鳴らした。
『なにこの予定調和なオチ。全然面白くなーい。昭和のコント番組?』
このベタなのがいいんじゃん。悪魔にはこの平和な面白さがわかってたまるか。
私は煎餅をかじりながら、毒づいた。
いちいち水を差すな。
明菜なんか、十字架でも押し付けられて、断末魔の叫びと共に消滅しちゃえばいいんだ。
明菜はニヤリと口角を吊り上げた。
『残念でした〜♡ 十字架も聖水も、このアタシには効かないの。だってアタシは、悪魔キューピッドだもの!』
彼女はバサッと、何枚ものカードを私の目の前に突き出した。
シュパパパッ!
【THE CHARIOT(戦車)】
【STRENGTH(力)】
【THE EMPEROR(皇帝)】
どれもこれも、筋肉質で暑苦しいカードばっかりだ。
『さぁ、行って行って♡ そんなくだらないギャグ漫画よりも、もっとエキサイティングで面白いことが下の階で起きるわよ!』
えー……行きたくない。まだ耳がジンジンするし……
『問答無用! 着替えなさい! ドレスコードは動ける服よ!』
明菜の手からピコピコハンマーが出現し、私の頭をポカポカと叩き始めた。
うざい。物理的にうざい。
私は降参して、渋々立ち上がった。
クローゼットから引っ張り出したのは、ブランド物のスポーティなセットアップ。
上は白のウィンドブレーカー、下は黒のショートパンツにレギンス。
髪は邪魔にならないよう、高い位置でポニーテールに結い上げた。
「……で、どこ行けって?」
『エントランスよ。運命が待ってるわ』
私はため息をつきながら、エレベーターに乗り込んだ。
何が起きるかも知らずに。
一階、エントランスホール。
夕方のロビーは、退社する社員たちで賑わっていた。
私は柱の影に隠れて、周囲を伺った。
「面白いことなんて起きてないじゃん……。帰っていい?」
回れ右をして帰ろうとした、その時。
「おっ! いたーーー!!」
ズドン! と空気が震えるような大声が響いた。
ビクッとして振り返る。
向こうから、巨大な影が突進してきていた。
茶髪の短髪。
はち切れんばかりの筋肉を包んだユニフォーム姿。
大山田大樹だ。
「茉莉子ちゃーん!」
「ヒッ、大樹!?」
彼はブレーキをかける様子もなく、私の目の前まで迫ってきた。
そして。
「頼む! マネージャーが一人足りなくてさ! 手伝ってくれ!」
「えっ、ちょっ、無理――」
私の拒否権など、彼の筋肉の前では無力だった。
ガシッ。
太い腕が私の腰に回る。
次の瞬間、視界がぐるりと回った。
「うわぁっ!?」
私は米俵のように、彼の肩に担ぎ上げられていた。
お姫様抱っこより安定感があるのが逆に腹立つ。
「ちょ、降ろして! 拉致! これ拉致だから!」
「ニャハハ! 暴れんなって! すぐ終わっから!」
彼は私を荷物みたいに抱えたまま、エントランスを堂々と突っ切っていく。
周りの社員たちが「おぉ……」「さすが建設部……」と謎の感嘆の声を上げて道を譲る。
恥ずかしい!
ポニーテールが揺れるたびに、私のプライドも揺れ動く。
連行された先は、本社敷地内にあるフットサルコートだった。
ナイター照明が眩しい。
男たちの熱気と掛け声が響いている。
ドン。
私はベンチに降ろされた。
「ここ座っててくれ! 仕事は簡単、俺たちが戻ってきたら水を渡す! それだけだ!」
大樹は私の手にスポーツドリンクのボトルを握らせると、ニカっと笑った。
「じゃ、行ってくるわ!」
言うが早いか、彼はコートの中へと駆けていった。
「はぁ?」
私はボトルを持ったまま呆然とした。
何これ。
強制イベント? マネージャー体験クエスト発生中?
ピーッ!
