第十五記録【犬歯で噛んだら痛いだろう】
ザッ、ザッ、ザッ。
乾いた足音が遠ざかっていく。
私は金網のフェンスにへたり込んだまま、凪の背中を見送っていた。
終わった。
地雷を踏んで、爆発して、ゲームオーバーだ。
あんなに懐いてくれていた「弟」はもういない。
そこにいるのは、不機嫌に尻尾を下げて去っていく、冷たい他人の男だけ。
心臓が痛い。
胃が重い。
デバフ効果がエグい。
「はぁ……」
ため息をついて、私も立ち上がろうとした。
これ以上ここにいても惨めなだけだし。早く部屋に戻って、布団被ってログアウトしたい。
その時だった。
屋上の出口、重い鉄扉に手をかけていた凪が、足を止めた。
どうしたんだろう。
忘れ物?
彼は扉ノブを握りしめたまま、しばらく動かなかった。
そして。
低く、何かを呟いたのが風に乗って聞こえた気がした。
「やっぱ、だめだ」
くるりと、彼が振り返る。
逆光で表情が見えない。
でも、その雰囲気がさっきまでとは明らかに違っていた。
ザッ、ザッ、ザッ。
戻ってくる。
さっきよりも速い足取りで。
迷いのない、一直線の軌道で。
「な、凪……?」
私は反射的にフェンスに背中を押し付けた。
逃げ場なんてないのに。
私の目の前まで来ると、彼はドカッと乱暴に腰を落とし、しゃがみ込んだ。
へたり込んでいる私と、目線の高さを合わせるように。
至近距離。
さっきよりも近い。
彼の匂いが、鼻腔を埋め尽くす。
「……っ」
怖い。
ワンコでも。狼でもない。
これは、もっとタチの悪い、飢えた獣だ。
凪は私の目をじっと覗き込んだ。
その瞳は、深緑の宝石みたいに綺麗なのに、底が見えないくらい暗く濁っている。
「戻ろうと思ったんですけど」
彼が口を開く。
声が低い。腹の底に響くようなベース音。
「このままじゃ、アンタ……また俺のこと、可愛い弟として処理しそうで」
図星だ。
私は「怒らせちゃったな、あとでお菓子でもあげて機嫌とろう」なんて、甘いことを考えていた。
彼は呆れたように吐息を漏らすと、私の頬に手を伸ばしてきた。
「ひっ」
ビクッと震える私を無視して、彼の手が私の髪をかき上げる。
耳が露わになる。
彼の指先が、私の耳たぶを熱くなぞった。
「一条さん」
呼ばれた名前に、体が強張る。
「……ううん、違うな」
彼は首を横に振った。
そして、獲物を定めるように目を細め、言い直した。
「茉莉子さん」
ドクンッ!!
名前。下の名前。
今まで「一条さん」だったのに。
急に距離を詰めるな。バグるだろ。
「言葉だけじゃ、足りないですよね?」
「え……?」
「鈍感な茉莉子さんには、痛みで教えないとわかんないみたいだから」
彼はニヤリと笑った。
その笑顔は、いつものワンコの笑顔に似ていて、でも決定的に違っていた。
残酷で、サディスティックで、どうしようもなく色っぽい男の笑み。
彼が顔を近づけてくる。
キス?
いや、角度が違う。
彼の唇が、私の無防備な耳元へ寄せられる。
熱い吐息が、鼓膜を直接揺らす。
「……っ!」
ゾクゾクと背筋を悪寒にも似た快感が駆け上がる。
次の瞬間。
ガブリ。
「あ……っ!?」
噛まれた。
耳たぶを。
それも、甘噛みなんて生易しいものじゃない。
犬歯を立てて、肉を食いちぎる勢いで、深く。
「んっ……い、た……」
鋭い痛みが走る。
でも、彼は離さない。
むしろ、逃がさないとばかりに強く吸い付いてくる。
チュッ、ジュルッ……。
水音が響く。
いやらしい音。
鼓膜のすぐそばで、自分の耳が犯されているような音がする。
熱い。
舌が、湿った感触が、耳の形をなぞるように這い回る。
タバコの匂いが、彼の唾液を通じて私の中に侵入してくる。
なにこれ。
なにこれなにこれなにこれ!
キスよりヤバい。
脳髄が溶ける。
脊髄反射で力が抜けて、私はフェンスにしがみつくことしかできない。
「んぅ……な、ぎ……やめ……」
抗議の声は、情けない吐息に変わってしまう。
彼はそれを楽しむように、さらに強く歯を立てた。
カリッ。
「ひぁっ!」
痛い! でも、熱い!
痛覚と快楽の回路が混線する。
しばらくの間、彼は私の耳を執拗に貪り続けた。
まるで、そこに自分のマーキングを刻み込むみたいに。
やがて。
プハッ、と彼が唇を離した。
耳がジンジンと熱い。
唾液で濡れて、外気に触れるとひやりとする。
目の前には、満足げに唇を舐める凪の顔があった。
「……痛い?」
彼は私の涙目を見て、優しく問いかけた。
私を支配する、男としてのタメ口だ。
「我慢して。……俺だって、だいぶ我慢してんだから」
彼は親指で、濡れた私の耳たぶをグリグリと拭った。
その仕草だけで、私の腰の力が完全に抜ける。
「これで、わかった?」
彼は私の顔を覗き込み、悪戯っぽく、でも絶対的な自信を持って笑った。
「俺のこと……男として意識した?」
「……」
反論なんてできるわけがない。
耳が燃えるように熱い。
心臓が肋骨を折る勢いで暴れている。
弟?
