第十四記録【追い詰めないで、時間を止めないで】
四月八日、月曜日、昼。
カシャン。
テーブルの上に一枚のカードが滑り出した。
「……何これ」
私はコンビニの袋を片手に、眉をひそめた。
特別監査室の豪奢なローテーブル。
そこに鎮座しているのは、紫のスーツを着た悪魔。
彼女は長い足を組み、不敵な笑みでカードを指差した。
『今週の茉莉子の運命♡』
そこに描かれていたのは、崖っぷちを陽気に歩く、派手な服を着た若者の絵。
【THE FOOL(愚者)】
「愚者? ……バカってこと? 初手から煽り?」
『ご明察。意味は「自由」「純粋」……そして「無謀」よ』
明菜がカードをクルクルと回す。
『今の茉莉子はまさにこれ。崖っぷちにいることに気づかず、空を見上げてヘラヘラ笑ってる馬鹿者。……無防備に歩いてたら、そのまま真っ逆さまよ?』
「縁起でもないこと言わないでよ」
私は鼻で笑った。
崖っぷち? 何を言うか。
先週の私は、確かにボロボロだった。
でも、土曜日の凪とのデートで、私のMPは全回復してるんだから。
ブブッ。
スマホが震えた。
画面を見る。
表示名は『雨宮 凪』。
『天気がいいですね。屋上でランチしませんか? 場所、確保しました』
ドクン。
心臓が跳ねた。
脳裏に蘇る、スクーターでの背中の温もり。
ファインダー越しに向けられた、あの熱っぽい視線。
あの時のお姉さんという甘い響き。
あぁ、もう。
ドキがムネムネする。
「……行く! 即レス!」
私は明菜の忠告なんて右から左へ受け流し、コンビニで買ったチョコデニッシュとミルクティーを掴んで、部屋を飛び出した。
『忠告はしたわよ……?』
背後で聞こえた明菜の呆れ声は、もう耳に入らなかった。
屋上への重い鉄扉を開ける。
ヒュオオオッ!
強い風が吹き抜けた。
「うわ、風つよっ……でも気持ちいいー」
雲ひとつない快晴。
私は指定された裏手へと回った。
そこは、壁に囲まれた死角になっていて、確かに誰も来なさそうな秘密基地感がある。
「凪くーん、お待たせー……」
声をかけようとして、私は足を止めた。
そこにいたのは、私の知っているワンコじゃなかった。
コンクリートの縁石に腰掛け、長い足を投げ出している青年。
彼は空を見上げ、細い指先で何かを挟んでいた。
タバコだ。
スーッ……。
彼が深く煙を吸い込み、ゆっくりと青空に向かって紫煙を吐き出す。
気怠げな横顔。
伏せられた睫毛。
首筋のライン。
「……っ」
私は息を飲んだ。
え、タバコ吸うんだ……。
意外だった。
健康的なイメージだったのに。
でも、その紫煙をくゆらす姿が、悔しいくらいに様になってる。
年下のくせに、なんであんなに色気があるのよ。
なんか……セクシーだ。
大人の男の人って感じがして、見てはいけないものを見たような背徳感がある。
その時、凪が横目でこちらに気づいた。
一瞬だけ、鋭い光が宿る。
でも、すぐに彼はタバコを携帯灰皿に押し込み、パッと表情を変えた。
「あ、一条さん! こっちです!」
ニカッ。
いつもの、人懐っこい笑顔。白い歯がキラリと光る。
さっきのアンニュイな表情はどこへやら。
そのギャップに、私の心拍数は勝手にBPMを上げていた。
「……お待たせ。ここ、いい場所だね」
私は平静を装い、彼の隣に腰を下ろした。
「でしょう? ここは誰もこないのでお気に入りなんです」
彼はニコニコしながら、コンビニ袋を取り出した。
中から出てきたのは、ラップに包まれた二つのおにぎりと、お茶のペットボトル。
対する私は、甘ったるいチョコデニッシュと、紙パックのミルクティー。
……格差すごくない?
どっちが女子だよ。
「それ、手作り?」
「はい。わかめの混ぜ込みですけど」
わかめ……。
具材のチョイスが渋い。家庭的すぎる。
ユンジンのプロ級弁当とは違う、実家のような安心感。
私たちは並んで座り、お昼を食べ始めた。
会話はない。
風の音と、遠くの街の喧騒だけが聞こえる、心地よい静寂。
隣に彼がいるだけで、HPが徐々に回復していくリジェネ効果を感じる。
ふわり。
私の視界の端に、明菜が浮かんでいた。
彼女は凪を見下ろし、厳かに呟いた。
『ゲーテは言ったわ。「光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる」ってね』
明菜が私の方を向き、警告するように指を振る。
『この穏やかな陽だまり……その裏に、どんな影が潜んでるか。お馬鹿さんな愚者には見えてないみたいね』
影?