ホイッスルが鳴り、試合が始まった。
私は不貞腐れながらも、コートに目を向けた。
どうせ、社員同士の馴れ合いサッカーでしょ。
……と思っていた私が甘かった。
「どらぁぁぁっ!!」
大樹の雄叫びが響く。
彼の動きは、人間離れしていた。
速い。
そして重い。
相手チームのディフェンダーが体当たりしても、彼は岩のようにビクともしない。
逆に相手が弾き飛ばされている。
フィジカルお化けだ。
当たり判定がおかしい。スーパーアーマー付きのボスキャラじゃん。
「すげぇ……」
思わず声が出た。
昨日の凪みたいな「絡め手」や「心理戦」は一切ない。
ただひたすらに、パワーと速さだけでねじ伏せるスタイル。
見ていて清々しい。
脳筋ここに極まれり、って感じだ。
『アレクサンダー大王は言ったわ』
いつの間にか隣に座っている明菜が、ポンポンを振りながら叫んだ。
『「最強の者が勝つのではない、勝った者が最強なのだ」ってね! 見なさいあの躍動する筋肉! 輝く汗! これぞ雄のプリミティブな魅力よ!』
確かに。
照明に照らされて光る汗。
真剣な眼差し。
ボールを追う姿は、大型犬というより、獲物を追うライオンに近い。
その時。
コーナーキックからの高いボールが上がった。
「大山田! 頼む!」
味方のパスに合わせ、大樹が跳んだ。
高い。
滞空時間が長い。
空中で体が弓なりに反り、強烈なボレーシュートが放たれる。
ドォォォォン!!
ボールがゴールネットに突き刺さった。
キーパーが一歩も動けないほどの豪速球。
「うおおおおおッ!!」
歓声が上がる。
チームメイトが大樹に駆け寄る。
でも、彼はそれを振り切って、真っ直ぐにこちらを見た。
ベンチに座る私の方を。
目が合う。
距離はあるはずなのに、彼の熱が伝わってくるようだ。
彼は私に向かって指をさし、そして――。
バチコーン☆
音が聞こえそうなくらい派手なウインクを飛ばした。
「見たかオラァ!」
白い歯がキラリ。
親指を立ててサムズアップ。
「……っ!」
ドキン。
不覚にも。
本当に不覚にも、胸が高鳴ってしまった。
何あれ。
昭和のアイドル? 少年漫画の主人公?
ダサい。めちゃくちゃダサいのに。
なんでこんなに……カッコいいのよ。
昨日の凪の、湿度の高い色気とは真逆だ。
カラッとしていて、熱くて、眩しい。
太陽直下型のフェロモン攻撃。
「……くっ、悔しいけど……ナイスシュート」
私はボトルを握りしめ、顔が熱くなるのを感じた。
これは吊り橋効果だ。
あの迫力に当てられただけだ。
そう自分に言い聞かせるけど、心拍数は嘘をつかない。
やっぱり、この筋肉……侮れない。
『あらあら♡ 単純な女ねぇ』
明菜が私の顔を覗き込んでニヤニヤしている。
『直球ストレート、ど真ん中に刺さったみたいじゃない?』
うるさい。
今はただ、あの勝利の余韻に浸らせてよ。
コートの中で揉みくちゃにされている大樹を見ながら、私は小さく息を吐いた。
昨日のドロドロした気持ちが、少しだけ晴れた気がした。
……ま、スポーツ観戦も悪くないかもね。
見るだけなら、安全だし。
そう思っていた私は、まだ気づいていなかった。
試合が終わった後の、「野生の接近戦」がこれから始まることに。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・職業:強制連行マネージャー
現在のステータス
・魅力:B(ポニーテールによるうなじ露出効果で、スポーティ補正あり)
・メンタル:C(凪の毒が抜け、単純な熱気に当てられている)
新規獲得アイテム
・【勝利のウインク】:防御力無視の精神攻撃。
・【筋肉へのときめき】:脳筋だと馬鹿にしていた相手に見せる隙。
【明菜の分析ログ】
やっぱりスポーツマンはいいわねぇ!
小細工なしのパワープレイ。これぞエンターテイメントよ。
凪みたいな変化球で崩された後は、こういう直球が一番効くのよ。
「ギャップ萌え」ならぬ「バカ萌え」?
さぁ、試合は終わったけど、ここからが延長戦よ。
汗だくの野獣が戻ってくるわよ? 覚悟しなさい♡