無理だ。こんなことしてくる弟がいてたまるか。
これは、オスだ。
私を食おうとしている肉食獣だ。
私が真っ赤な顔で頷くのを見て、彼は「よし」と満足げに立ち上がった。
「じゃ、仕事戻りますね。茉莉子さん」
彼は最後に私の頭をポンと撫でた。
それは「よしよし」というより、「待て」を命じる飼い主の手つきだった。
今度こそ、彼は振り返らずに去っていった。
鉄扉が閉まる音が、重く響く。
残されたのは、私と、青すぎる空と、濡れた耳の感触だけ。
「……嘘でしょ」
私は自分の耳を押さえた。
熱い。
彼の歯型が残っているんじゃないかと思うくらい、痛みが鮮明だ。
「なにあれ……なにあれぇ……」
私のキャパシティは完全にオーバーフローしていた。
リアルってこんなにハードモードなの?
CEROレーティングZ指定じゃん、今の。
私はフラフラと立ち上がり、ゾンビのような足取りで監査室を目指した。
誰にも会いませんように。
特に、この耳の赤さを見られたら、社会的に死ぬ。
特別監査室。
私のセーフハウス。
「お嬢様?」
入るなり、直之が心配そうな声を上げた。
今の私は、幽霊よりも酷い顔色をしているに違いない。
いや、顔色は赤いのか。のぼせた茹でダコ状態だ。
「……なんでもない」
私は直之の視線を遮るように顔を伏せ、靴を脱ぎ捨てて、天蓋付きベッドへとダイブした。
フカフカの布団。
この中に潜れば、世界から遮断されるはずだ。
でも。
ドクン、ドクン、ドクン。
うるさい。
布団の中でも、自分の心臓の音がうるさすぎて気が狂いそうだ。
耳に残る感触。
『茉莉子さん』という低い声。
ジュルッ、という水音。
あーッ!!
思い出すだけで発火しそう!
私は布団の中で丸まり、枕に顔を埋めて無言の悲鳴を上げた。
助けて。ログアウトボタンどこ。強制終了させて。
「お嬢様……お顔が真っ赤です。お熱があるのでは?」
直之の声が近づいてくる。
彼は私の異常事態を「風邪」だと誤認したらしい。
幸せな勘違いだ。
この火照りが「発情」に近い動揺だなんてバレたら、直之は凪を抹殺しに行きかねない。
「違う、熱じゃない……」
「いえ、この時期の風邪は長引きます。温かい日本茶をご用意いたしました。カテキンがウイルスを撃退します」
枕元に置かれる湯呑み。
渋いお茶の香り。
普段ならホッとする香りだけど、今はさっきの凪のタバコの匂いが鼻の奥にこびりついていて、上書きできない。
「……ありがと」
私は布団から手だけ出して、湯呑みを受け取った。
ズズズ……。
熱いお茶が喉を通る。
少しだけ、乱れたパルスが落ち着く気がした。
『あらあら。随分と激しい「洗礼」を受けたみたいね』
頭上から、からかうような声が降ってきた。
彼女は天蓋のレースにぶら下がりながら、ニヤニヤと私を見下ろしている。
見ないでよ。
今の私は、彼女の軽口に付き合えるほど余裕がない。
『サドは言ったわ。「痛みこそが愛のスパイスだ」ってね』
――サドとか、また偉人の引用やめて。洒落になってないから。
明菜はフワリと降りてきて、私の枕元に座った。
そして、パチンと指を鳴らす。
『ほら、見てみなさい。アンタを食べようとした狼さんの、現在のステータスよ』
私の目の前に、半透明のウィンドウが強制ポップアップする。
見たくないのに。
【雨宮 凪のステータス】
好感度: 計測不能 ※純粋な好意とは別種の感情が混入
性欲値: 限界突破
茉莉子に対する印象: 躾が必要な女
「……っ!」
私はお茶を吹き出しそうになった。
なによこれ。
バグってるじゃん。
「躾が必要な女」って何!?
どのエロゲの攻略対象!?
『好感度5なんて生温いもんじゃなかったわね』
明菜がウィンドウをツンツンとつつく。
『これは「執着」よ。アンタが弟だと思って油断してる間に、向こうはアンタを完全にロックオンしてたわけ。……ま、自業自得ね』
自業自得。
その通りすぎて反論もできない。
私は布団を頭まで被り直した。
耳がまだ、ジンジンと痺れている。
これはマーキングだ。
「お前は俺の獲物だ」という、消えない刻印。
明日から、どんな顔して彼に会えばいいの?
無理だ。
私の平穏な社内ニート生活は、今日をもって完全に崩壊した。
直之が心配そうに「お粥もお作りしましょうか?」と聞いてくる声をBGMに、私は現実逃避という名の深い眠りにつこうと必死に目を閉じた。
でも、瞼の裏には、あの肉食獣の笑みが焼き付いて離れなかった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・職業:捕食された獲物
現在のステータス
・魅力:A+(耳を赤くして震える姿が、さらに嗜虐心を煽る結果に)
・メンタル:E(再起不能。完全にトラウマレベルのドキドキ)
新規獲得アイテム
・【凪の歯型(見えない刻印)】:所有権を主張する呪いのアイテム。
・【男のタメ口】:弟キャラ崩壊の合図。
【明菜の分析ログ】
いや〜、エグいわね。
最近の若い子は草食系だなんて誰が言ったのかしら?
ロールキャベツ系男子?
いいえ、あれは「羊の皮を被った狼」よ。
これでアンタは彼から逃げられなくなった。
「弟」という安全地帯は消滅したのよ。
さぁ、次はどうする?
明日は筋肉ダルマのターンよ。
肉食獣の次は、重戦車のお出ましね。……体が持つかしら?