何言ってんの。
こんなに爽やかじゃん。癒やしじゃん。
タバコ吸うくらい、男の子なら普通でしょ。
私は明菜の言葉を脳内ミュートした。
今の私は太陽のバフがかかってるんだから、ネガティブな発言はノーサンキューだ。
お腹がいっぱいになると、眠気がやってきた。
ポカポカとした陽気。
風に乗って、凪から微かにタバコの残り香と、洗剤の匂いが漂ってくる。
私はチョコデニッシュの袋を畳みながら、ぼんやりと空を見た。
「ふぁ〜……」
大きなあくびが出る。
完全にガードが下がっていた。
装備解除。丸腰状態だ。
「なんか、凪くんといると落ち着くなぁ」
「……そうですか?」
「うん。会社の人たち、みんなキャラ濃いし。戦闘民族(大樹)とかマッドサイエンティスト(剣崎)とかオカン(ユンジン)とか……」
私は膝を抱え、へへへと笑った。
「その点、凪くんは癒やしだよ。マイナスイオン出てる」
凪は何も言わず、ただ静かに私を見ていた。
その沈黙を肯定だと受け取った私は、一番踏んではいけないスイッチに足を乗せてしまった。
「もし、死んだ弟が生きてたら……こんな感じだったのかなぁ」
凪がペットボトルを持ち上げかけて、ふっと動きを止めた。
「……弟?」
声のトーンが落ちた気がした。
でも、空を見上げている私は気づかない。
「そう、弟。……お母さんと一緒に、出産の時に亡くなっちゃったんだ」
私は少しセンチメンタルな気分に浸りながら、語り続けた。
「だから会ったことはないんだけどね。もし生きてたら、きっと凪くんみたいに優しくて、可愛くて……ちょっと生意気な子だったんだろうなって」
私は彼の方を向き、姉としての慈愛に満ちたつもりの笑顔を向けた。
「だからかな。凪くんのこと見てると、なんか放っておけないっていうか……」
言い終わる前だった。
ガタッ。
凪が立ち上がった。
その動きは唐突で、私はビクッと肩を揺らした。
「あ、もう時間? 行く?」
私も慌てて立ち上がろうとする。
けれど。
凪は無言のまま、私に近づいた。
一歩。また一歩。
近い。
圧がすごい。
さっきまでの、尻尾を振っていたハスキー犬の気配が消えている。
代わりに膨れ上がってきたのは――土曜日に感じた、あの捕食者の気配。
「え、ちょっ……」
私は反射的に後ずさりした。
ガシャン!
背中が硬いものにぶつかる。
金網のフェンスだ。
逃げ場がない。
ダンッ!
凪が私の顔の横、フェンスの網目に手をついた。
いわゆる網ドンだ。
「な、凪く……?」
見上げた先にある彼の瞳。
そこにはもう、光なんて宿っていなかった。
あるのは、深く、暗く、飢えたような――肉食獣の色。
鼻をくすぐるタバコの匂い。
吐息がかかる距離。
彼は私の目を射抜くように見つめ、腹の底に響くような低い声で囁いた。
「……凪くん、じゃなくて」
「へ……?」
「凪って呼んで」
命令形。
拒否を許さない響き。
私がパクパクと金魚のように口を動かしている間に、彼はさらに顔を近づけてきた。
唇が触れそうな距離。
「それと」
彼の目が細められる。
ゾクリとするような冷たさと、熱が同居している。
「俺を、弟扱いしないでほしい」
「……ッ!」
「俺、一回も……アンタのこと、お姉ちゃんだなんて思ったことないから」
ドクンッ!!
時が止まった。
思考回路がショートする。
姉さんじゃない?
じゃあ、何?
その瞳が語っている言葉の意味を理解した瞬間、私の脳内で警報が鳴り響いた。
ひぃぃぃぃっ! なにこれ! モード反転!?
ヤバババ! 地雷踏んだ! しかも特大のやつ!!
弟じゃないなら何!?
その目は何を見る目なのーー!?
その目は……
「女」を見る目。
それも、ただの異性じゃない。
獲物を狙う、雄の目だ。
「……」
凪はフッと、自嘲気味に口角を上げ。
そして、パッと私から離れた。
「……午後の仕事、戻りましょうか」
背中を向け、彼はスタスタと歩き出した。
その背中は、さっきまでの「可愛い年下」とは全く違う、大きく、恐ろしいものに見えた。
私はフェンスにへばりついたまま、へなへなと座り込んだ。
心臓が痛い。
明菜の予言通りだ。
私は、崖っぷちから真っ逆さまに突き落とされたのだ。
太陽の裏側にある、濃すぎる影に。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・職業:地雷処理班(失敗)
現在のステータス
・魅力:B(無防備さが仇となり、獣の本能を刺激)
・メンタル:D(パニック状態。リジェネ効果消失)
新規獲得アイテム
・【凪の本性】:タバコと独占欲。
・【弟禁止令】:破ったら噛みつかれる絶対のルール。
【明菜の分析ログ】
言わんこっちゃない。
「可愛い」なんてラベル貼って油断してるから、中身の猛獣に気づかないのよ。
さぁ、スイッチは入っちゃったわよ?
ここからが本当の「鬼ごっこ」の始まりね。
逃げ切れるかしら?
それとも……食べられちゃう?




